Ⅸ. JACK
第9話 「ジャック」
《ストーリー上、R15の暴力・流血、エロティックな表現、好ましくない言葉遣い、宗教的な描写などが一部含まれることがあります。と言っても、マイの書くものなので大したことはないとは思いますが……念のため。これらが苦手な方はご注意下さいませ》
目が覚めると、そこには見慣れない天井があった。
その違和感を糸口に、必死で頭の中の記憶を引っ張り出し、そしてようやく昨日の一連の出来事を思い出す。昨夜は、イシュライという青年の家に泊まらせてもらったのだ。
寝室を整え、身支度を終えてから、おずおずと下のリビングダイニングに降りてみる。部屋は分厚いカーテンに仕切られてどことなく薄暗い印象を受けるが、時計は既に朝を迎えている事を示している。こんなにぐっすり眠れた事に、ディシー自身もとても驚いていた。
イシュライは……居ない。
だがすぐに、オフィスデスクの目立つ所に張られたメモに気が付いた。
出掛けてくる。朝には戻る。
誰が来ても開けるな。
Be careful.(用心して)
――Ishlai
ディシーは、僅かな不安と所在無さに少しばかり佇み――思いつく。せめてものお礼に、朝食でも作っておこう。勝手に食材を使ったりしたらやはり失礼だろうかと悩みながら、誰に言うでもなく一言断ってから冷蔵庫を開ける。
「…………」
随分と殺伐とした中身だこと……。
それでも何とか、冷蔵庫の片隅に寂しく転がっていた卵と、切ってから恐らく残りは見捨てられたであろう野菜の欠片や乾燥しかけた食パンを見つけ出す事が出来た。腐ってはいない。
パンはトーストに。野菜は細かく刻んでといた卵と一緒にフライパンで焼いて、モーニングオムレツに。簡単な物にはなったが、何とか形になった。後は彼が帰ってきたら、コーヒーを淹れようか。
そう思いながら、熱されたフライパンをコンロからおろそうとした、その時!
「……っ!?」
突如背後に出現した気配。
――Be careful.(用心して)
最悪のタイミングであの一文が脳裏に蘇る。
ディシーは恐怖と防衛反応に瞼をぎゅっと瞑り、握っていたフライパンを、何者かが居るであろう真後ろに咄嗟に振り上げた!
「のぅぁ……っ!?」
直後発された、その者の驚愕の声。
「用心してくれて感心だけど、オレだよ」
この声は――
態勢はそのままに、慌てて後ろを振り返る。何時帰って来ていたのか、そこにいたのはイシュライであった。フライパンを持ったディシーの手首を反射的に受け止め、苦笑している。
「……イシュライ、さんっ!?」
「驚かせてごめん。I'm home.(ただいま)」
「ご、ごめんなさいっ!! 本当に、すみません!! てっきり――」
「美人に襲われるなら本望だよ。でも……念の為にこれはあっちに置いとくことにしよう」
イシュライは彼女の手の中の、たちどころに凶器に変貌してみせた調理器具をキッチンの端っこへと撤退させる。ディシーは一にも二にもとにかくひたすら平謝りだ。
彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた後に、皿にのせられたトーストとオムレツを覗きこんで話題を変える。
「何か良い匂いがすると思ってたんだ」
「朝食をと思って……」
イシュライが目を丸くする。
「すみません、勝手に食材を使ってしまって……」
「いいや。食える物がまだ我が家にあった事に驚いてるだけだ。是非とも頂戴するよ。Thanks.(ありがとう)」
ディシーはほっと息をついた。
「オレと居候の男所帯だから、家庭料理は久しぶりだ」
程なくしてディシーとイシュライは、リビングのローテーブルを挟んだソファに向かい合って座り、淹れたばかりのコーヒーと朝食を取るという、出会ったばかりの男女にしては些か妙な光景を実演する事になった。
イシュライは目を細めて美味しそうに食べていたし、ディシーも恥ずかしがりながらも彼のその様子を見て嬉しく感じていたので、双方そんな事など気にするのを忘れていたが。
「そうだ」
最後のオムレツの一口をのせたフォークを口に運んでから、イシュライが口を開いた。
「今日はちょっと一緒に来て欲しい所があるんだが……」
ディシーは少し温くなってしまったコーヒーのカップを両手で持ちながら、小首を傾げる。
「……? 構いませんけど……何処に?」
「それは――」
† JACK
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
人間はすべて善であり、悪でもある。極端はほとんどなく、すべて中途半端だ。
A・ポープ
「――ここだ」
連れて来られた場所は、イシュライの車で数十分程の、南エリアの一角に位置するランドリー店であった。コンクリートの白壁にはカラースプレーで其処此処に落書きがされており、実際の建築年数よりもずっと寂れた印象を与えている。
