ハロウィンの前準備
ハロウィンというか1100pt企画。
大学に入って、面倒なことも多いけれど、それなりに充実した毎日を送っていた。
それなのに、その電話はある日突然かかってきた。携帯電話に映し出された『忠海桜』の文字で嫌な予感しかしなかったけれど、出ないという選択肢はなかったので、ほぼ必然だったといえる。
『で、遊馬はなに物思いにふけっているの?』
「いや、桜ちゃんは毎回唐突だなって思って」
『まあ、確かにね。でも、遊馬も了承したんだから、諦めるしかないんじゃないかな?』
「ユメも楽しんでるだろ」
『遊馬が女装ってしてくれそうになかったからね。
一誠が女装するって言ったら、全力で冷やかしに行くでしょう?』
「それもそうだな」
『だけど、遊馬は冷やかされないと思うよ』
「俺もそう思う」
その辺振り切るのはかつての得意分野だから、出来ないこともないだろうし、俺だけが普段と違う格好をするわけでもない。
問題があるとすれば、声か。
「女装している間ずっと喋らないっていうのは、アリだと思うか?」
『声だよね。できれば、可愛い声で話してほしいけど、わたしと入れ替わっちゃうもんね。
でも、無理だと思うよ? 桜ちゃんと翠さんと希さんは確実に来るし、憧子ちゃんの誤解を解くのがメインの目的だし』
「誤解自体は解けていると思うんだけどな」
『だからこその、きっかけでしょ?』
わかっているからこそ、ユメの指摘は容赦がない。
さて、なんでこんなに現実逃避をしているかといえば、今日桜ちゃんがやってくるから。
何でも、この日のために培ってきた技術を見せるのだそうだ。
◇
1人暮らしということになっている家のチャイムが鳴る。
ユメと俺とで2人暮らしということにしても、こちらは問題ないのだけれど、法律とかなんとか考えると、1人暮らしが良いらしい。
俺達の法的な扱い云々に関しては、雪先輩に一任している。自分たちのことだからと前に一度聞いてみたのだけれど、正直話半分くらいしか理解できなかった。
それは今は良いとして、部屋の扉を開ける。
やってきたのは、白と茶色で大人っぽく決めた桜ちゃん。大学生になって制服が不要になってからというもの、桜ちゃんは非常にたくさんの服を着ている。
子供っぽいものから、大人っぽいもの、ありふれたものから、個性的なものと実に楽しそうだ。
「先輩お久しぶりです」
「少し前に電話で話したけどな」
「電話は電話ですよ」
「じゃあ、一人で男の家に来るもんじゃないって言っておくか?」
「以前泊めたくせに、いまさらそんなことを言われてもって感じですね」
「まあそうだな」
別に桜ちゃんに何かするわけでもない。
むしろ今日は俺が桜ちゃんに何かされる側になるわけだし。
「とりあえず上がってくれ。大体は覚えているだろう?」
「はいはい。勝手知ったる他人の家ってことで、自由にさせてもらいます」
「勝手を知られるほど来たことはないはずだけどな」
「先輩と桜の仲ですから」
楽しそうに笑った桜ちゃんは、それでも俺の後ろをついて歩く。
廊下があってリビングに入り、リビングから寝室とキッチンに繋がっている。
トイレとお風呂は廊下から。大学生が住むには少し広い家かもしれないけれど、ユメと2人と考えると狭いといえるそんな部屋。
実際問題、住もうと思えば一軒家にだって住めるけれど、どうにもその辺りユメも俺も物欲が薄いのだ。
桜ちゃんにはリビングにあるソファに座ってもらって、キッチンに行ってお湯をわかす。
「何か飲みたいものは?」
「ではオリジナルブレンドでお願いします」
よくわからない注文が来たので、コーヒーとココアとミルク、それから黒蜜でも混ぜてやることにする。ついでに「ユメは?」と聞くと『じゃあ、ココアかな』と返ってきたので、マグカップを二つ用意して、市販のココアを入れる。
そして桜ちゃん用のカップにインスタントコーヒーと、黒蜜を突っ込んで、お湯が沸くのを待つ。
『なんか昔、舞ちゃんと遊馬が、桜ちゃんを喫茶店で待っていたことがあったよね?』
「確か俺が初代ドリムとして、収録したときか」
『そうそう。その時、桜ちゃんがオリジナルブレンドを頼んでたな、って思って』
「俺はココア飲んでたんだったか」
それでココアを飲みたいと言ったのか。
でも、その喫茶店で最初に飲んでいたのは、カフェオレだったような。まあ、どちらでもいいか。少なくともブラックではないのは確定だし。
「今日はたぶんユメと入れ替われないけど、大丈夫か?」
『別に毎日入れ替わらないといけない、ってわけじゃないからね。
何だったら、数日くらい遊馬でいてもいいんだよ?』
「それは却下」
お湯が沸いたので、マグカップ2つに半分ずつくらい入れてから、ミルクを足す。
以前ココアなのになんで、お湯入れた後でミルク入れるの? と聞かれたけれど、ミルクは入れたいけれど、温めるのが面倒だし、何より高い。
お金には困っていないけれど、変なところで節約してしまう傾向がある。
「話は戻るけど、あの時桜ちゃんが飲んでたのって、ブラックだったよな」
『凄いよね。高校生でブラックコーヒーが飲めるなんて。
わたし達もいつか飲めるようになるものなのかな?』
「飲もうとしていないから無理だろ。いまも飲めなくはないはずだけどな」
『おいしくは飲めないよね?』
「無理だなぁ」
二つのカップをもってリビングに行くと、桜ちゃんがニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「先輩方は何をいちゃついていたんですか?」
