金時計顛末記(2)
じゃりっ、と小石が地面を擦る音がした。
何者かが大地を踏みしめたのだと理解すると同時に、私は音がした方向へ顔を向ける。
取引先との会合が思ったよりも長引き、夕食もどうかという誘いを何とかうまく断っての帰り道の事だった。
秋も深まり、そろそろ雪の妖精が司る月の訪れも近い。時折吹く風は何処か冷たく、周囲はすっかり夜の闇に支配されている。
仮にも王都サフィールの、それなりの階級の人間が多く居を構える界隈だ。
防犯を意図した灯が点在し、中には一体いくらかけたのか、精霊の力を利用した人工の照明──マジックアイテムの一種──すらある。
その光が周囲の闇を僅かなりとも遠ざけている為、足音の主の居場所はさほど苦労せずとも見つける事が出来た。相手も隠れる気はなかったらしい。
「──ポンド=ステイシスだな?」
まるで私が視線を向けるのを待っていたかのように、名を確認される。
素直に答えてやる必要性はまったく感じなかったものの、相手の目的が何かわからない今、誤魔化してもさして良い事にはならないと判断し私は頷いた。
「いかにも、私がポンドですが。……何か御用でしょうか?」
用があるのは一目瞭然だが、あえて問いかける。すると男はさらに一歩こちらに踏み出した。
ローブのようなものを身にまとい、一見冒険者の類のように見える。
わざわざ名を問いかけて来た所を見ると、少なくとも夜盗の類ではないようだ。年はわたしよりいくらか上辺りだろうか、低く問いかけて来た声はそれなりの年を重ねたものに思われた。
「単刀直入に言う。──会員番号一番の会員証を譲って頂こうか」
「……何……?」
思わず耳を疑った。
「金ならいくらでも払う」
そう言いつつも、男は腰の辺りから手を動かさない。
何処か思いつめたような口調といい、金はいらないと言えば腕ずくでもという事は目に見えて明らかだ。
「金ね……。それより何故、私がそれを持っていると?」
会員番号一番──それを意味する心当たりは一つしかない。だが、私がそれを持っている事は今の時点では極限られた人間しか知らない事だ。
すると男はすっと、腰の辺りにあった手を持ち上げた。反射的に身構えかけたものの、夕闇を透かしてカードらしきものを彼が手にしている事がわかり緊張を解く。
「それは……」
「会員番号五番の会員証だ。……まさか貴様が一番を持っているとは思わなかったぞ、ポンド=ステイシス。一体、いくら積んだ?」
なるほど、そういう事かと私は納得した。
すでに運営から手を引いて久しいので現在の会員数は知らないが、流石に一桁台を持つ人間の名前くらいは覚えている。
元々の五番の持ち主は確か当時すでに高齢に差しかかったご老人で、数度だが直接話した事もある。私が一番を持つ事はおそらくその人から聞いたのだろう。
目の前の男が何故その会員証を手にしているのか気にはなったが、取りあえずもっとも気にかかる事を確認する事にした。
「──あなたもファンなのですか」
人を見た目で判断するほど愚かではないが、一見あまりそうした趣味を持っているようには見えない男にそう問いかける。すると、手にした会員証を大事そうに仕舞いながら男が頷いた。
「全ての舞台を見た訳ではないが、『サフィールの菫』は俺が知る限り、駄作のシナリオですら名作に変える屈指の女優だ」
それはいささか誉めすぎな気もしたが、『サフィールの菫』と謳われる人物がこの王都でも広く名の知られた女優である事は事実だ。
人離れした美貌と非常に繊細で緻密な演技。人の内面を表現する事に特に長けた女優だ。性格は非常に気さくで朗らか、男性のみならず女性のファンも多い。
なるほど、と納得しつつ私はどうしたものかと考えた。
会員番号一番──何の会員かと言えば、『サフィールの菫』ことヴィオラ=ルシエルという名の女優の非公式ファンクラブの会員である。
現在、彼女は結婚しヴィオラ=ステイシスと名乗っている。つまり、私の可愛い可愛い可愛い可愛い……ともかく、いくら言葉にしても言い足りないくらい世界一可愛い嫁の事である。
もっとも故あって、残念ながらこの溢れんばかりの思いは公言しないようにしているのだが。
彼女のファンに基本的に悪い人間はいない、と私は思っている。だがしかし、何事にも例外というものは存在し、また世の中には何を置いても譲れない物があるのだ。
「申し訳ありませんが、お断りします」
きっぱりと拒否する言葉を口にすれば、男はまた一歩距離を詰めて来た。
「そう答えるとは思ってはいたがな。貴様、『夫』という立場を手に入れておいて……!」
「ふっ、……それとこれは別です」
そう、それとこれは別問題だ。
「まず、何か誤解があるようですから訂正しますが、私が会員番号一番の会員証を持っているのは決して金を積んで譲って貰った訳ではありません。当然の権利です」
「何……?」
「何故なら──『菫を見守る会』を発足したのは他でもないこの私ですからね」
そう、私は彼女といわゆる恋仲になる前から彼女の第一のファンだったし、そうあろうと心掛けてきた。忘れもしない彼女の初舞台──正確には舞台に立つ前だったが──を目にした時から、私は彼女に夢中だ。
その後の舞台も、仕事の都合で王都を離れている時以外は彼女が出る全ての公演に足を運び、可能な限り良い席で見た。お陰で私はそのほとんどで興行主だった長姉に今でも頭が上がらない。
──おそらく誰も信じてはくれないだろうが、そもそも彼女が自分を選ぶなどまったく考えてもいなかったのだ。
何しろ私はそこまで惚れこんでおきながら、彼女に嫌われこそすれ、好かれるような事はして来なかったのだから。
もちろん、それなりに理由があっての事だが、長年私達のやり取りを身近で見ていた姉が『よく結婚出来たわね』と驚いていた位である。
ファンクラブにしてもそうだ。私が発足し組織だてたけれども、運営をすぐに知人に任せたのは、その事実を他でもないヴィオラに知られる訳には行かなかったからだ。
だってそうだろう?