少し離れた所に車を停め店へと進んで行くイシュライの後を、ディシーは疑問に思いながらもついて行った。
店内に、客は一人もいない。
受付に一人だけ、店主と思しき人物が居た。
小柄な中年男性である。虫眼鏡のようにレンズの厚い眼鏡の奥の神経質そうな瞳は、閑散とした店内ではなく、受付台上のチェス盤にのみ向けられている。頭の中の架空の対戦相手と一勝負中なのであろう。
イシュライは無遠慮にツカツカと歩み寄って行って、こちら側の黒の駒を動かす。
「王手だ」
男は口をあんぐりと開け、身を乗り出して盤上に穴が開きそうなくらい凝視する。それからブツブツと何やら呟きながらこちらをチラリと一瞥し――顔を上げて二度見をする。
「Ishlai=Valentia Jr.!!」
そして突然立ち上がって、大声で叫ぶのだ。
「イ、イシュライ。あああ会いにきき来てくれて、本当に、こ、ここ光栄だよ」
口調だけが頼りなく萎んでいく。しかし態度は依然として健全で、イシュライが世にも稀な特別天然記念物か何かで、今にも彼を剥製にして永久保存してしまいそうな勢いである。イシュライが笑みを引き攣らせて思わず後ずさる程に。
「Hey.(やぁ)ディシー、紹介するよ。彼はJack」
心なしか、イシュライがディシーの方に逃げていた。
「ジャック、こちらのレディはDecy。依頼人だ」
「どうも、初めまして」
「や、やぁ、どどど、どうも……」
「ジャック」と紹介された男は視線をせわしなく泳がせながら、額に浮いた冷や汗だか脂汗だかをハンカチで拭った。ディシーを「依頼人」と呼ぶという事は、彼もイシュライと同じハンターなのだろうか。
「ジャックはその手のアイテムのコレクターなんだ。魔導具から霊具、ハンターやエクソシストの武器から専門書まで何でも集めてる」
彼女の思いを感じ取ったかのように、イシュライがそれに答えてくれた。
「せせせ正確に言うと、ぼ、ぼぼボクは、一族マニアなんだけどどど、ね」
「“一族”……?」
「おっと、それ以上は聞かない方がいい。ジャックもそれ以上話すな」
慌ててイシュライが止めに入る。
「今日は頼みがあって来た」
「たた頼み? ぼ、ぼ、ぼぼボクに?」
「ああ」とイシュライは頷きながら、彼がいつも首にかけている手擦れのしたアンティックゴールドの硬貨のペンダントを、ジャックに見せつけるように宙に掲げた。するとどうだろうか。途端にジャックの目の色が変わり、主人に餌をお預けされた犬のようになったではないか。
「な、なな何だい? 頼みたい事ととと、って?」
「調べて欲しい物がある」
「……これですか?」
そう言って目で指されたのは、ディシーの胸元に光るペルブルーの十字架ペンダントであった。ディシーはペンダントを指先でそっとなぞる。
「彼女のあのペンダントは、どうやら魔や呪いを防ぐ力があるようだ。ディシーも光ったのを見ただろ? 狙われる理由のヒントが見つかるかもしれない」
「そそ、そそそれなら、お安い、御用さ……」
「少しの間借りても構わないかな、ディシー? キミのお祖母さんの形見だって聞いてたけど……」
「……ええ、大丈夫です」
その言葉に、イシュライはディシーの肩にポンと手を置いて、「ありがとう」と優しく微笑んだ。ディシーも微笑み返す。それから彼はジャックへと向き直った。
「それともう一つ」
「ま!? ま、ままままだあるのかい!?」
「誰が一つだと言った。オレも調べたい事がある。“暗い部屋”を開けてくれ」
――暗い部屋……?
その一言を聞くや否や、ジャックの挙動不審な態度が輪をかけて酷くなり、明らかに動揺し始めた。例えるなら、父親の大切な物を壊した揚句にこっそり隠蔽した事がバレかけた少年のような。
「そ、そそそそればっかりは、ねぇ……」
「いいのか?」
イシュライがコインのペンダントを見せつけるように翳せば、ジャックはぐっと言葉を詰まらせた。何だかよくは分からないが、二人の間で「暗い部屋」というモノを巡っての駆け引きが始められているようである。
「調べている間、こいつを好きなだけ貸してやろうと思ったのになぁ」
「で、でででも、あ、あああの部屋は、あんまり、りりり、外気を入れたく、ないんだ! コレクションが、い! いいい傷むかもしれないし、もしかしたら、ぬ、ぬぬぬ盗まれるかも……っ!!」
「盗まれない為に、ヤツの店の地下に作ったんだろ?」
「そ、そそそそうだけど、い、いいいくらキミの頼みでも、そそそそれは……」
依然渋るジャック。
「やれやれ……。こんな手は使いたくなかったんだが、仕方ないな」
大袈裟に肩をすくめて溜息を吐くイシュライ。
「ななな何だい、今更、かかか貸さないって、言うのかいっ!?」
「いいや、貸してはやるさ。ただ――」
イシュライはそこで言葉を区切ってから、一際鋭い視線をジャックへと叩きつける!
