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BLACK ROSE  作者: 久保田マイ
ChapterⅠ R
2/18

Ⅰ. December

第1話 「ディセンバー」


《ストーリー上、R15の暴力・流血、エロティックな表現、好ましくない言葉遣い、宗教的な描写などが一部含まれることがあります。と言っても、m+yの書くものなので大したことはないとは思いますが……念のため。これらが苦手な方はご注意下さいませ》



 ――ディセンバー




 幽霊の青白い手に手首を掴まれでもしたかのように、伸ばした腕を咄嗟に引っ込める。

 弾かれるように前屈みがちの身を起こせば、波打つ艶やかな赤褐色(レディッシュ)の髪がその動きを辿るように揺れて、一房柔らかに前肩にかかった。

 

 誰かが、少女を呼んだ。

 耳元で密やかに囁いているかのように、それでいて周りに靄が立ち込めたかのように朧がかった声で。男のものとも女のものとも言えない、子供とも老人ともつかない声だった。

 ……否、呼ばれた気がしただけなのかもしれない。

 実際、ここ(、、)には少女以外、誰一人としていないのだから。

 ここ――シンプルな白とマホガニーの色調で統一された学校併設の礼拝堂(チャペル)の中は、今は生徒もおらず、息を潜めるようにシンと静まりかえっていた。

 司祭の御前に慇懃(いんぎん)と控える修道僧の一団のように、マホガニーの長椅子(チャーチベンチ)が堂内に乱れなく列を連ねている。その傍に侍るかの如く、外側の側廊には等間隔で支柱が立ち並んでいる。

 その何処にも、人の姿どころか人影さえも見止めることは出来ない。

 気のせい。

 すぐにそう思い直された。幽霊話(ゴーストストーリー)を鵜呑みにして、夜ベッドの中でブランケットをすっぽり被って怖がっているような、もうそんな年齢でもない。

 少女は、驚きに思わず強ばらせた体から力を抜く。ゆっくりと周囲を見渡し、ここに来た目的を果たそうと気を取り直して、今一度手を伸ばした。

 堂内の後ろの辺り、支柱に近い外側の席。

 そこは丁度、放課後の礼拝で少女が腰掛けていた場所であった。

 少女は狭い長椅子と長椅子の間に肢体を滑り込ませ、少し乗り出すようにして、椅子の足元に落ちている物を拾い上げる。すると忽ち、どこか安心感をもたらしてくれる重みが手の中に戻ってきた。

 ――聖書だ。

 この礼拝堂に置かれてある、比較的新しい物とは違う。中世ヨーロッパの教会書院で保管されてきた古書と呼ぶ方がしっくりくるような、アンティークの聖書。

 薄氷にも似た人工大理石イミテーションマーブルの床の冷気に晒された象牙(アイボリー)の表紙の温度と、そこに施された繊細なレリーフの手触りが指先に伝わってくる。

 いつ、落としてしまったのだろうか。

 落としたとしても気づかない筈はない。いつも肌身離さず持ち歩いている物の一つなのだから。

 少女は怪訝そうに柳眉をひそめながら、埃を払うと言うには随分と優しい手つきでそれに触れる。まるで、愛しい人の頬をそっと撫でるかのように。

 表表紙には、古めかしさというよりはある種の厳かさを感じさせるような、真鍮のゴチックの十字架があしらわれている。その飾りの下に綴られているのは、聖句の彫り文字だ――理由は分からないがその時、それに少女の視線は縫い止められた。


 et ne nos inducas in tentationem;

 sed libera nos a malo.

