Ⅻ. SIREN (1)
第12話 「サイレン」「水の精」
2回もバグってデータが消えた、呪われた第12話……。
《ストーリー上、R15の暴力・流血、エロティックな表現、好ましくない言葉遣い、宗教的な描写などが一部含まれることがあります。と言っても、マイの書くものなので大したことはないとは思いますが……念のため。これらが苦手な方はご注意下さいませ》
世界が、変わった。
イシュライはその変化を鋭敏に感じ取っていた。
――“結界”が張られた。悪魔の、結界が。
奴等の方が早かったかと舌打ちをする。
一歩踏み込んだ先の、落書きと染みだらけのクラブの洗面所は、点滅を繰り返す切れかけの蛍光灯の光と相まって、陰鬱で醜穢な雰囲気を漂わせていた。あれ程騒がしかったダンスホールの賑わいが嘘だったかのように今は一切の外音が消え、水垢がこびり付いたシンクの蛇口から垂れる水滴だけが、一滴、二滴、と不気味なリズムを奏でている。
湿った床のタイルには……血の筋。
鮮血の痕が伸びゆく其処には――
「タチアナ!」
思考する間もない。
抜き放ちざまにフィクストナイフを一閃させる。
『ゥエ゛ッ……?!』
無回転で放たれた刃は真直ぐに空気を切り裂き、壁に突き立つ――
――今まさに犠牲者を喰い殺そうとしていた悪魔、“喰らう者”諸共。
黒い血と脳漿の飛沫を飛び散らせ、焦げた肉塊にも似た醜悪なその獣は、ひきつけを起こした病人のように体を痙攣させたまま絶命した。内臓色の長い舌が、重力に引きずられてダランと口腔から垂れ下がる。
壁面に脳天を縫い止められているその姿は、さながら悪趣味な昆虫標本のようであった。
それに最早一瞥もくれず、イシュライは駆け寄る。
牙で喰い裂かれ、肩口から血を流す、タチアナの側へと。
慎重に抱き起こせば、力ずくで引き摺り込まれた時に強かに打ち付けたのだろうか、片瞼には既に鬱血した痣が浮き上がっている。その上、唇の端はザックリと切れており、華やかな美しい顔立ちなだけに一層痛々しかった。褐色の長髪も流血に赤く染まっている。
「……イシュ、ライ」
タチアナは幾筋もの涙を流しながら掠れた声で名を呼び、弱々しい指先をイシュライの頬に伸ばす。
「助けて、くれるって、信じて、た……」
「喋るんじゃない、タチアナ」
「イ、シュラ……お願、い」
恐怖と痛みに震える手で、タチアナはイシュライに抱きついた。
「ああ。すぐに病院に――」
「……お願い、お、願い――」
『――死ンデ、魔術師』
襲う。
突如彼女の体を突き破って現れた何か――巨大な蠍の尾が、イシュライを。
「……!!」
壁に叩きつけられる。
巻き添えになったいくつかのシンクが見るも無残に割れ、粉砕されて破片と土埃が舞い上がる。
飛び縋ろうとするタチアナ。
刹那。
撃鉄を起こす――引き金が引かれる。
銃声。二発。
弾丸はタチアナの姿を残した部分である肩と脇腹を抉り、その衝撃に押し退けられる形でか、あるいは危険を感じて自ら距離を取ったのか、奴は扉を突き破って大きく飛び退く。そしてダンスホールへと姿を消した。
よろめきながらも、イシュライはすぐに立ち上がる。
「……ぅっ!!」
起き上がった途端に走った、骨の髄から込み上げてくるような鈍痛に、顔を顰めずにはいられなかった。咳き込み乱れた呼吸が痛い。どうやら先程ので運悪く……一、二本、肋骨に罅が入ったようだった。小さく悪態を吐く。
否、この程度で済んで良かったと言うべきなのだろう。
敵の尾がイシュライに到達する直前、イシュライは隠し持っていた銃――ザイオンの“ATID”を咄嗟に抜いて緩衝材にし、直撃を防いでいたのだ。己が武器を手放していたあの時、仮にザイオンが銃を寄越していなかったのならば今頃体は真っ二つだったであろうし、銃を抜くタイミングが少しずれていただけでも、手首より下は切断されていた事だろう。そうなれば反撃は難しかった。
ザイオンの予言の甲斐あって、あの不意打ちにもずっと早く対応が出来たのだ。
不意打ち……そう、全ては悪魔の仕組んだ狡猾な罠。
タチアナが…………信じたくは、なかったが。
(――そいつが何であろうと、ソレは敵だ)
「Yeah, you're right.(ああ、そうだな)」
イシュライは苦々しくそう吐き捨てると、壁に突き立ったままのフィクストナイフを抜いて手中に戻し、敵の後を追ってダンスホールへと走り出していた。
† SIREN (1)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
エルヴィラ(妻)……ああ、おまえ……可哀想に!
