Lv121
やっぱり歌えると言う事は素晴らしい。それがアカペラであっても、カラオケであっても、プロ顔負けの演奏をバックにしていても。
このためにわたしは生まれたんだなと言う気になってくる。
一曲歌い終わって綺歩を見ると、なぜだか綺歩は何度も頷いていた。
「やっぱり、遊君で間違いないんだね」
「最初からそう言ってるでしょ? とはいっても、よくそんなに簡単に受け入れられたね」
わたしはわたしが三原遊馬だと疑わないけれど、仮に綺歩が男の子になって「俺は志原綺歩だ」なんて言われてもすぐに受け入れられる自信はない。
頭の中で綺歩を男の子にしてみようかとじっと綺歩を見ていると綺歩が口を開いた。
「急に上手くなってたことには驚いたんだけど……でも、ちょっとした癖がそのままだったから」
自分にどんな癖があるのか分からないのだけれど、綺歩が言うのならそうなのだろう。
付き合いが長いだけの事はあるなと感心してしまう。
「そ、それで、男の子バージョンの遊君にはなれないの?」
何故か慌てた様子で綺歩が言うので、すぐに首を振って否定を示す。
それだけだと、もう男には戻れないみたいだからすぐに言葉を追加した。
「わたしの意志では無理。でも、たぶん十五分くらい歌わなかったら入れ替わると思うよ」
「そうなんだ」
案外あっさりとした返答に内心安心した。綺歩に限って無いとは思うのだけれど、あまりしつこく本当かどうかを追及されてもわたしに言える事はこれ以上はないから。
「所で、貴女を何て呼んだらいいの?」
綺歩にそんな事を言われて我に返る。それから、なんでそんな事を聞くのだろうかと首を傾げた。
「いつもみたいに遊君でわたしはいいよ?」
「でも、それだと……」
綺歩が困ったように視線を逸らす。なるほど、綺歩の中で遊馬と言えば男だから、女のわたしに同じ呼び名を使うのに躊躇いもあるのだろう。
とは言え、すぐには……と思った所で二つの名前が思い浮かんでしまった。
一つはユメ。遊馬の読みを変えた呼び名。もう一つがドリム。ユメをさらに捻って出来た名前。
正直この二択と言うのはどちらもよろしくはないどころか、黒歴史もいいところなのだけれど、他に適当なものも思いつかず一言「ごめんね」と男のわたしに謝る事にした。
「それなら、遊馬だしユメって呼んで」
魔の二択選ぶならこちらしかない。いや、最初から二択などではなかったのだけれど。
ユメなら実際に人の名前としても広く使われているだろうし、あだ名的とは言え男のわたし――もう遊馬で良いか。わたしはユメ――との差別化を図るうえで基本的にわたしが呼ばれる名前になるだろうから、わたし的にも少しはまともな方を選びたい。
「そっか、じゃあ……ユメちゃん」
「どうしたの綺歩?」
急に名前を呼ばれたので疑問に思いながら問いかける。
何かユメと呼ばれるのは恥ずかしいような、くすぐったいような、ふわふわした感じがした。
「呼んでみただけ。ちょっと不思議な感じがしてね」
綺歩も変な感じがしたらしくそう言ってはにかむ。綺歩がこういう表情を見せるのは珍しいのでたぶん男だったらどぎまぎしていたのだろうけれど、今のわたしには可愛い奴めくらいにしか思えない。
むしろ、女になってもやっぱり綺歩は女の子としてレベルが高いよなと感心してしまうわけだが。
「うん。何か妹が出来たみたい。……そうだ」
何故か綺歩に両肩を掴まれる。それから楽しそうな顔で綺歩が続けた。
「こんなダボダボの服じゃなんだし、着替えてみない?」
「わたしも可愛い服着たいところなんだけど……止めておいた方が良いと思うよ?」
「どうして?」
綺歩が不思議そうに首を傾げる。両肩を掴まれた今の状況、長い綺歩のまつ毛まで綺麗に見えるのだけれど、そう言えばわたしはどんな容姿をしているのだろう?