 (我らを試みに合わせず、悪より救い出し給え)


 少女の澄んだ湖面のようなサファイアブルーの瞳に、僅かな憂いの影が射す。 

 祖母(グランマ)は、敬虔な信徒だった。少女がまだ小さかった頃は、連れられて毎週日曜日のミサによく行っていたものだ。

 ミサの時は必ず、否、その時でなくても、祖母はこの聖書を片時も離すことがなかったように記憶している。

 もう十年以上前の話になるが、そのことがふと脳裏をよぎったからか。

 それとも、実際行っていた場所とは違っても、礼拝堂(ここ)が想い出に一番近しい空間であることに変わりはないからなのか。

 クローゼットにしまい込んでいた故人のアルバム写真を1枚1枚捲るように、急に祖母への懐古の想いが胸に溢れてくる。

 ミサへの行き帰り小さな彼女の手をぎゅっと繋いでくれた、乾き深い皺の刻まれた、それでいて温かな体温を宿した祖母のあの手が、彼女は大好きだった。

 それなのに、そんな幸せな記憶のカンバス地を油絵具でべっとりと塗り潰すかのように、刹那に蘇る、祖母のあの目。いつもは凪いだ海のように穏やかなそのサファイアブルーの瞳の中に、不意に暗い恐怖の色が垣間見える瞬間があった。まるで、見えない何か(、、)に怯えているような。

 そして、熱病に魘された末のうわ言のように、ひたすらに祈るのだ。胸の前で十字を切って、「悪より救い出し給え」と。

 祖母が何に恐怖していたのか、今や知る由はない。知る由がなくなってしまったことが、哀しかった。

 少女はそんな優しく寂しい追憶の腕の中に無意識に身を委ねながら、講壇のさらに奥の白壁に恭しく掲げられた大十字架(クロス)を、その上部の極彩色のステンドグラスの窓を、ぼんやりと眺めていた。

 ダークカラー一色の制服に一際鮮やかなペルブルーのクロスペンダントを指でなぞりながら。愛おしむように、偲ぶように。

 こうしていると何故か落ち着ける。心の孤影を払い、安らぎと慰めを与えてくれる。何か特別な力が秘められているような、そんな気さえしてきてしまうのだ。

  

「ディシー」


 声が降ってくる――背後から。

 突然のことだった。

 白昼夢を切り裂く落雷のように。

 

 少女――ディシーは、声のした方をはっとして振り返る。

 半分程開いた礼拝堂の扉から体を覗かせた声の主が誰なのか分かると、ディシーは知らずほっと安堵の息をついていた。

「……ヨハネス神父」

 それは、ローマンカラーの神父服姿の男性だった。

 初老を少し過ぎたくらいだろうか。黒服と対照的な白髪の頭と口元に蓄えた髭を除けば、恰幅の良い体格も相まってか、その年齢は余り感じさせない。

 まだこちらに赴任して間もないのだが、元々この“聖ノース・パトリック女学校”に新任の教師が来ることも稀で、ディシーも彼のことはよく知っていた。

 小脇に抱えられた古びたダンボール箱の中身は、恐らくオーナメントだろう。学校のエントランスホールにあるツリーの飾りつけは、いつもこの遅れた時分に慌ただしく行われている。

 雰囲気からして、その一仕事を終えて、礼拝堂(ここ)の戸締まりにでも来たようであった。だが、明かり(ライト)こそ点いているものの、人が居るとは予想していなかったのだろう。ヨハネス神父は、垂れ目がちの柔和な目元に少し驚いた表情をたたえて、こちらを見つめている。

「ディシー、まだ居たのかね」

「す、すみません!」

 Sorryと、咄嗟にディシーの口から謝罪の言葉がついて出る。別に悪いことをした訳でもなければ、ヨハネス神父の声音に咎めるような棘が含まれていた訳でもないのだが、聖書を胸に抱え、手近な長椅子に置いていた鞄を手にして、飛び出すように慌ただしく扉口に向かう。

 もしかしたら……先程聞こえたと思った声も、ヨハネス神父のものだったのかもしれない。そう、頭のどこか片隅で呟きながら。

「どうしたんだい? こんな時間まで」

「ちょっと忘れ物を、したので……」

「忘れ物?」

 ヨハネス神父はディシーの言葉をオウム返しに唱えてから、一拍して、その口元に温容な微笑みを浮かべる。どこか納得したように、一つ小さく頷いてみせて。あったのかい?と言うその視線の先には、ディシーの腕に抱き留められた聖書がある。はい、とディシーは控えめに返答した。