「――そこらの見も知らない通行人達に嫌って程触ってもらった後でな!」
「ギィイヤアァァァァァァァァっ!?」
反響するジャックの絶叫。ディシーはビクリと肩を震わせた。
「な、ななな何て恐ろしい事をっ!! しししし正気の、ささ沙汰じゃあない!! そ、それを、何の価値も知らない、いいいい一般人達に!? さ、触らせるぅぅぅぅっ!? てて手垢で、よよよ汚れるじゃないか!! いいや、ももももし傷つけたらっ!? お、おおお落っことしたらっ!? ここ転がって側溝にははは入ったらっ!? そそそそんな、二つと無い、ききき貴重な代物を!? そ、そうなったら、ぼぼボクは、耐えられない!! おお、かかか神よ、救い給え!!!!」
「悪いがその命運を握ってるのは今の所神様じゃなくてオレだ。さ、どうする?」
その最終警告に、ジャックはしょぼくれて呆気なく折れてしまった。
「わ、わわ分かったよ……」
「Good.(よし)」
突如、ジャックに向かってペンダントを無造作に放り投げる。
悲鳴を上げながら、これ以上ない位の反射神経と俊敏さでジャックはそれをキャッチする。一瞬残像すら見えた気がした。何とか受け止めた彼の額には安堵からか疲れからかまたうっすらと汗が浮かび、膝は生まれたての小鹿のように小刻みに震えている。
それを見届ける事もなく、「車をこっちに回してくる。ちょっと待っててくれ」とイシュライは踵を返して店を後にした。
残されたのはディシーとジャックだけ。
と言ってもジャックは受付台に戻り、イシュライのペンダントを表にしたり裏返したり、あっちの角度で見たりはたまたこっちの角度から見たりと、ニヤつきながら心行くまで堪能している真っ最中である。
ディシーはその場にポツンと佇むだけ。
辺りには微妙な静寂が漂っていた。
「…………あの」
気まずさに耐えられなくなり、ディシーが小さく声をかける。
「………………な、ななな何だい?」
無視されるかと思ったが、意外にもジャックは返答してくれた。視線はペンダントに固定されたままでこそあるが。
「その金貨、何か特別な物なんですか?」
必死で共通の話題を探したディシーが、疑問に感じていた事をふと何の気無く尋ねる。
しかし、ジャックは弾かれたように顔を上げてディシーを真正面から見返した。目は口程に物を言う。その瞳はこう物語っていた――Unbelievable(信じられない)!
「特別だって!?」
「え……!?」
「特別で言い表せる次元じゃない! これは魔導具の武器さ! それもマスターピース級の!!」
「コインが……武器、なんですか?」
「ただのコインじゃない!!」
「ひっ……、ごめんなさい!」
180度豹変して人が変わり椅子から立ち上がったジャックの勢いに圧倒され、ディシーは反射的に謝る。
「魔導具にしろ霊具にしろ、“マスターピース”は力が強すぎるから、人間界では似象の姿なんだ! 自らの創った“結界”か“イデア界”の中でしか真の力は発揮出来ない!」
「は、はい……」
「お宅がコインと呼んだ、マスターピースの中の一つがこれ、“雷”だ! 黒の一族、ヴァレンチアの“魔術師”に代々受け継がれてきた代物なんだよ!!」
「黒の、一族……」
黒の一族――確かイシュライの話では、世界が三つに分裂する原因となった神と魔の戦いの痕跡として人間界に生まれた、神の加護を受ける“白の一族”と並ぶ、魔力を宿した一族の事、だった筈だ。
けれど、ヴァレンチアの魔術師とは――。
「そう!」
ジャックはディシーの呟きを力強く肯定すると、駒諸共チェス盤を乱暴に下げて、受付台の下からとてつもなく古い、そしてとてつもなく分厚い一冊の本を取り出してきた。本というよりは辞書と呼んだ方が適切であろう域の厚みではあるが。
その本を淀みなく捲り、まるで目印でもつけてあったかのようにとあるページを大きく広げ、ディシーに差し出してくる。
促されるがままにディシーは目を落とす。
「魔術師」の章の1ページのようだ。
そこには「Wizard of Valentia」と記されてある。その下に転載されている絵画――呪文に似た模様の刺繍が施された、夜空を染め上げたかのような群青のローブとフードを纏った人物が、落雷した稲妻を携えている。ローブから覗くその手には刺青。三角形の魔法陣だ。
この紋様、何処かで見た事が……。
