世を知るスミレと世間知らずのカエル(7)
今日もティル・ナ・ノーグは気持ちの良い快晴だ。
季節的には冬の真っ盛りなのだが、常夏の地方だけに北方の寒さとはほとんど無縁である。時折思いだしたように冷える事があっても、せいぜい上に一枚羽織る物が増える程度で分厚いコートや防寒具は必要ない。
加工業の盛んな地方なだけに、彼等に信仰される火の妖精が居座っており、その為寒さが遠のいているのではないかという作り話も、もしかするとあながち間違いではないのかもしれない。
そんな青空の下で、ここしばらく慌ただしい日々を送っているユータスは、さて今日は何処から手をつけようと門扉の所で考え込んでいた。
木製のその門扉自体も結構な年数が経過しているらしく、随分と煤けて古ぼけてはいるが、雨が少ない事も幸いしてか中はまだしっかりしているようだ。
作り直すのも何かと手間だし、表面を軽く削るなり簡単に手を入れればまだ当分使えるかも――などと早速面倒臭がりを発揮している所で背後から声がかかった。
「ごきげんよう、ユータス」
聞き覚えのある声に振りかえれば、初めて顔を合わせた時と印象がほとんど変わらない、すらりとした肢体を逆光に浮かび上がらせて微笑む人がそこにいた。その足元にはお馴染みの黒い毛玉も控えている。
すっかり見慣れた組合わせながら、ここにいるはずのないその姿に、まだ目が覚めていないのだろうかとぼんやり考える。
「……マダム?」
何故ここにと問いかける前に、黒い毛玉が不意に飛び上がり問答無用に彼を襲った。
「うわっ」
まさに不意打ちで、勢いに負けて背後に倒れかけるのをなんとか踏み止まる。
「ステラ……、心の準備くらいさせてくれ……」
頭上に乗るずっしりとした塊──ステラに苦情を言えば、文句を言うなとばかりにふさふさの尻尾が顔面をパシパシと叩いてきた。
「ステラったら……。本当にごめんなさい、すっかり習慣づいてしまったわねえ」
少し困ったような表情で謝るヴィオラに、ユータスは気にしなくていいと首を振ろうして、頭上にいるステラの重さに断念した。下手に動かすとステラの機嫌を損なうだけでなく首を痛めそうだ。
「……いえ、もう、慣れました」
最初に乗られた時こそ、もしや嫌われたのかとそれなりにショックを受けたものだが(実際、初対面で乗るのはほとんど嫌がらせ目的らしい)、毎度のように乗られている内にこれもステラなりの親愛表現なのだろうと思えるようにはなった。
──単に都合の良い足台が出来たと思われている気がしなくもないが。
「それより、どうしてここを?」
この場所の事はまだ知らせてはいなかった。ユータス自身も十日ほど前に移って来たばかりで、ヴィオラの本来の住まいは王都サフィールにある。
まだまだこの場所も整っているとは言い難く、ステイシス夫妻が次にこの街に来る頃に知らせる予定だったのだ。予想ではまだそれは先だったのだが──。
「伊達にこの街を歩き回ってはいなくてよ? 事細かにいろいろな事を知らせてくれる友人がいるの。お陰で間に合ったわね」
ユータスの疑問に、ヴィオラは小さく笑みを浮かべてそう答える。
ヴィオラの交友範囲が広い事は理解していたつもりだったが、関係者以外には特に言って回った訳でもなく、ユータス自身の交友範囲は非常に狭い。
片付けや修理などに追われてまだこの周辺に挨拶も十分に出来ていないというのに、一体何処から知らせが行ったのだろうか。
頭にステラを載せたまま、軽く驚いた様子で固まるユータスにヴィオラは手にした花束を差し出した。
「独立おめでとう、ユータス」
その一言で我に返る。
「……ありがとうございます」
嬉しそうなその言葉に、少しだけ気恥ずかしいような複雑な気持ちになるのは、ここに至るまでユータスなりに迷走したからで、そしてそれを相手が知っているからだろう。
太陽の光を背に受けて、キラリとヴィオラの首元が光る。
「それ……」
ユータスの視線が何を見止めたのか気付いて、ヴィオラは頷いた。
「ふふ、今日と言う日にふさわしいでしょう?」
悪戯っぽく笑うヴィオラの、毛先に行くに従って紫に彩られる長い髪をまとめる簪の先で、小さな金色の林檎が朝日を受けて輝いている。
そう、それはユータスが依頼を受けて最初に手掛けた作品だった。
――その『最初の依頼』から八年。ユータスは一人の職人として道を歩き始めていた。
+ + +
まだ手直しの最中で整っているとは言い難い店内に場所を移すと、物珍しげに室内を見回しながらヴィオラがしみじみと口を開いた。
「わたくしね、あなたが早くに独立して正解だと思っているのよ。まさかもう店を構えるとは思わなかったけれど」