「すみません、すぐに帰ろうと思ったんですが、何だか、その――」

 ディシーは俯き加減に言葉を探して、口ごもった。その姿はどこか、教師に悪戯がバレたバツの悪い幼い生徒のようだ。

「――ここに居ると落ち着くので……」

 ほんの少しの間の後に、そうかいと神父は労わるかのような声音で答えた。

「けどね、今日はもう遅いから帰りなさい。本当は好きなだけ居てもいいよと言いたいところなんだけどね」

「はい。もう帰りま――」








 ――ディセンバー








 その時、あの声が聞こえた。

 誰かが、ディシーを呼んだ。





 ――ディセンバー


 ――見つけた





 今度は気のせいではない。気のせいなんかではない。

 まるで、すぐ傍で語りかけられているかのようだった。実体のない亡霊のように隠微で、けれど余りにも鮮明な囁き声で。

 耳朶を喀痰で粘ついた舌先でじっとりと舐め上げられているかのような得も知れぬ生理的な不快感が、悪寒となってディシーの背を走る。

 慌てて礼拝堂内に視線を走らせる。しかし、周囲を見渡しても誰もいない。先程と変わりはない。

 否、違う。

 堂内の正面。講壇に程近い翼廊部分。

 そこに佇む大理石の立像。

 聖母マリアの像だ。

 そのマリア像が――――目の縁から涙を流している。悲痛な、血の涙を。

「……っ!?」

 無機質な表情の中に慈愛と悲哀を秘めた聖母の白皙(はくせき)の両頬を真っ赤な跡で汚しながら血が伝い、血滴(ちしずく)となって細い顎から滴り落ちていく。


 ポタ、ポタと。


 幾筋も、幾筋も。


 幾筋も幾筋も幾筋も幾筋も。

 幾筋も幾筋も幾筋も幾筋も幾筋も幾筋も幾筋も幾筋も。


「ディシー」


 神父によってディシーの意識は引き戻され、悲鳴の代わりに、驚愕にすることも忘れ止めていた呼気が唇から零れた。

「……ディシー?」

 恐怖の表情が見受けられたのだろうか、神父は銀縁眼鏡のフレームの奥の、ライトグレーの瞳に困惑と心配の表情を見え隠れさせながら、ディシーの青褪めた顔を覗き込んでいた。

「大丈夫かね? 顔色が、良くないが」 

 恐る恐る、聖母像をちらと目の端に映す。だが、そこにはいつもと何ら変わりのない清廉で穏やかな彫像の顔貌があるだけだ。血の痕など一つとしてない。勿論、声も。

「…………ええ、大丈夫です。それでは私は、これで失礼します……」

 薄ら寒い何か不穏な燻りを身の内に感じながら、その思いを振り切ろうとするかのように神父に手短に挨拶を済ませて、ディシーは礼拝堂を後にしようとした。それを迎え入れるように、ヨハネス神父が重厚な両扉を引いて解放してくれる。

 しかし、ディシーが礼を述べるよりも先に口を開いたのは神父の方だった。

「ディシー、おばあ様のこと……残念だ」

 一抹の寂寥(せきりょう)感にも似た鈍い痛みがディシーの胸を打つ。

 亡くなって、まだ2ヶ月と言うべきか。もう2ヶ月と言うべきか。

 祖母の死に目にも立ち会い、自分の中ではきちんと気持ちの整理もつけたつもりではあったのだが――もしかすると、自分が思っている以上に気が滅入ってしまっているのだろうか。少なくとも神父にはそう見えたに違いない。

 だから、あんな変な幻聴や幻覚を……?