プッチーニ
ダンスホールも結界によってその風貌を異様なモノへと変えていた。
浸水などしよう筈もない。それなのに、ダンス客に取って代わって床を満たしているのは、深い深い闇に染まった仄暗い冥海であった。脛の位置まであるそれは、風も無いのに独りでに波打っている。スピーカーから流れるのは、不協和音を奏でるオルゴールの音色。現実と変わらない物と言えば、真っ赤なステージライトだけ――興奮色、警戒色。
「ザイオン!!」
ホールに踏み込むや否や、イシュライは片手の中に収めたままであった銃を投じた。白銀の大型拳銃は鈍く白光りしながら大きな放物線を描いて――本当に盲目なのか――ザイオンが掴む。
「結界は!?」
「残りは“生贄”だけだ。賢者でもいりゃあもうちっと楽にいくんだがな」
そして、イシュライはナイフを、ザイオンは銃を、それぞれの獲物を構える。挟み撃ちにし、再度対峙した悪魔へと。
殺した女の皮を脱ぎ捨て、本性を現したソレは、半狂乱の男や喰らう者とは一線を画していた。
半人半獣魔だ、石灰と蝋を血管に流し込んで造ったかのように青白い皮膚をもった。両腕の翼は、怪鳥の羽というよりは、死神の大鎌を彷彿とさせる。下半身から伸びる蠍の尾は凶悪なまでに巨大で、尾先にびっしりと生え揃った大針の一つ一つが肉切りナイフよりも鋭利であった。
「これも『あの御方』絡みってか?」
「らしいな。このレベルの奴も喚べるとは」
魔海に巣食うとされるこの悪魔の名は、“金切り声”。
美しく誘惑的な水の精の一人の名を冠しながらも、神話上の生物とは似ても似つかない、邪で獰猛な姿を持った準中級悪魔だ。
『魔術師に、予言者……』
女の人面に、頬笑を浮かべるリゲイアー。
『魔術師を先程喰えなんだは惜しかったが……』
『されど、何と喜ばしい! 貴重な男共が結界にかかるとはのう!!』
「今日のご馳走は何にしようかしら」と喜色立つ成金夫人の物言いだ。二人もの狩人を、まるでテーブルに並べられた佳肴の獣肉のように眺めている。その声が人魚の歌声と比喩すべき、鈴の音の鳴るようなものであるのだから、生理的嫌悪を催す違和感はますます拭えない。
「だとよ。これが『食べちゃいたい程好き』ってヤツらしいぜ。良かったな、イシュライ」
「……そりゃあどうも。アンタは筋とか硬そうだしな」
「通じゃねぇな。俺は食いごたえがある男だぜ――」
『さぁ早う、早う喰らわせい!!』
「――その代金はてめぇの命だがな!!」
舌なめずりを一つ、喰い掛かろうとしたリゲイアーに、ザイオンは引き金を引き絞る。
戦闘の開始を告げる鳴動。
放たれる銀の弾丸。
しかし、リゲイアーはそれをかわす。
上空へ――露になった天井の梁に、鎌の翼を突き立て吊り下がる。
風が唸る。間髪入れずに敵の蠍尾が、今度はイシュライを狙う。
だが。
『ィギア゛ッ……!?』
リゲイアーは体勢を崩す。左翼を撃ち抜かれて――予言者たるザイオンの「時」の能力。時空間を歪めて、かわされた銀弾の軌道を変えたのだ――すかさずそこにイシュライが踏み込み、フィクストナイフを突き入れる。
刀身に刻まれた三角形魔法陣がギラリと反射し、獲物に狙いを定めた。
突如。
「……!!」
「……っ?!」
大気が、震動する。
リゲイアーが上げた、攻撃の悲鳴によって。
膨れ上がり一気に爆ぜたヒステリックなエコーは、容赦無く二人の耳を劈き、無茶苦茶に鼓膜を揺さぶる。グラリと眩めく。
それにほんの一瞬、イシュライがひるむ。
その一瞬をつかれた。イシュライのナイフが達する寸前、リゲイアーは身を翻して水の中へと飛び込んだのだ。紙一重のところで刃が虚空を切る。
「Shit!」
僅かにつんのめるも、体重を乗せた足を踏み止めすぐさま身構を戻し、周囲に顔を巡らせた。
来るとしたら……下から。
本来あの巨体が潜れるような水深では無い筈だ。けれど、そんな人間界の浅慮など、ここでは大して当てにはならない。ここはリゲイアーの“結界”であり、奴が支配する世界なのだから。
イシュライは気配を探り、感覚を尖らせる。
「――!」
反応したのはどちらが先か。
「ザイオン! 後ろだ!!」
「4時の方向、3秒後だ! てめぇにも来るぞ!」
「人の心配してる場合かよ!?」
振り返る猶予すらない。
ザイオンはそのまま銃を撃つ。前方に。
二発の弾は、能力によってグルリと転回する――
――水面を裂いてザイオンの背後に出現した、リゲイアーに向かって。迎撃。
その一連の弾筋の様は、主の命令に従い、後衛の敵へと進撃する忠実な兵士のようであった。
敵は俊敏に身をくねらせるも、かわしきれず側部に被弾する。
短い悲鳴を残して、その白き巨躯は水中へと吸い込まれていく。
3秒後。
「I knew it(お出ましだな)!」
水飛沫の塊が飛び散る。
イシュライの4時の方向から。
跳躍するリゲイアー。
交差させた両腕の鎌を、イシュライの頸部目掛けて斬り払う。
イシュライは身を捻らせ、目と鼻の先ギリギリの斬撃をナイフの刀身でいなす。
摩擦によって瞬刻に散る火花。摩擦電気――イシュライは魔力を込める。
増幅。滞留。
それによって俄かに、フィクストナイフの表面を雷電が纏い始め……赤光の雷の刃が生成される――すり抜けざまに、リゲイアーの肉體に深く滑り込ませる!
