キツネ色に憧れて(1)
ユータスの超不器用な妹・ニナのライラ・ディ奮闘記。
台所に入るなり、エリーはくんと鼻を鳴らして眉間に皺を寄せた。
――嫌な予感がする。
見れば、部屋の隅に置いている椅子に腰かけてうとうとする娘の姿。ここ数日繰り返してきた出来事を顧みて何となく事態を察し、エリーは小さくため息をつくと静かに声をかけた。
「ニナ、起きて。何か焦げ臭いんだけど?」
「えっ?」
はっと目を覚ましたニナは、一瞬不思議そうに瞬きをし、
「あ、……っ、いやぁああああ!!」
……そんな悲痛な叫び声を上げて、音を立てて椅子から立ち上がった。大慌てでオーブンに駆け寄る姿に、エリーは再びため息をつく。
あれほど焼いている間は目を離すなと言ったのに──これはどうやら、またしてもクッキーの形をした別の物が出来そうだ。
+ + +
お菓子の作り方を教えて欲しいとニナが言い出したのは十日ほど前の事だった。
一体何処で影響を受けたのか、今年のライラ・ディは手作りのお菓子をあげたいと言う。ライラ・ディとは女性が意中の男性にお菓子を贈る日とされており、年頃の女性にとっては一大イベントである。
渡す相手が父親な辺りはまだまだ子供だが、かつては自分も通った道。気持ちは理解出来る。
しかしお年頃だと微笑ましく思うには、ニナの手先の器用さは壊滅的だった。それは本人も自覚している。それをわかった上で打診を受けたエリーが、無謀なと思ってしまったのも仕方がないだろう。
その感想は的外れでもなく、溶かして固めるだけだから大丈夫だろうと思われた定番のチョコレートを、湯煎で溶かす段階で次々に失敗し、これでは原材料費だけで出費が大変な事になると、手間はかかるが家にある物で済むクッキーに落ち着いた程だった。
「うう……、また焦がしちゃった……」
ぐすんと涙目でうなだれるニナの前には、随分と黒コゲた物体が積まれていた。
クッキーになるはずであったそれは、本来の香ばしく甘い香りよりも焦げ臭い匂いの方が圧倒的に強い。完全に炭化していないだけマシではあるが、それが一体何の慰めになるだろう。
それでも可愛い娘だ。エリーは可能な限り失敗を補うべく、クッキー(仮)を一つ取り上げ、状態を見た。
表面は見事に黒いが、中はそこまではない。墨にしたり半焼けにしたりしていた最初の頃に比べれば、これでも遅々としているが上達はしているのだ。何とかしてやりたいのが母心というものだろう。
「ん……、これ、焦げた所を削ってみたらどう? 少し表面を削って上にアイシングをかけたら大丈夫じゃないかしら」
なるほどと早速母の言葉に従ったニナだったが、元々が不器用なのに飾り付けだけ綺麗に出来るはずもない。
削り過ぎて割れて半分の大きさになったクッキーが多数、何とか無事に削れたものの、よせばいいのに市販のように色のついたアイシングにしようとして着色料を入れ過ぎたらしく、見た目が毒々しいまでの原色という大変怖い事になったものが完成した。
「……」
「ニ、ニナ。大丈夫よ、こういうのは見た目より味じゃない!」
どんよりと重苦しいオーラを放つ娘に、エリーが再び涙ぐましい励ましの声をかける。
「そ、そうだよね! 味だよね、お菓子だもの!」
母の気持ちが通じたのか、ニナが再び少し浮上し、どれとばかりに自作の真っ青なクッキーを口に入れた。エリーもその隣の真っ赤なクッキーを取り、それに倣う。
がりっ、ごりっ
二人の口の中から、クッキーにしては随分と固いものを噛み砕く音が響いた。
「……」
「……えーと……、ちょっと、硬い、かしら?」
流石にここまで来ると母の愛も及ばなくなってくる。
固焼きのビスケットと表現するより、素焼きの陶器と表現する方が似つかわしい状態で顎が少々痛い。それでも頑張った娘を落ち込ませたくない一心で、エリーはさらなる助言を試みた。