 ディシーはいつもの癖で、知らず胸元のクロスペンダントにそっと手を伸ばしていた。ライトの光彩を集めて、クリスタルが淡い微粒の輝きを放つ。

「私で良ければ力になろう。大したことは出来んかもしれんが……。またいつでも来なさい」

「ありがとうございます。Goodbye, Fr.(失礼します、神父)」

「Goodbye, Decy――」


「――May God bless you(神のご加護があらんことを)」




 †

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄




 ヨハネス神父が「もう遅い」と言ったのも頷ける。

 辺りは既に濃紺(インディゴ)の夕闇のベールに包まれつつあった。ウィンターシーズンも半ばに入り、日が暮れるのがすっかり早くなってしまっている。

 こんなに遅くまでいるつもりはなかったのに、つい礼拝堂(あそこ)で長居をし過ぎてしまったようだ。いつものカフェで、キャスリンやベルたちと待ち合わせをしているというのに。

 スクールバスなどとうになく、かと言って車も持ち合わせていないディシーの歩みは、自然と足早になった。


 ゴチック風の装飾が施された学校の門を抜けると、街灯が点々と続く、真っ直ぐに下る緩やかな勾配が伸びている。

 一分の乱れもなく敷き詰められた、板チョコレートの(グルーヴ)にも似た石畳の通りには、少し前から降り始めていたのか、上白糖(キャスターシュガー)(ふるい)にかけたかのような粉雪がうっすらと積もっている。

 この下り坂を10分程行けば大通りと合流する。そこまで来れば人も車も行き交いが多くなるのだが、ここは通りの両脇に個人経営の小ぢんまりとした(ショップ)が軒を連ねているだけで、メインストリートの喧騒も遠く静かなものだ。

 短い冬の日のように店仕舞いの時間も早い。事実、ウィンドウから暖色の灯りを投じる店もまばらである。

 だが、友人と出かける大型ストアやショッピングモールが嫌いという訳ではないが、こういった閑静で詩情のある町並みの方が、ディシーには好ましく思えた。

 仕事帰りの厚手のロングコートの老人、戸締りを済ませ、ホットコーヒーのカップ片手に店を後にする女性店員、腕を絡めて甘いひと時を共有するカップル……。皆ディシーと同じく、吐く息すら凍てつかせる寒さに身を竦めながら帰路へと急いでいる。歩道脇を、ブリキ細工のような三輪自動車(スリーホイーラー)が一台通り過ぎていく。

 Pコートの両襟をかき合わせ、カシミアの布地の中に顔を埋めるように俯き加減に歩を進めていたディシーだったが、その時ふと、横を見遣った。

 そこにあるのは、小さなショーウィンドウだ。

 ギフトショップか何かだろう。店自体は既に閉まっているが、ウィンドウの灯りだけは己の存在をそれとなく主張するかのように仄かに路面を照らし出していた。

 赤、青、緑、金……カラフルなオーナメントに、星やリボンや雪の結晶(スノークリスタル)、キャンディーケインといった楽しげな装飾に身を彩ったツリー。その下に飾られた、キリストの生誕の一場面を模した陶器の置物たち。低い天上から吊り下げられたラッパを持つ天使(トランペッター)たちが、そこにささやかな冬の華を添えている。

 もう直やって来る聖夜の空間を創造した、箱庭を思わせるガラスケースの世界がそこにはあった。

 暗闇に舞う蝶のように光に引き寄せられ、知らず眼差しを向けていたディシーであったが、それも一瞬の間に過ぎなかった。またすぐに意識を進む先に戻し――

 思わず立ち止まる。 

 その理由は、違和感。

「……?」

 さっきと……違う。ほんの数秒前の景色と。

 ダークブルーのインク瓶の中にいるかのような真冬空の夕色が、今はどうだろうか、まるで突然の月食に見舞われでもしたかのような夜半の闇に覆われていた。頭上には星一つ見えない。

 黒液を溶かした培養液の中に身を浸しているのではないかと思えるくらいに、闇は触れられそうな程に深く、空気は重い。息苦しささえ感じる。

 ちらほらと開いていた筈の店々も、これから来る戦禍に息を潜め怯えているかのように、一様に灯りが落ち、シャッターゲートが下りてしまっている。唯一の例外は、あのギフトショップのショーウィンドウだけだ。

