夏の海辺に黒い猫(3)
ヴィオラの姿が見えなくなったかと思うと、頭上にあった重さが力尽きたようにずるずると肩の辺りにまでずり落ちてきた。
(やっぱり痩せ我慢だったのか)
ある意味健気なのだが、あまりにも前後の様子に差がありすぎて思わず吹き出す。横からぎろりと睨まれた気もしたが、味方をしてやったからか、爪やパンチは飛んでこなかった。
これじゃいざという時に使い物になりそうにないが、多分そうした時にはまた今の様子が嘘のようにシャッキリするのだろう。いざという時など早々起こっても困るが、もう一度くらいは見たいような気もする。
「──あ、そうだ」
そう言えばこんな時に丁度良い物がある。ユータスは肩にステラを乗せたまま歩き出した。
流石に飛び降りるかと思いきや、ステラはそのまま肩に乗っている。ユータスもわざわざ下ろすのも面倒だったので、そのまま放置する事にした。
やがて先ほどまでいた作業場にたどり着くと、入り口の横に置いてあった机の上からある物を持ち上げる。
細い竹ひごと特殊な紙を使った『団扇』というものだ。深紅に塗られたそこに、黒々と謎の文字が一文字描かれてある。
数年前にゴルディが飲み会に行った際に何処からか拝借してきた物だ。人との付き合いがある酒の席では滅多に深酒をしないのだが、その時は余程相手に恵まれたのか楽しい酒だったらしい。
カルファーとユータスが帰りが遅過ぎると迎えに行った時にはすでに手にそれがあり、ゴルディは途中の道端で気持ち良さそうに爆睡していた。
真面目なカルファーは本来の持ち主に返すべきだと主張したものの、泥酔すると記憶が飛ぶゴルディは何処から持ってきてしまったのかわからず、結局何処へ返せば良いかわからないまま今に至る。
描かれている文字からしておそらくシラハナか長空の物だろうという事だが、外からの物が頻繁に入ってくるティル・ナ・ノーグでは特別珍しい物ではないらしい。
こちらの貴婦人が持つ扇子と同じように使うらしいが、折り畳めないので持ち歩くには嵩張るし、軽くて見た目によらず丈夫という事もあり、現在は加工炉に火を起こす際に炉内に風を送るのに使われている。
その時のようにパタパタと扇ぐと、少し生温いが風が起こる。
「──ニャウ」
ユータスの意図に気付いたのか、ステラが気が利くなと言わんばかりに小さく鳴いた。
そのまま団扇を動かしつつ、熱のこもる作業場から再び木陰に戻りながらぼんやりと表に書かれた文字に目を向ける。
(いつも思うけど、なんて書いてあるんだろ。これ)
直線と曲線を組み合わせ、たった一文字で意味を持つ。海の向こうの文化を示すもの。
いつも使う度に気にはなっているのだが、残念ながら工房にその文字を読める人間がいないし、わざわざ調べてまで解読しようとするほど情熱のある人間もいない。
きっとこの先もわからないままで終わるのだろう──その文字を読めなくてもまったく困りもしないし、不自由はないのだけれど。
視線を再び海へと向ける。すっかり見慣れた風景だが、この海の向こうにはこの見知らぬ文字で生活している人々がいて、『団扇』以外にも見た事もない道具を使っていたりするのだろう。
それを知らなくたって、生きてはいける。実際、知らずに一生を終える人間が大半に違いないし、ユータスも今まで困った事はない。
そんな人によっては取るに足らない些細な事が何となく気になるのは、きっと自分が現在置かれている状況に重なるからだ。思わずため息が零れる。
「……猫はいいな」
特に肩にある重みを意図したつもりはなかったのだが、何となく口から出た言葉に『猫』扱いするなとばかりに即座にビシっと後頭部に尻尾の一撃が入る。
顔だと鬱陶しいが、元々尻尾ももふもふしているので痛くはない。その反応が絶妙で、何となく会話をしているような気分になってくる。
いくら賢くでも相手は動物で、人の言葉など話せないばかりか、解決策など教えてくれるなど思ってもいないが、ついここ最近ぐるぐると考えている事が口から出た。
「──なんで『何か』にならないといけないんだろ」
ゴルディからニーヴ像を造ってみろと言われた時、ついに来てしまったと思った。
ニーヴを造るという事は卒業試験のようなものであり、つまりは近い将来、『独立』する事を視野に入れなければならないということだ。
少し前から周囲でそういう話が出ていたらしい事はユータスも知っていたが、年齢的な事を考えてもまだ当分先の事だろうとぼんやり思っていた矢先の事だった。
──今まで深く考えずにいた事に対して、急に現実を突き付けられた気がした。
師や兄弟子達の仕事を手伝うのは好きだ。どんな作業もいろいろと面倒臭さが付き纏う事は事実だが、その分やり終えた後の達成感や充足感はそれを覆して余りある。
