夏の海辺に黒い猫(1)
【ティル・ナ・ノーグの唄】の海企画に出したイラストを元に書いた小話です。本篇より二年程前の、ある夏の日。
季節は盛夏、八月。
基本温暖なティル・ナ・ノーグでも、時として炎天下になる事もある炎の妖精が司る月。
今日はまさにそんな日で、陽射しは強く照りつけ、普段は気持ちよく吹きつけて来るエクエス海からの風は凪ぎ、じっとしているだけで汗が浮いて来る熱気である。
(なんだアレ)
水汲みを終えて一休みしようと木陰に移動しかけたユータスの視線の先に、黒くてもふもふした物体があった。
つい一刻程前まではなかったはずの毛玉に不審に思って近づくと、やがてその背に蝙蝠のような翼がある事に気付く。
黒くてもふもふしていて背に翼と来れば、出てくる物は一つしかない。
「……ステラ?」
ぐったりと地面に伸びた今までほとんど見た事のない姿に思わず声をかけると、閉じられていた目が開き、金色の目が億劫そうに視線を向けてくる。特徴的な額の白い星といい、間違いないようだ。
ステラがこんな所に単独で来るとは思えず、近くの窓から中を覗くと、この熱気でも何処か涼やかなほっそりとした白い後ろ姿が見えた。
(マダム……、来てたのか)
そう言えば朝、来客予定があると元・一番弟子で、現在はこの工房の経理・事務関係を一手に引き受けているカルファーが言っていた事をぼんやり思いだす。
『ですから先生。今日は家に居て下さいよ。……なんでいつもは言わなくても引きこもっているくせに、人が来る時だけ活動的になるんですかね、まったく』
『──余計なお世話だ』
『悪いけどユータスも頼むよ。私は今日、急に午後から会合に出ないとならなくなってね』
『わかりました。……何処かに逃亡しそうだったら、阻止すればいいんですよね』
『うん、忙しい時に済まないな。何ならブルード辺りに来て貰ってもいいんだが……』
『──うまくいってないから、大丈夫です。それにブルードさんやジンさんに、カールさんの代役が務まるんですか?』
『……。うん、無理だね。ジンは素面じゃ喋らないし、ブルードは仮面があったらいける気もするけど、それは客人に対して失礼だろうね。やっぱりここは先生に頑張って貰おう。そもそも先生の客なんだし』
『わかりました、オレも気をつけます』
『ありがとう。逃げそうだったら少しくらい手荒くしても構わないよ。ああ、なんならロープも用意しておこうか。本当にいい年をして子供みたいで困るよ』
『そうですね』
『──お前等、本人を前に堂々とそういう話をするんじゃねえ。大体、そんな縦ばっかり伸びた細っこい腕のガキに俺を取り押さえられる訳がねえだろ』
『ふっ、どうですかね。身内に甘いのはうちの家系ですし、ユータスを困らせるのは本意ではないでしょう? それに飲み会で飲み潰れる度にその「細っこい腕」の世話になっているのは何処の誰です』
『ぐっ!』
『ユータスが見た目より力がある事は身をもって知っているでしょう? それに実際、この間捕まっていたじゃないですか』
『あ、あれは捕まってやったんだ!!』
『はいはい、そういう事にしておいてあげますよ』
──そんな朝の騒々しいやり取りを思い返しつつ、来客はこの人だったのかと思う。さらにカルファーが誰が来るかを口にしなかった理由も思い当たった。
彼女とわかっていたら逃げはしなかっただろうが、その代わりに面識があるからと応対などを全部ユータスに丸投げしていたに違いない。
──師であるゴルディの人見知り&人嫌いっぷりは相当なものである。
長年連れ添った妻・シルヴィアが生きていた頃はまだ良かったそうが、彼女が亡くなってからは人嫌いに拍車がかかり、ほとんど引きこもり同然の生活を送っている。
表に滅多に出ないゴルディは知る人ぞ知る名匠で、過去に多くの弟子志望者がやって来たが、ユータスを含めても七人しか弟子がいないのはそのせいだ。
しかもその内一人は実の息子のカルファーで、ユータスも親戚筋という事を考えると、血筋に関係のない弟子はたったの五人しかいない事になる。
余程ゴルディと波長が合うか、酒の好みが一致しているか、忍耐強いか、図太いか、世話焼きかのいずれかでもないと弟子にはなれない。
これは客人にも当てはまり、常連の客ほどちょっと変わった人物が多い。
目の前に行き倒れのように転がる毛玉──もとい、ステラの主人は何処か人離れした美貌の持ち主ながらも非常に気さくな女性で、何でも昔、王都では名の知られた舞台女優だったのだそうだ。
名をヴィオラ=ステイシス。
何処かでゴルディの造った細工品を手に入れ、それを随分と気に入ったらしく、六年くらい前から時折この人里離れた場所にある工房をわざわざ訪れては何かしら注文して行く。もはや、お得意先とも言えるかもしれない。
