キツネ色に憧れて(2)
「で、出来た……!?」
先日のやり取りからさらに数日。
そこまでかかって、ようやくニナ自身が及第点を出せる物が出来たらしい。どれ、と見てみれば、確かに今までで一番きれいな焼目がついている。漂う香りも香ばしい。
「やったじゃない。……味は?」
「それも大丈夫! ちゃんと甘かったし、硬くもなかったよ!」
「そう……! 頑張ったわね、ニナ」
「へへ、ありがとうお母さん!」
初心者というだけでなく不器用という事を考えて、型抜きではなく生地を天板に落とすドロップクッキーにさせて正解だった。これなら見た目が少し歪でも気にならないから、ゴールも近いのではと思ったのだ。
なお、最初の失敗作の袋は一体何をやったのか、ニナを激怒させたウィルドが処分する羽目になったらしい。その結果、ウィルドは食べ過ぎと胸やけ、その後の腹痛で二日ほど寝込む事となった。
その時に一度はリセットされた袋だが、それからまた新たに一袋分出来ている。ここに辿り着くまでに、実に多くの物が犠牲となったものである。
アルテニカ家は大黒柱のコンラッドが家族の為に文字通り寝る間もなく働いているのと、長男のユータスが早々に独立している事もあって比較的裕福な家庭ではあるが、これ以上費やされていたら流石に家計に影響していただろう。
「きっとお父さんも喜んでくれるわよ」
母からも太鼓判を貰ったニナは、久し振りに楽しげな笑顔を浮かべる。その顔を見つめながら、エリーもまた達成感を感じていた。
途中で作るものを変えたり、諦めかけて作らなかった日があったにしても、実に十日以上お菓子を作り続けた事になる。明日のライラ・ディに間に合って何よりだ。
途中でニナもあまりの失敗続きで挫けつつあったのだが、昨日ユータスの元に出かけて再びやる気になったらしい。
ニナ曰く『あのお兄ちゃんでもまともな物を作れたんだもの! あたしだってやれば出来るはず!』だそうだ。仔細はわからないのだが、そのやる気が実を結んだ事は非常に喜ばしい。
台所を預かる主婦としての責任と無事に作れるのかという母としての心配もあり、指導がてら何かと様子を見に来ていたエリーは、当分クッキーの類は見るのも遠慮したい所だが。
やれやれ終わったと安心して貯まった洗い物でもしようと流しに向かうと、その背にニナは新たな爆弾を落とした。
「よーし、あとはこれを可愛く包むだけだね!」
「ええ、そ……。えっ?」
思わず振り返る。視線が合った娘は、きょとんとした表情で見つめ返してきた。母が何故驚いたのかわからない様子だ。
(──今、聞いちゃいけないと言うか、聞きたくない言葉を聞いた気がするんだけど)
ここ数日間が走馬灯のように脳裏を駆け廻り、エリーは現実逃避を試みた。
だが、嗚呼──ライラ・ディで渡すお菓子が、丸裸のまま渡せるはずもないのだ。そして、五日かかっても一人でクッキーを焼きあげたニナが、包装だけ母に任せるてくれるとも思えない。
「どうしたの、お母さん」
「な……、なんでも、ないわ」
「変なお母さん。ねっ、何か可愛い紙とか袋あるかな? リボンとか!」
無邪気にそんな事を言うニナに、何処か不自然な微笑で応えながら、エリーはどうしてこの子をもう少し器用に産んで上げられなかったのだろうと心の中で嘆くのだった。
+ + +
結局、エリーの危惧は現実のものとなり、ライラ・ディの夜までかかって何とか包装にこぎつけたニナは、その翌日、クッキー(仮)の詰まった袋を抱えて兄のユータスの元へやって来た。
「お兄ちゃーん、生きてるー?」
「ニナか。いつも生きてる」
声を聞きつけて工房の方から顔を見せたユータスは、先日の死に掛け状態とは別人のように淡々と答える。
「何言ってるの、この間は死に掛けてたくせに」
「……」
この間だけでなく、つい昨日も行き倒れる勢いだったユータスは、その言葉を否定出来ずにさりげなく視線を反らし──その目がニナの抱えていた袋に止まる。
「ニナ、それ……」
何となく中身を察したのか、何処となく不安気味に確認してくる。
「ふふっ、ウィルには聞いてるんでしょ? ちゃーんと、お兄ちゃんの分も持ってきたからねっ!」
一日遅れだけど、と断りを入れながら袋を突き付ければ、ユータスは渋々と受け取った。律儀にありがとう、と礼を口にする兄を、ニナはそのままじーっと有無を言わさない笑顔で見上げる。
「開けないの?」
「……。開ける、けど。別に今じゃなくても──」
不吉な予感でもするのか、随分と往生際が悪い。
確かに今開ける必要はないし、ユータスの事だ。ウィルドと違って、忘れた振りをして処分という事もせずに(こういう小賢しさを兄は少し見習うべきだと思う)ちゃんと食べてはくれるだろう。