実際、『職人』の世界しか知らないから、他の生き方なんて思いつけもしない。
けれど、元々『細工師になりたい』と思ってこの道に入った訳ではなかったので、このままこの世界に居ていいのだろうかとも思う。
『細工師にならなくても修復で食って行けるよ、お前』
先日、作業を手伝った兄弟子のリークにそんな事を言われた事も地味に悩みを広げていた。
リークが何処まで本気でその言葉を言ったのかは不明だが、その言葉で『細工師』にならない未来もある事に気付いてしまった。
ゴルディもユータスに本業である宝飾関係に限らずいろいろな技術を教えてきたし、兄弟子達の仕事を身近で見て手伝ってきたお陰で、どの分野も一通りの仕事は出来る。出来る、のだが。
ひょっとしたら、ゴルディは狙って『ニーヴ像』を指定してきたのかもしれなかった。実際、ユータスはそれをうまく造れずにいる。
自分でも理由は何となくわかっていた。技術に限らず、自分は既存の物事を再現する事は得意だが、それを自分なりに改変して造るという事が基本的に苦手だ。
というか、そもそも『普通』の基準がよくわからないので、何処まで改変していいのか判断がつかないのだ。
完全に未知のものならまだそれなりに想像で造る事は出来るのだが、今回の題材であるニーヴは過去に多くの作品が造られている。
ユータスもすでにいくつも目にしている為、ニーヴと言うとそのイメージの数々がどうしてもちらつく。しかも困った事に、名のある作品ほどじっくり見ているので、いつまで経っても風化しない。
『お前が抱いているニーヴのイメージをそのまま造ればいいんだよ』とゴルディは言うが、イメージを組み立てる前に過去に見てきたニーヴの姿が先に出て来るのでお手上げだ。
他の物を模倣した所で、ゴルディから合格が貰えるなど当然思っていない。
(こんなんでオレ、このまま細工師になっていいのかな……)
おそらく、『細工師』になる上でのこれという目標とか目的があれば違うのだろうが、今の所はそういうものもない。元々この道に入った理由も、不完全な形ではあるがすでに達成している。
結局、惰性でここまで来てしまったのが問題だったのだろう──今になって気付いても後の祭りだが。
気付くと扇いでいた手が止まっていた。再びパタパタと動かしつつ、ユータスはため息をつく。
そんなユータスを肩の上でじっと見守っていたステラは、やれやれというように一つ欠伸をし、吹きつけて来る人工の風に目を細めた。
+ + +
(──まさか、こうなるとは思ってなかったよな……)
ぐったりとカウンターに突っ伏しつつ、ユータスはぼんやりと当時の事を思い返していた。
それから一月もせずに、知らずに終わるはずだった海の向こうからやってきた少女・イオリと出会い、さらには一緒に工房を立ち上げ、怒られたりどつかれたりしつつ、細工師として毎日仕事に追われるようになるとは、当然ながら夢にも思っていなかった。
今回も毎度の事ながら仕事明けである。特に自分で宣伝などした覚えもないのに、一体何処でどうなったのかわからないが、一つ片付いたかと思うと次の仕事が控えている有様である。
ありがたいと思うべきなのかもしれないが、イオリが言う通り、少しは仕事を選ばないとならないのかもしれない。選ぶ基準を考えるのが大変面倒臭いので、手当たり次第に引き受ける方が楽なのだが。
軽く扉を叩く音がして、客かと顔を上げるとそこには当のイオリが立っていた。
「こんにちは。この間受けた依頼のデザイン持ってきたんだけど……ちゃんと食べてる?」
「……」
言われて記憶を探ってみる。考える事が必要な時点で、少なくとも一日は食べていない事がバレバレである。ピクリとイオリの眉が持ち上がった。
ひゅっと空気の鳴る音がしたと思うと、白いものが喉元につきつけられる。
「──さてはお風呂も入ってないでしょ」
それがいつもイオリが所持しているハリセンである事に気付き、纏わりついていた睡魔も吹き飛んだ。肯定も否定もしない内に気付くとそのまま外に引っ張り出されている。
これはこのまま定番の藤の湯コースのようだ。引きずられるように連行されつつ、そう言えばとユータスは現実逃避のように思い出した。
(イオリならあの文字がなんて読むかわかるのか)
あの団扇が今も師の工房にまだ健在なのかは不明だが、毎日のように見ていた文字は今でも明確に思い出せる。
取りあえず後で聞いてみよう、そんな事を思いつつ、ユータスはすっかりお馴染みになった藤の湯へ続く道を、今日もイオリに引っ張られて行くのだった。
※今回お借りしたキャラクターと関連作品はこちら※
イオリ(キャラ設定:香澄かざなさん) ⇒ 『ティル・ナ・ノーグの唄』シリーズ http://ncode.syosetu.com/s8126a/ 作:香澄かざなさん