「普通に雑談してただけだな」
「なんだか桜の話題が出ていたようですが」
「あぁ。昔、桜ちゃんが喫茶店で、オリジナルブレンドを頼んでいたなって話だ」
「良くある話なので、いつのことかさっぱり何ですが」
「アカペラ収録した日」
「なるほど、了解です。ありましたね」
「で、良くブラックコーヒー飲めるな、って話になった」
「先輩方は飲めませんからね」
桜ちゃんはからかうように笑ってから、カップの中身を確認して、もの言いたげな目を向けてくる。
「その話題が出ていた割には、桜のブラックじゃないんですね」
「うちでブレンドしようとしたら、他に選択肢がなくてな」
「何混ぜたんですか」
「飲んでからのお楽しみだ。飲めないものは入れてない」
「全部当てたら、今日女装した状態で外に連れて行きますからね」
おっと、余計なことをしたばかりに、余計な約束をねじ込まれてしまった。
割と難易度は高めだと思うけれど、どうだろうか。
恐る恐る桜ちゃんがカップに口をつけるのを横目に見ながら、ココアを飲む。
飲みなれた、ほっとする味わいに、思わず息を吐いた。
「とりあえず、コーヒーとミルクは確実ですよね」
俺が和んでいる隣で、桜ちゃんが必死に中身を当てようとしているので、「そうだな」と情報を確定させてやる。
「あといくつ混ぜましたか?」
「教えてもいいけど、間違えたら即失格な」
「それでいいですよ」
「あと2つだ」
「だったらココアとはちみつです」
「残念。ココアと黒蜜」
「なんでこの家、黒蜜とかあるんですか」
何でと言われても、面白半分に買ってきたからとしか。『あれは衝動買いだったよね』とユメが言う通り、まさに見てほしくなって勢いで買った。
別に使う予定があったわけでもないので、何かに使えないかとやっていたけれど、せいぜい食パンにぬって焼くとか。
ホットケーキにかけてもおいしかった。
「それで、今日はハロウィンの確認に来たんだよな?」
「そうです。さすがに当日ぶっつけ本番でメイクして、中途半端になってしまったら、それはそれで面白いかもしれませんが、臨むところではないですからね」
「本音は抑えてくれ」
「まあ、さっそくやってみますね」
俺の言葉を無視して、桜ちゃんが自分の荷物を広げる。
中身はウィッグとメイク道具。ウィッグは長いものから、短いものまで3種類。
無駄に桜ちゃんの本気度が見える。
「とりあえず、ウィッグ被ってみてください。
やり方はわかりますか?」
「いや。ただ頭にのせるものじゃなさそうだな」
「まあ、難しくはないので、このネットをまずつけてください」
付属のネット――ウィッグネット――を渡されて、それで髪をすべて覆いこむように被る。
そしたら、桜ちゃんがウィッグを載せるので、任せることにした。
「結局は端から見て、違和感がなければいいんです」
「で、今の状態は違和感がないのか?」
「違和感しかないですよ? 遊馬先輩の髪が長いんですから」
『ちょっと見て見たいかも』
「鏡で見てきて良いか?」
「良いですよ。桜は準備しておきますから」
了承を得たので、頭に物理的な違和感を覚えつつ、寝室に入る。
いつだったか、姿見もないのかと妹に怒られたので、買ったもの。
俺の時はともかく、ユメの時にはファッションに気を使うので、姿見があるとだいぶ便利にはなった。
その姿身を覗いてみると、確かに違和感しかない。
ウィッグがきちんとつけられていないとか、そういう意味ではなくて、長い髪――と言っても俺にしては――であることに対してだ。
なんだかちょっと冷静になれる。
『何というか、変な感じだね』
「俺が髪を伸ばしたことはないからな。
ユメはもっと髪長いだろ?」
『それはね。綺歩ほどじゃないけど』
ユメの望みも叶えたので、桜ちゃんのところに戻ると、ここに座ってくださいとばかりに椅子が用意されていた。
「先輩どうぞ」
「準備してくれて悪いが、たぶん自分でメイクできるぞ?」
「それはそうでしょうけど、女性が普段やるメイクと、男性が女装するときのメイクってやり方違うんですよ?」
「それは聞いたことあるな。でも、桜ちゃんはやり方知っているのか?」
「もちろんです。いつか遊馬先輩に女装させようと思って、しっかり調べましたし、すでに実験も終了済みです」
何だか胸を張って桜ちゃんは宣言するけれど、気になる点がいくつもある。
それなのに、桜ちゃんはメイクを始めてしまうので、話せそうなタイミングを見計らって、尋ねることにした。
「今回の言い出しっぺは桜ちゃんじゃないんだよな?」
「舞さんですよ。それは間違いありません。ポロッとこぼした言葉を、桜が強引に成立させましたが、言い出しっぺは舞さんです」
「あー、はい」
なんだかもの言わせぬ感じだったので、納得しておく。
ここまで来たが、納得しようがしまいが、やることは変わらないので、駄々をこねても仕方はない。
「あと、すでに実験済みって言うのは?」
「桜の後輩には女装して歌ったり、女装せずに歌ったりする子がいますから。
先輩もあったことありますよね」
「なるほど。それじゃあ、任せて大丈夫ってわけだ」
「大船に乗ったつもりでじっとしていてください」
大船でじっとしてることはないと思うけれど、桜ちゃんが自信をもって言うのだから、安心していいだろう。
いろいろと仕掛けてくる桜ちゃんだけれど、自信もって出来るといったことは、しっかりやり遂げる子には違いないから。
気が付いたら、もう1話くらい必要になりました。
あと、遊馬がいやいや女装することを期待した人がいたらごめんなさい。