「……、そうなんですか?」
先日十八の誕生日を迎えたばかりで、周囲から心配半分にまだ早すぎるのではと危惧された身としては、その言葉は意外な物だった。
ユータスの少し困惑気味の表情に、ヴィオラは頷く。
「ええ。確かに職人としては若過ぎるかもしれないけれど、あのままあの工房にいて弟子として生きるよりも、それ以上に得る物があるはずだわ。師匠であるゴルディさんは良い作品を造る方だけれど、事情があったにしても子供の内にあなたを手元に置いた事は、少し気が早過ぎたのではないかと思っていたの。……ね、ステラ?」
同意を求めるようにヴィオラが傍らに寄り添うステラを撫でると、まるで答えるようにステラが小さくミャウと鳴いた。
当のユータスはヴィオラの言っている事がいまいち理解出来ずにただ言葉を待つ。そんなユータスをステラの金色の瞳がちらりと見た。まるで『こんな事も理解出来ないのか』と言われているようで面白くはないが、実際わからないのだから文句も言えない。
「よくわからないって顔をしてるわね」
くすくすとヴィオラが笑いを零す。
「あなたはほんの子供の内から大人の世界に入ったでしょう?」
正式に弟子扱いになったのはそれなりの年齢になってからだが、ゴルディの工房に住み込むようになったのは八歳の頃だからその言葉に間違いはない。
「本当だったら、同じ年頃の友達とウィルド君みたいに泥だらけになって遊んだり、喧嘩したり、ばかな事をやって叱られたり──そうやって覚えてゆくものをろくに知らずにきているという事よ。現にあなた、友人と言える人が今もほとんどいないでしょう?」
「……、はい」
それは事実だ。ティル・ナ・ノーグで生まれ育ったものの、行動範囲が限られていた事もあり、同世代と交流を持つような事がほとんどなかった。今も顔見知り程度ならいるが、『友人』と呼べる人間がいるかとなると皆無と言っても過言ではない。
(いや……、皆無──でも、ないのか)
ふと、今はここにいない相方の顔が思い浮かんだ。ここ二年程の付き合いですでに身内感覚になってしまっているので厳密に言うと違う気もするが、イオリは今の所、唯一の同世代の友人と言えるだろう。
――逆を言えば、彼女位しかいないとも言える訳だが。
「たくさんの人と触れ合いなさい」
考え込むユータスに、ヴィオラはそっと後押しするように言葉を紡ぐ。
「世界はとても広い。ティル・ナ・ノーグにだって、あなたがまだ知らない人も物もたくさんある。いろんな人と関わって――そして『友達』を作りなさい」
「友達……?」
「ええ。これはわたくしの持論に過ぎないけれど──。人生は舞台みたいなものよ。人はそれぞれ自分だけの世界を背負って舞台を動かしている。人と知り合うと言う事は、相手の世界を知るということ。知り合えば知り合うほど、世界はいくらでも広がって行くの。たとえ、何処にも行かなくてもね」
何処かここではない所を見つめるような瞳で語られる言葉は、やはりユータスには抽象的で少し難しい。『顔見知り』と『友達』とでは何がどう違うのか、何処に線引きがあるのかわからないせいもあるだろう。
そんなユータスの困惑を理解したように、ヴィオラはさらに言葉を噛み砕く。
「旅人と知り合えば自分の知らない国の事を。漁師と知り合えば魚や海の事、商人なら目に見えない物の流れを。知れば知るほどきっとあなたの世界は広がって、それは造る物に少なからず影響する。今のあなたに一番必要な物だと思うわ」
かつて実際の舞台の上に立って様々な役柄を演じ、実際に多くの人々との繋がりを持つヴィオラの言葉には説得力があった。
「ほら、イオリちゃんと知り合って藤の湯に放り込まれるようになってから、あなたも確実に一つ、世界を新しく知ったでしょう?」
からかうような口調で続いた言葉で、ようやくユータスも理解が追い着く。
「──ああ、そういう、事ですか」
閃くように思い出す邂逅。
見知らぬ異国の文化。独特の文字に、美しい造形の菓子や細工品。こちらとは違う仕立ての衣服──シラハナの物は確かにユータスに未知の世界を教えてくれた。
ユータスの表情から内面の変化に気付いたのか、ヴィオラが嬉しそうに微笑む。
「これから出会うであろう、たくさんの人が背負う世界を知る事で、あなたの世界は広がっていく。そこから生み出される物が今からとても楽しみだわ」
主人の言葉に呼応するように、ステラも一声、頑張れよと言うようにミャアと鳴いた。
「これからあなたの舞台が、素晴らしい物になる事を祈っているわ」
「……はい」
──井戸の中しか知らなかった蛙が、今、外の世界に飛び出した。