失敗作ばかりという事もあるし、何より味覚が残念な兄の事なので感想は期待していないが、それでも作った者としてこの目で食べてくれる所を見たかった。
「あたし、頑張ったんだから! 食べてくれるよね?」
そう、本当に頑張ったのだ。その甲斐あって、父のコンラッドはとても喜んでくれたし、ニナも自分に少しだけ自信を持てた。
「こういうのはね、受け取ったらちゃんと食べないとダメなの!」
その言葉を受けて、何か思う所でもあったのか、若干複雑そうな表情でユータスがじっと袋を見つめた。先立ってのライラ・ディについての小言を思い出したのかもしれない。
やがて小さくため息をつくと、妙によれよれになったリボンに手をかける。そのまましゅるりと解けるかと思いきや、途中で引っかかった。
「なんでここで固結び……」
「い、いいじゃない! 零れたりしないし!」
怪訝そうな指摘に、そんな無理のある反論を試みる。
ニナの名誉の為に言えば、蝶々結びは一応出来る。ただ、リボンタイとか腰紐だとか、自分の身に着けているものを結ぶ事は出来ても、何故か視点が変わると縦になったり紐の長さが極端に違ってしまったりと、うまく結べないのだ。
ユータスに渡した袋はその練習に使ったのだが、何度も結んでは解く事を繰り返している内に、気付いたらやたらと頑丈な固結びになっていて、仕方がないのでそのままそこから蝶々結びにしたのだ。
開けにくいという苦情を漏らしつつ、ニナにすれば人とは思えない器用さを持つ指が、そのまま固く結ばれた結び目を解いてゆく。ニナなら鋏で切ってしまう所を、さほど時間もかけずに解いて行くのはやはり少し腹立たしい。
(本当に悔しいくらい器用なんだから)
ぷうと頬を膨らませているニナを他所に、袋の口を開けたユータスは中を覗いて軽く驚いたように瞬きした。
開けた途端に漂う焦げ臭さに驚いたようにも見えるが、ニナにはユータスが何に驚いたのか察して、拗ねたような表情から一転、自慢げな顔になる。
そのまま袋の中に手を突っ込んだユータスが袋から出したのは、焦げたクッキーではなく、小さな紙袋だった。
「なんだ……?」
「ふふー、なんでしょう♪」
怪訝そうな兄の様子に溜飲を下げつつ、ニナは答えない。どうせ、開ければわかる物だ。
どうやら教える気はないようだと思ったのか、ユータスは一度抱えていた袋を横に置くと、その小さな袋を縛っている紐に手をかける。こちらは簡単に解けた。
「クッキー?」
中に入っていたのは、やはりクッキーだった。
ただし、一見してそうとわかるほど、失敗作の物とは比べ物にもならない位にまともな外見をしている。その意図に気付いている様子もなく、横に置いた袋と手元にある物を交互に見て首を傾げる兄に、ニナは声をかける。
「それは特別! だから大事に食べてね」
「ん? ……ああ」
そう言われてようやく理解が追い着いたのか、ユータスは小さな袋に入っていたクッキーを元に戻すと、焦げた方へ手を伸ばした。
──父の為に作った成功作の一枚を忍ばせたのは、自分だってやれば出来るという意志表示と失敗作を食べさせる事に対しての、ほんの僅かな良心の咎めからだ。
代わりに取りだされたのは、比較的焦げが目立たない一見成功品のように見える物だった。じっと見つめて、ため息を一つ。ユータスは諦めたようにそれを口にする。
……じゃりっ
やがてユータスの口の中から、クッキーにあるまじき音が聞こえてきた。
「……。ニナ、これ」
「あ、それは卵のカラ入りかな? 他にもいろいろあるからねー」
にこにこと笑ってそんな恐ろしい事を言う妹をじっと見つめ、どうやら飲み込む以外の選択肢はないと思ったのか、ユータスは黙ってじゃりじゃり言わせながらクッキーを咀嚼する。
「どう?」
「なんか焦げ臭い……」
「それ、味の感想じゃないし」
真っ黒な物は入れてはいないが、そこそこ焦げたものは結構な数を量産したので匂いが移るのも当然だろう。
(お兄ちゃんっていろいろと残念だけど、よっぽどじゃなければ文句言わずに何でも食べてはくれるんだよねえ)
味覚が残念なのは料理人にとっては張り合いがないだろうが、料理下手を自覚している身には、文句も言わずに食べてくれる有難い存在である。何より作った物が無駄にならない。
(来年はチョコにしよっと)
今年は健闘空しく敗退したが、やはりライラ・ディと言えばチョコレートだ。仮に失敗しても、今回のように処理班が何とかしてくれるだろう。
(食べてくれる人がいるってありがたい事よね。……ん? 何あれ)
エリーやウィルドが聞いたなら即座に引き留めたに違いない無茶な事を考えていたニナの目が、店の片隅に置かれていたある物に気付いて丸くなった。