「そうだわ、ミルクとかお茶に浸して食べれば……!」
「もういい! もう一回作る!!」
母の言葉を振りきって、ニナは宣言する。
「……ほどほどにね」
心の内で小さくため息をつきつつ、エリーの視線は台所の隅に置かれた作業台に向かう。そこにはロウ引きした紙袋に『クッキーになるはずだったもの』が詰められたものが鎮座していた。
(……あれ、また中身が増えそうね……)
チョコレートからクッキーに方向を変更して二日目。すぐに傷むものではないし、捨てるには忍びない事もわからなくはないが、何かしらの意図的なものも感じるのは何故だろう。
行く先はなんとなく知れたので、エリーは敢えて問う事はしなかった。代わりにそれを押しつけられ、処分する事になるであろう息子達の胃の無事を祈る。
完全に炭と化した物は流石に入ってはいないはずだが、王道の砂糖と塩を間違えた物から、粉の分量を間違えたり、香料を間違えたものまでバラエティ豊かな失敗作が詰められているはずである。
「ニナ? お父さんは別に完璧なものじゃなくても、ニナの作った物なら喜んで食べてくれるわよ?」
何しろ夫のコンラッドは何よりも家族を愛している。可愛い娘の手づくりとあれば、おそらく炭と変わらないものだってそれはイイ笑顔で完食するだろう。
「それは、そうかもしれないけど……」
それでも渡すからにはちゃんとしたものを渡したい。そんな娘の気持ちもわかるので、エリーは諦め半分で微苦笑を浮かべた。
何故、兄と弟には無体な仕打ちが出来るのか疑問は尽きないのだが。
「お兄ちゃんが悪いんだもん。お兄ちゃんがあたしの分まで器用さ持って行っちゃったせいなんだから……!」
再びバターをやわらかくするべく練り始めながら、ニナがぶつぶつと恨み節を呟く。──どうやら失敗作を押しつけるのも、それなりに理由があっての事らしい。
「そ、そう……。でも、ニナ。ユータスは確かに器用だけど、お菓子は作れないじゃない」
流石に理不尽に思えて、エリーはそう言い添える。
ユータスの器用さは一種の先祖返りのような物だとエリーは思っている。何代かに一人はそうした職人肌の人物が生まれているそうだから、そういう家系なのだろう。
よりにもよってそうした人物が、『兄』として上にいるのだから、気に食わない気持ちはわからなくもない。せめて『姉』ならもう少し対応も違ったのだろうが。
(ユータスも災難ねえ)
これも先に生まれてしまった故だが、ニナ本人が覚えていないだけで、幼少時に散々ユータスの世話になっている事を思うと何となく庇いたくなる。
しかし、ニナはエリーの言葉にじとりとした視線を向けてきた。
「──お母さん」
「え、何?」
「お兄ちゃんの場合、『作れない』じゃなくて『作らない』だけでしょ」
「……」
──確かにそうとも言う。
元々料理をする事すら面倒臭がる上に、放っておくと平気で食事を抜くユータスが、分量を量る所から手間暇かかる菓子など作るとは思えない。だが、作らざるを得ない状況になった時、作り方さえ覚えてしまえば、ニナより遥かにマシな物を作るに違いなかった。
残念ながら本人の味覚がアレなので味はそこそこの域を出ないだろうが、覚えた作り方が間違っていなければ食べて変な味がするという事もないだろうし、見かけに関しては完璧であろう事も想像出来る。
「いいもん、お兄ちゃんには失敗作いっぱい食べて貰うから」
バターを怨念を込めてぐりぐりと練りつつそんな不穏な事を言う娘を、エリーはそれ以上たしなめる事は出来なかった。代わりに先程から気になっていた事を口にする。
「……それよりニナ。それは小麦粉の袋じゃなくて膨らし粉よ。あと、砂糖を入れ忘れてない?」
「えっ。……あれ?」
――どうやらまともなクッキーが出来上がるには、まだまだ時間がかかりそうである。エリーは困ったように笑いながら、砂糖の壺を棚から出した。