そして今ユータスの足元で毛玉と化している猫のような生き物――アルフェリスという――もその度に同行して来るので、今ではすっかり顔馴染みだ。
「──大丈夫か?」
普段なら顔を見るなり頭の上に飛び乗って来るのに、今日はそんな元気もないほど消耗しているようだ。何となく声をかけてみるが、当然ながら無反応だった。
(……まあ、これだけもふもふしてたら暑いよな)
本来、高山地帯で生息する生き物なので、その被毛はふっかふかのもふもふで、ついでにいい物を食べさせて貰っているお陰か艶も完璧である。寒さには強いだろうが、暑さには弱いだろう。
金属を加工する際など、何かと高温を扱うので暑さに耐性のあるユータスでも今日はいつもより暑いと感じるほどである。
主人に同行したはいいが、主人が室内に入ったと同時に力尽きたのだろう。一緒に入れば日陰なので少しは涼しいだろうに、何故か外で待機していたようだ。
「……」
考える事、しばし。蹴り飛ばされる事を覚悟の上で、手を伸ばす。
近づいて来る気配に気付いてか再び目を開いたステラだが、珍しく無抵抗にユータスの手を受け入れた。そのまま持ち上げ、日陰に運ぶ。
暑さで抵抗も面倒なのか、それともそれなりに信用してくれているのか、だらりと手足が伸びたまま大人しく運ばれる姿は、まんま暑さにだらけた猫そのものである。野生は何処へ行った。
(珍しいな、今日はいないのか)
誰かと言えば、ヴィオラの夫であるポンド=ステイシス氏である。
いつもステラを伴って単身訪れるヴィオラだが、実際は彼女の夫がひっそりと付き従っているのが常である。いつからそうだったのかは不明だが、その事実にユータスが気付いたのはつい最近の事だ。
それも現場を直接目撃した訳でもなく、何かを思い出す為に記憶を遡っていた際にふと違和感を感じたのが切っ掛けで、それは見事にまでに周囲に溶け込んでいた。一見、何処にでもいそうな人物なのに只者ではない。
おそらく記憶という『映像』として残っていなかったなら──見た物をそのまま覚えているユータスでなかったなら──この先も気付いたかわからない。
少なくともゴルディとカルファーが気付いていない事は確かだ。
ヴィオラに付き纏う不審者とも捉える事は出来たが、過去に数度だがヴィオラと共にステイシス氏も客として来た事があるので、おそらく間違いはないだろう。背格好的にも一致する。
比較的治安の良いティル・ナ・ノーグは、戦闘能力のない女性が一人歩きしても危険に遭遇する事はまずないが、まったく危険がない訳ではないしならず者の類だっている。
そして何より、ヴィオラはその容姿だけでなく、稀少種のアルフェリス連れという事もあって何かと目立つ。その身を案じて、という事だろうか。
護衛をつけるでもなく、何故にわざわざ隠れるように着いて来ているのかは謎だが、何か理由があるのだろうとユータスは沈黙を守っている。
──正確には、追求するのが面倒で放置しているだけなのだが。
自分や周囲に無害なら他人の奇行は放置に限る。それはこの工房に来てユータスが最初に学んだ事だった。何しろ、職人界隈は奇人変人が多い。
お陰で今では多少の事では動じなくなったユータスも、すでに十分『変人』の内に数えられているのだが、本人にその自覚はなかった。
件のステイシス氏は一度気付いてその時々の出来事を思い返せば、それ以降は何となくいるかどうかがわかるようになった。ステラの態度がまったく違うからだ。
ヴィオラにべったりとくっついて甘えている時は姿は見えなくてもステイシス氏が同行しており、今日のように外や入口付近からあまり動かない時はいない。
アルフェリスは非常に賢い生き物として知られており、また同族意識が強く、『家族』が危険に晒されるとその外見に見合わない戦闘能力を発揮するという。
ステイシス氏にどれ程の戦闘能力があるのかは不明だが、その庇護がない今は自分が主人を守らねばならないと思っているのだろう。
実に立派な愛玩動物の鑑である──残念ながら、この熱気には勝てなかったようだが。
その意志を尊重して室内ではなく木陰に運んだのは正解だったようだ。地面に下ろすまで蹴りの一つも飛んで来なかった。
そのままその横でぼんやりと遠くに見える海を眺める。周りには民家もろくにない所だが、ほんの少しだけ高台にあるお陰で海がよく見えるのだ。
風こそないものの、木陰に入った事で体感温度が弱冠下がったのか、ステラも先程までよりは元気になったようだ。さほど時を置く事なくピクリと耳を立てたかと思うと、もそりとその身を起こした。