「黒の一族の魔術師の一つ、ヴァレンチアの魔術師! 大昔に雷の悪魔フルフィールと契約して魔力を得た、雷の魔術師さ!!」
「ヴァレンチア……」
「その通り! イシュライはその末裔なんだ!!」
「イシュライさんが……?」
「それだけじゃない! 彼には魔法陣や祭壇や生贄に頼る結界なんて必要ない! 何てったって“イデア界”を構築出来る“支配者”だからね! まぁ……正確には準支配者ってところだけど。けど! 黒の一族で支配者で! 一族マニアのボクでもこんな人物にはそうそう会えるもんじゃない!! まさに幸運! 奇跡だ!!」
ジャックは教科書の文を丸暗証するかのように一度も閊える事なく、感極まった口調で熱っぽく語り続ける。
しかしそれは、幻想から覚めた夢追い人のように、針を刺して萎んでいく風船のように、次第に弱いものになっていった。
「じ、じじ実は――」
最後には小さく丸くなって椅子に座り込んでしまう。
「――実は、ぼぼぼボクも、“一族”のしし子孫なんだよ……」
「ジャックさんも?」
「そ、そう、ししし白の一族“賢者”の家系さ。で、でででも…………、でも、ぼぼボクは全くその力を、受け継がなかった。だだだ駄目な、やや奴さ……」
「そんなことないです!」
気が付けば、先程のジャックに負けない位の声でディシーは反論していた。ジャックも、そして当人のディシーもそれに驚き目を見開いている。
ディシーはほんの少しの間、この感情を言い表すにふさわしい言葉を探し――そして、ジャックの眼鏡ごしの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「ジャックさんは、イシュライさんに協力してくれて、私を助けてくれる人です。だから……『駄目な人』なんかじゃない。とっても良い人なんです!」
「…………そ、そそそう、かい?」
ジャックは鼻の頭を気恥かしそうに掻いた。そして聞き取れるか聞き取れないかのギリギリの音量でボソリと呟く――Thanks.(ありがとう)と。ありがとうと言わなければいけないのはこちらの方なのに。
「珍しいな。ジャックが人と普通に喋ってるなんて」
声はディシーの背後から聞こえた。
イシュライが戻って来たのだ。
珍しい物でも見るような、けれどその中に僅かな苦々しさを滲ませた表情で、ディシーとジャックを交互にまじまじと見遣っている。だがそれも束の間の事で、すぐにいつもの人あたりの良い笑顔を貼り付ける。
「さあ、手筈も整ったしそろそろ行こうか――」
「――“暗い部屋”へ」
†
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
車に乗り込む前。ディシーには聞こえないように、イシュライはジャックに話しかける。その顔は幾分腹を立てているようにも見えた。
「余計な事を彼女に話すな」
「よ、よよよ余計な事……?」
「“一族”に“支配者”」
「ああ……つ、つつつい、歯止めが効かなくて」
「『それ以上は話すな』って薄っぺらいオブラートに包んで忠告しといた筈だが?」
「も、もももう、話しちゃった後だよ……」
「だな。罰として、“雷”のレンタル時間、マイナス5時間な」
「そ!? そ、そそそそんなあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
「当然の報いだ。このお喋りめ」
格言はこちらから引用させて頂いています。いつもお世話になっております。
→『世界傑作格言集』 http://kakugen.aikotoba.jp/human.htm
※『フルフィール』……翼と、燃え立つ尾を持つ牡鹿の姿をした悪魔“フルフル”がモデル。偽りによって人を惑わし、三角形の魔法陣の中でのみ真実を告げるという。男女の愛を引き起こし、雷や嵐を呼び寄せる。(Wikipediaより参照)
※『賢者』……“白の一族”のひとつ。霊視の力に長け、この世に在らざる者や物、その正体(例え人に化けているモノでも)や思念・痕跡を視る事が出来る。ウィタンがいれば、今回の事件ももっと楽に進んだのだろうが……。
イシュライは料理は全く出来ません。外食とかデリバリーとかが主。
そして新キャラ登場しました!オッサンだけれども\(^q^)/コインランドリーでの盗難防止などの為にお店にいます。