後で鏡でも貸して貰おうかななんて思ったけれど、今は綺歩の疑問への返答。
「どうしてって言われると……」
改めて考えてみるとどう説明したものか。遊馬が女装した姿を見てみたいの? とか、今着ているの遊馬の下着だよ? とか何か説明しにくい。
その躊躇いを綺歩がどう受け取ったのか「恥ずかしいなら私も一緒に着替えようか?」なんて言いながら服を脱ごうとしていた。
「ちょっと綺歩ストップストップ」
急な事でわたしも制止が遅かった。綺歩の真っ白な下着がわたしの目に入っていて、とっさに目を逸らす。
きっと遊馬にも見えたんだろうなと思った時には体の自由がなくなっていて「キャー」と言う叫び声とともに頬に衝撃が走った。
わたしの意識とは別の所で手が動き痛みの元へと動く。
相手が女の子でもやっぱり叩かれたら痛いんだなと思っているととても申し訳なさそうな綺歩の声が聞こえてきた。
「ご、ごめんね、遊君」
「なあ、綺歩。今お前の方向いて大丈夫か?」
「え? ……わわわ」
二人の話を聞きながら、やっぱり綺歩は変なところおっちょこちょいだなと思っていた。
何というか、妙に鼓動が早いのはどういうわけだろうか。さっきのは一瞬だったはずだけれど、おそらくやっぱり遊馬の頭には残ってしまったと言う事だろう。
遊馬も男の子だと言う事はわたしが良く知っているし。
だとすると綺歩には悪い事をしたなと思う。いかに幼馴染だとは言え異性に下着姿は見られたくはあるまい。
「えっと、もう大丈夫だよ」
元気を何割かそがれたような綺歩の声がして、それに遅れて首が前を向いた。
向いた先にいた綺歩はとてももじもじしている。
「あの……その……見た?」
「いいや、何も」
実際とは違う答えだろうが、そう答えるしかないよなと心の中で頷く。正確には見たのはわたしだし。
「ごめんね。急に叩いたりして」
「まあ、事故だろ」
そう言った遊馬が綺歩から視線を逸らす。実際遊馬からしてみたら全部が事故で間違いないのだろうけれど、それでも気まずいのだろう。
それもこれも綺歩が変に気を遣わない為だと、わたしには分かるのだけれど、遊馬は意識しているのだろうか。
そんな事を考えていると、綺歩が近づいてくる音がして頬がひんやりとしたものに覆われた。
「私の手冷たいでしょ?」
「あ、ああ……」
遊馬の緊張が手に取るようにわかる。手に取るようにと言うか、心臓を通してと言うか、ともかく綺歩みたいな子にこんな事されたら緊張もするだろう。
「せめて『てあて』だけでも」なんて言う綺歩の言葉を聞きながら、変な居心地の良さを感じていた。
綺歩が離れてから、遊馬が綺歩にわたしと遊馬の事について軽く説明を始めた。
そうした場合どうしても『ユメ』と使わないといけないので、とても説明し辛そうだなと内心可笑しさすら覚える。
感覚が共通だと分かったところで、綺歩が遊馬に話しかけた。
「ユメちゃんも痛かったんだよね……ちゃんと謝らないと……」
別にそんな事気にしなくてもいいのに。もとはわたしが原因でもあるし。
「遊君はユメちゃんと話せたりするの?」
「さあ、どうなんだろうな。でも俺と同じなら少なくとも今の会話も含め全部筒抜けと言えば筒抜けだな」
「それじゃあ、えっと……今度またちゃんと謝るけど、ユメちゃんごめんなさい」
そう言って綺歩が遊馬越しにわたしに謝る。その直後綺歩は「何か変な感じ」と言うけれどそれはわたしも同じ。
どんな顔したらいいのかわからないじゃなくて、どんな顔もどんな反応もできない。
遊馬も「俺も変な感じがした」との事なので、ここにいる全員が変な感じがしたらしい。
それからいつから女であるわたしと入れ替わるようになったのか、みたいな話を経てわたしと遊馬がコミュニケーションをとれるのかと言う話になった。
わたしにしたら願ったり叶ったり。とりあえず遊馬からわたしに何かアクションを起こすらしいから待っていたのだけれど遊馬は何も言わない。
どうしたんだろうと思った所である事に気が付いた。たぶん、遊馬は心の中で話しかけると言う手段をとったのだろう。
だから恐る恐る、でもそれを表に出さないように堂々と尋ねてみる事にした。
とは言ってもどうやって尋ねたらいいのだろうかといろいろ考える。勿論考えても分からないので、半分開き直ったように普通に話しかけてみる事にした。