 顔を巡らせる。お世辞にも「大勢いた」とは言えないが、先刻までは確かにあった人通りも全くない。誰も彼もが皆、神隠しにでも遭って忽然と姿を消してしまったかのようだ。

 残るは、静寂のみ。

 石畳を叩く革靴(ローファー)の踵の音だけが、張り詰めた緊張感を帯びて無人の通りに反響する。

 まるで、この世界に自分一人だけが取り残されてしまったかのような錯覚に襲われ、言い知れぬ焦りと不安に急き立てられて、ディシーは直ちにこの場を離れようと踵を返し――丁度向き合う形になったウィンドウガラスに反射して、何か(、、)が映り込む。

 小さな悲鳴を上げ、咄嗟に後ろを振り返る。

「……!?」

 直後、ディシーの視界は一面の黒に支配された。


「これは失礼、お嬢さん」


 思いがけず降ってきたバリトンボイスに、ディシーは虚を突かれる。

 やがて、一面の黒と思ったものが実は黒のスーツだということを次第に脳が正しく認識し始める――上等な黒のスーツに、それから黒のコート。何処かの高級店に務めるビジネスマンと呼ぶのが最も落ち着きの良いであろう服装に身を包んでいるのは、壮年の男性である。

 何てことはない。ただ、ディシーの後ろに立っていたこの男性の姿が、ウィンドウ越しに映っただけのことだった。

 いくら驚いたからとはいえ、それに過剰な反応をしてしまい、あまつさえバランスを崩して倒れかけてしまった。そんなディシーの細い両肩を、男は抱き寄せるかのように両手で支えてくれている只中であった。 

「……っ! あの、すみません!」

「こちらこそ失礼、お嬢さん」

 はっと我に帰り、ディシーはたじろいで自分の非礼を詫びる。羞恥心に顔に熱が集まる。ヨハネス神父といいこの男性といい、今日は何だか謝ってばかりだ。

 男もまた、随分と丁寧な物腰で簡潔な詫びの言葉を口にし、その後はさして気にした様子も見せず、鼻歌混じりのメロディを口ずさんでいる。一昔前のロックバンドか何かの曲だ。このどこか陰鬱で圧迫感のある退廃的(デカダンス)サウンドに、ディシーも聴き覚えがあった。

 ようやく人が居た、言葉数こそ少ないけれどこの「異常」から脱した「普通」の会話を交わせたという現実に胸を撫で下ろし、ディシーは深い息をついて肩の力を抜く。

 良かった。

 神隠しだの、世界に自分一人だけだの、全て自分の考え過ぎだったのだ。先程の礼拝堂での奇妙な幻覚の一件もあり、神経過敏になってつい悪い妄想ばかりが膨らんでしまっただけのこと。

 そう、良かったのだ。

 それなのに……どうしてだろうか。

 未だ拭い切れぬ、この違和感は。

 ディシーは、心の中にじわじわと広がる不明瞭な底気味の悪さに、拠り所のない視線を気まずげに移ろわせ、困惑した愛想笑いを一つ浮かべて、それでは失礼しますと男に軽く会釈して立ち去ろうとした。何故だかこれ以上此処にいてはいけない気がした。

 だが、それは不可能であった。

 男の両手が、依然としてディシーの肩にかかっているからだ。

 否、押さえ込んでいる。

「は……、放して下さい」

 ディシーは震えの抑え切れないか細い声で、身じろぎをしてなんとか男の手から脱け出そうとする。が、まるで石巌の彫像に抱き込まれているかのようにビクともしない。それどころか、逃がさないと言わんばかりに男の無骨な十指に一層の力が込められる。分厚いコートの布地を破って爪が皮膚を抉るのではないかと思える程の痛みに、ディシーは顔を顰めた。

 そして直視した。

 黒の山高帽(ボーラー)の下に覗く、男の顔を。

「…………っ!!」

 電流にも似た寒気が走る。

 動き犇めく無数の蛆虫の群の中に体を浸しているかのような嫌悪感が背中を駆け上がり、それを拒んで体中の産毛が逆立つ。

 男は――笑っていた。

 裂けるのではないかと思えるくらいに、口の端から端までニッと口角を持ち上げて。

 だが、それは表情筋を使って口の筋肉を動かしているだけに過ぎない。

 目元も、眉も、額も、頬も……その他の部位は微笑みの欠片すらも見出だすことが出来ない。まるで死相を見ているかのように、硬直し、表情の色がないのだ。

 口元だけ、滑稽な笑みを見せる、よく出来た道化師(ピエロ)のマスクを取り付けたかのようだった。

 怖い。

 怖い!