彼女にしてみれば顔を合わせる度にダメ出しするいけすかない男が、その裏では関連グッズを買い集め、ファンクラブすら作っているなど言えるはずがない。
私の告白に男は衝撃を受けたようだった。心なしか震える声で確認して来る。
「貴様が……発足人!?」
「ええ。そもそも何故、会員証を持ち歩いていると思ったんですか。力ずくで奪うにしてもここにはありませんよ」
「……っ」
男はその可能性を完全に見落としていたようだった。闇が邪魔をして表情の変化まではわからないが、何となく動揺した雰囲気は伝わってきた。
会員証を持っている事を突きとめたまでは良かったが、詰めが甘い。私をその辺の普通のファンと同じだと思わない事だ。
──私はおそらくこの世で唯一、彼女と真正面から喧嘩が出来る男だし、今後もその座を他の誰にも譲る気はない。
外見の美しさだけでなく、人の心理を巧みに読み取り、磨かれた演技力でその場に相応しい所作や言動を取れる彼女に、正面切って喧嘩を売れる人間は滅多にいない。
そもそも、彼女を怒らせる事──本音を引き出す事は至難の業だ。
元々娼館で下働きをしていたという彼女は、底辺を知っているが故に寛容で、自分に関する事ならば大抵の事を許せてしまえるし、むしろそれを糧に成長する事が出来る強い心を持った女性だ。
誰とでもうまく交流する事が出来る──それだけを武器に、自分の力で自由を勝ち取り、女優としての道を切り開いた位である。依存心と言う物が皆無と言っても良い。
だがそれが彼女をより孤独にさせていた事を私は知っている。その裏で、淋しさを抱えていた事も。
だから私は、彼女にとって常に一枚上手の、難攻不落の男になる事にした。
努力の甲斐もあり、子供みたいにむきになったり、ツンケンした態度を取ってみたり、他では見せない素の顔をヴィオラは見せるようになった。
──代わりに顔を合わせる度に態度は険悪になっていき、私の心はそれはそれは痛んだのだが。
それでも構わなかった。それが恋ではなくとも、彼女にとって一番『必要』な存在であれるのなら。……もちろん、裏で変な虫がつかないように手を回したりはしたけれども。
そんな状況だったから、彼女が私を選んでくれた時、しばらく毎朝顔を抓り、夢ではない事を確認せねばならなかった。
実は結婚して数年経つ今でも、彼女が何故私と結婚しようと思ったのか、正確な所はわかっていなかったりする。
「──今、あなたが手にしている会員証も力ずくで奪い取ったのですか」
うっすらと記憶に残る元々の持ち主の老人は、確か流行り病で息子夫婦と孫を喪い、血縁者がいないという話だった。とても譲られた物とは思えない。
図星だったのか、男の纏う空気が変わった。
「それは所詮、紙切れに過ぎません。番号にしてもただの順番に過ぎない。そんな物の為に人生を踏み外したのですか? それでヴィオラが喜ぶとでも思うのならファン失格です。……それを返して貰いましょうか。本来の持ち主に返します」
大体、彼女は崇拝者など必要としていない。だからこそ、ファンクラブは非公式のままなのだ。ヴィオラはおそらく存在すら知らないだろう。
「くそ……っ」
男の右手が動く。闇にキラリと鋭利な光が走った。
素直に返しはしないだろうとは思っていたが、思った以上に短慮な男のようだ。
「なんでお前みたいな普通の男に……!」
憎々しげに呟く言葉は、正に他のファンの心の声を代弁するものだっただろう。自分の容貌が、『その辺の男A』である事は私自身がよく知っている。
仕事も貿易商と言えば聞こえはいいが、結局は隙間産業のようなものだ。そこそこ利益は上がっているが、大女優の夫にはまだまだ不釣り合いだろう。
だが仕方がない、これが私の『天職』だ。
私にはヴィオラのような観察眼も洞察力もないし、他の兄弟のように特定の分野に特化した才能もない。
けれど一つだけ、得意な事がある。今の仕事はそれを十分に活かせるし──おそらくそれがあったから、ヴィオラは私を選んでくれたのではないかと思う。
だから私は胸を張り、男に答える──火に油を注ぐであろう事は承知の上で。
「この何処にでもいそうな普通の男がいいと選んだのは、ヴィオラ自身ですよ」
「──ッ、黙れ!!」
男は手にしたナイフらしきものを振りあげると、そのままこちらへと襲いかかってきた。