『もしかして、わたしに話しかけたりしたのかな?』
遊馬からの返事はないが、視界がぐるぐると移動し始めた所を見ると成功したらしい。
幻聴でも隠れている第三者でも無い事を遊馬に分かってもらうためにもう一度声をかける。
『わたしだよ。遊馬自身。遊馬の女バージョンのユメ。まあこんな状況だったら最初に「心の中で声をかける」ってことをするよね。ごめんごめん』
「もしかして、声に出さないとだめなのか?」
『そうそう』
ちゃんと遊馬とコンタクトが取れた事に安心しながら頷く。
しかし、会話も続くことなく遊馬は素っ頓狂な声をあげた綺歩の方を向いてしまった。
「どうやら、俺がユメとコンタクトを取るためには声に出さないといけないらしい」
「あー……なるほど」
綺歩が分かったのか分からないのか分からない声を出していると、遊馬が一人納得したように頷いたので『そうだよ』と返しておく。
たぶん昨日笑ってしまった時の事だろう。
「今声に出してたか?」
遊馬が怪訝そうな声を出すので、わたしの予想は当たり――予想も何もないのだけれど――だったらしい。ちょっとだけ楽しくなって種明かしをする。
『声には出していなかったけれど、元々同一人物だったみたいだし、遊馬が考えていることくらい簡単に想像できるよ?』
「そんなものなのか?」
『別に心の中まで読めるってわけじゃないから安心してね。と言うかわたしの心読めなかったよね? あれ? 大丈夫だよね?』
遊馬と話しながら、逆の場合がどうなのか分から無い事に気が付いた。
流石に相手がわたしと同一人物だとしても心が読まれるとしたら、心穏やかではいられない。
「ああ、読めてない読めてない」
軽い感じで返って来たけれど、それが真実だと言う自信はあるので安心する。
その間にも視界は勝手に動いて綺歩を捉えた。捉えられた綺歩は何とも言えない怪訝そうな表情をしている。それから真剣な顔で遊馬に話しかけた。
「ねえ、遊君」
「どうした?」
「外ではユメちゃんと話さない方が良いかも」
「……ああ、わかった」
当たり前だけど、わたしの声は周りには聞こえないのか。
つまり傍から見ると遊馬は独り言を言う変人に見られてしまうわけだ。
同一人物としては遊馬が変人だと思われるのは嫌なので、わたしも外で遊馬に話しかけるのは気を付けようと思う。
『そうだ』
気を付けようとは思ったけれど、今は外ではないので大丈夫だろうと踏んで遊馬に声をかける。
遊馬もその辺で思う所があるらしく、何やら返事を迷っていたので先んじて続ける事にした。
『返事は良いから綺歩に伝えてくれない? さっきのは痛かったけれど、わたしも悪かったから気にしないでって』
「いや、地味に気にしているよな?」
気にしていないと言えば嘘になるけれど、別に綺歩が悪いと言いたいわけじゃない。と、言うか熱を持った頬を気にするなと言う方が難しい話で、わたしとしては綺歩にはこれくらい言っても大丈夫だろうと言う確認の方が大きいのだけれど。
『ほら、早く何か言わないと、綺歩に変な奴だと思われちゃうよ?』
十中八九思われないけれど、軽口を叩けるのがこんなに楽しいと思うのは丸一日誰とも話せなかったからだろうか。
視線は綺歩の方を向き、わたしの口は低い声で「あのな」と声をかけた。
「さっきの事ユメは気にしてないってさ」
「と言う事は、痛くはあったんだよね」
だから気にしてないって言ってるのにと言いたいけれど、言えないまま「ごめんね」と言われてしまった。
察しが良いのか悪いのか何だか大変だななんて他人事のように思ってしまう。
「それで、明日からどうするの?」
無理に明るくしているかのような綺歩の声に遊馬が「明日?」と首を傾げた。
明日って何か別に何か特別な事は無かったと思うのだけれど。
「れ・ん・しゅ・う。今日と同じ曲をすることになると思うよ。またユメちゃんと入れ替わるかもしれないでしょ?」
「ああー……どうしよう」
間の抜けた声を出す遊馬とは違い、わたしは全身の血の気が引いていく感覚に襲われた。
意識しないようにしていたけれど、遊馬からわたしに入れ替わる条件は間違いなく裏声を出すこと。それが何を意味するのかは考えたくもない。
でも、そこから目を逸らすことは出来ない。わたしが表に出ていないせいか妙に落ち着いていたが、結局わたしからその事を伝えることは出来なかった。