 怖い怖い怖い!

 頭の中でけたたましく鳴り響く警鐘の鐘にも似て、苦しいくらいにディシーの鼓動は暴れ打つ。

 ディシーは一層強く腕を振るい男の腕を払い除けようとする。華奢な少女とはいえ仮にも人一人の懸命な抵抗にも関わらず、男は動じる素振りすら全く見せない。

 瀕死の小動物をいたぶり弄ぶ肉食獣を彷彿とさせる、残忍で、けれど愉快そうな笑顔のまま、ディナーを作る際に口から零れるハミングのように依然として歌を口ずさみ続けている。

「放して下さいっ! 放してっ!!」

 必死で男から離れようと抗うディシーを、男は羽交い絞めにして半ば引きずり込むような形でぐっと引き寄せ、一つ舌舐りをして、追い詰められた小鳥を絞め殺そうとするかのように片方の手をディシーの首に伸ばす。

 いよいよディシーはパニックになり、我武者羅に抵抗する。

「っ!? やめて! いや! 放して、放して放してっ!!」


 刹那。


 眼の網膜を焼き切らんとするばかりの、鮮烈な青白い光がディシーと男の間に生まれ、放たれる。

 それは、ディシーを男の拘束から解放するには十分だった。

 ディシーは転倒しそうになるのをたたらを踏んで何とか耐え、少しでもこの暴漢との距離を開けようと後ずさる。その拍子に、胸に抱えていた聖書が手から滑り落ち、冷たい地面に容赦なく叩き付けられた。

 光の発生源は立ち所に分かった。

 ディシーの胸元だ――正確には、首にかけていた十字架(クロス)のペンダント。

 先程の目も眩むような閃光は瞬く間に集束したが、今尚澄んだ青の余光を宿して神々しく輝いている。

 しかし、すぐに意識は男へと引き戻される。

「コ゛ノ゛、小娘ガ……」

 光に目をやられたのか背を向け蹲っていた男が立ち上がったからである。そして、こちらをゆっくりと振り返る。

 その姿を目にした途端、ディシーは戦慄に言葉を失った。

 あの一瞬の間に、ディシーの首に伸ばされた右腕だけでなく、男の右半身全体が、火炙りの刑に掛けられた哀れな犠牲者のように、見るも無残な程に焼け焦げていたのだ。

 高濃度の硫酸を浴びせかけたかのような熱気を帯びた煙がジュウジュウと体から立ち上っている。衣服から覗く肌は爛れめくれて赤い皮膚組織が剥き出しになり、血と脂の混じった汁を滴らせては人肉の焦げる不快な匂いを撒き散らしている。

 胸から咽喉へと酸敗した胃液が込み上げてくるのを、何度かえづきながら、ディシーは口元を押さえて何とか堪えた。

 何故。

 どうして。 

 一体、何が。

「小賢シ゛イ゛真似ヲ゛……ッ」

 男の声は大凡人とは思えぬ、壊れたラジオから流れ出す耳障りなノイズのような、ザラつき歪なものへと変容していた。

 恐ろしいくらいの満面の笑顔は、依然貼り付けられたままだ。けれど先程とは違う苦痛と憤怒の形相をその眼光にギラギラと滲ませ、眼球を塗り込めたかのような黒、瞳孔を血の塊のような赤の発光色へと変質させながら、男は、ゆらり、ゆらりと、ディシーの元に近づいて来る。身の内に隠していた殺気を、今や隠そうともしてない。