しかし。
「……チッ」
イシュライは舌打ちをし、回り込んで来たリゲイアーと再度差し向かった。大蜘蛛のように梁からぶら下がり、剥き出しの両眼をニヤリと昏い愉悦の形に歪めてこちらを見下ろす、リゲイアーを。
手応えは……薄かった。
それを証拠付けるかのように、リゲイアーの身体には銃槍や刀槍こそ残っているものの、それらはどれも皮膚に傷を付けている程度に過ぎず、肉脂にすら達してはいないようで、決定的なダメージを与えられているようには思えなかった。
チラリと手の中のフィクストナイフに視線を落とす。
曲がりなりにも、奴も中級クラスの悪魔という訳だ。ザイオンの銀の銃弾、そしてイシュライのナイフ――魔術で喚び出した人間界の雷でさえも、大きな効果は期待出来ないという事か。
攻めあぐねている間にもリゲイアーは、カンに障る嘲笑的な嬌声を上げながら、ズブズブと水中に身を浸していった。潜水する。
そうなれば最早聞こえるのは歌声にも似た笑声のみ。クスクスという含み笑いは、調子の外れたオルゴールの音と相まって、混じり合った厭忌なメロディがホール内全体に木霊する。
やはり……。
否、微かに脳裏を過ぎった考えを、イシュライは打ち消した――イシュライのコインは生憎ジャックに預けたままなのだから。
それ以前に、“マスターピース”の武器には制約があり、自らの結界か“イデア界”の中でしかその真の力を発揮する事は出来ない。
そして残念ながらイシュライには未だ、既に張られた結界の上から己の異空間を構築する事は、難しい。とあるルーラーはそれを平然とやってのけたりもしていたのだが。
となれば――
――リゲイアーの張った結界をどうにかしないとやっぱり駄目か……。
現に敵は己の結界の中を縦横無尽に泳ぎ、水面下に潜ったかと思えば其処此処から神出鬼没に飛躍して襲い掛かってくるのだ。
間合いに侵入してくる敵の隙をついて反撃し、また、次々と繰り出される予測のつけ難い攻撃を二人はかわす――
「……痛!」
――かわし切れず、鎌の切っ先がイシュライの頬を掠めた。
頬だけではない。図らずも背中合わせになって身構える二人の体のあちこちに、無数の切槍や裂傷がジワジワと増えていっていた。深手と呼ぶには程遠い傷であるのが幸いだが。
このように生皮を一枚一枚削ぎ落として嬲り殺すのを楽しんでいるようで、リゲイアーは赤い水面波の円を描きながら、二人のハンターとの距離をジリジリと詰めてきている。まるで瀕死の獲物を水面に叩きつけて弄ぶ、残忍な鯱のような狩り方であった。
「とんだクソじゃじゃ馬だ。いや、じゃじゃ魚か?」
ザイオンは軽口を叩きながら、シリンダーから空になった薬莢を排出し、銀弾を込め直す。
イシュライは目線だけをそちらに寄越して、背を預けた男を見遣る。
その拍子に罅の入った胸部にズキリと痛みが走り、眉を顰めた。頬の傷は思いの外深かったらしく、流れ出た血は首筋にまで届こうとしている。
「なあ」
「何だ」
「アイツには一からテーブルマナーを叩き込む必要が、あるよな?」
「……ほう?」
ザイオンがいつものように片方だけ口角を上げてニヤリと笑ったのが気配で容易に分かった。
「援護しろ、ザイオン――」
頬から止めどなく溢れるその血をイシュライは乱暴に手の甲で拭き取って舌で舐め取り――フィクストナイフを構え直す。
「――奴を水の中から引きずり出すぞ」
格言はこちらのサイト様から引用させて頂いております↓
《世界傑作格言集》 http://kakugen.aikotoba.jp/dyingwords.htm
このお話にこんなに手間取るとは思わなんだ……(汗)ダラダラと長くなりそうだったので区切ることにしました。次回も戦闘シーンが続きます。そして色々間違っていたらすみません!
悪魔の鳴き声のボキャブラリーがなくなりつつある今日この頃です(´・ω・`)あぅあぅ