 逃げなければいけない。

 本能は叫んでいる――危険だと。

 それなのに、限界を超えた驚愕と恐怖で体は意思に反して全く言うことを聞いてくれず、足は地面に張り付いてしまったかのように微動だに出来ない。目を背けることも出来ない。声すら上げることが出来なかった。

 それでも何とか。

 叱咤してやっとの思いで足を動かし、退がる。

 後ろへ。少しでも、後ろへ。

 しかし、それは無意味な行為だった。

 すぐ背後に、先程のショーウィンドウがあるからだ。ウィンドウが、退路を塞いでいる。安心感と庇護をもたらす筈の光が、今のディシーには逃走者を追い詰めるサーチライト以外の何物でもない。


 ――逃げられない。


 ディシーは冷たいガラスにぴったりと隙間なく背中を合わせる。これ以上逃げ道などないというのに、「生きたい」という生命の叫喚に従って、それでも尚後退しようと。逃れようと。

 男はじりじりと距離を詰め、迫って来ている。

 じり、じり、と。

 もう少し。

 もう、少し。

 あともう少しで、手を伸ばせばディシーに届く位置にまで。


 ――もう逃げられない。


 こんな時間に鳴る筈のない、礼拝堂チャペルの鐘の音だけが、遠く響く。


 ――逃げ道はない。


 ふと目の端に映った街時計が、こんな惨状にも我関せずの素知らぬ顔をして、丁度18時の針を刺した。


 ――死。

 ――殺される。


 ディシーは、血を吐くかのように絞り出した絶叫を上げた。




 




 その時だった。




「……チャペルの鐘の音、

 18時の指針、

 ショーウィンドウのクリスマスツリー、 

 石畳の通り、

 血、

 クロスのペンダント、

 そして、少女…………」



 

 さながら、暗記した定型詩(ソネット)を諳んじているかのように脈絡のない単語の羅列を呟く、低い声。








 ディシーも、そしてディシーを標的と見定めていた男でさえも、反射的にその声の方へと注意を引かれた。


「何とか殺し(パーティー)には間に合ったか?」


 この常闇の異空間に、気だるそうなテンポで硬いアーミーブーツの底を響かせながら現れたのは…………一人の、男だった。

 薄闇に溶け込みそうな、なめした革のような褐色の肌と、この世界の色とは対照的な白銀に光るリボルバーの大型拳銃を片手に引っさげた、屈強な体躯の大男が。

 男のスローな歩調に合わせて、銃に吊るされていた銀の十字(クロス)チェーンと、それとは些か不釣り合いな兵士の認識票(ドッグタグ)のプレートが揺れる。男が頃合を計って立ち止まっても尚、高く澄んだ余韻の音を奏でながら。


「にしても……女の口説き方がまるでなってねぇな。イシュライあたりならそう言うだろうぜ」


 この暗さでは相応しくないであろうサングラスに隠された目でディシーと男を交互に一瞥し、口角の片端を上げて、にやりと不敵な笑みを見せる。

 そして、リボルバーの銃口を突き付けるように向ける。

 その瞬間、デコラティブな彫り模様の施された銃身がギラリと反射し、そこに浮かび上がった“ATID(アティード)”の彫り文字がディシーの目に飛び込んできた。

 “ATID(アティード)”。

 何かで見たことがある――本で。そうだ、父の書斎で。

 確か……ヘブライ語、だった筈だ。

 意味は――――「運命」。


「来な。冴えねぇテメェとのデートなら俺が付き合ってやる。楽しもうぜ――」



「――you, fucking demon(悪魔野郎)」




 突如としてもう一人の役者が躍り出た。

 狂気に満ちた、この闇の舞台上に。






 † December

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


 人間は真実を見なければならない。なぜなら真実は人間を見ているからだ。

     ウィンストン=チャーチル





《格言はこちらを参照させて頂きました。

「世界傑作格言集」

http://kakugen.aikotoba.jp/lie&true.htm》


あいつは主人公ではないんです!あんなに目立ってるのに!それでも!主人公ではないんです!!(笑)

ここまで読んで下さりありがとうございました。

また次話でお会いできるのを楽しみにしております。

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