世を知るスミレと世間知らずのカエル(2)
「ごきげんよう、ユータス。久しぶりね」
捕獲騒動という非常に衝撃的な出会いを経たものの、ヴィオラはその後毎月のように姿を見せるようになった。
数度訪れる間にゴルディの『顔見知り』となった彼女に対し、弟子になる為に相応の苦労をした兄弟子達は一体どんな手段を講じたのか、と驚きを隠さなかった。
それ位、ゴルディの人嫌いは徹底している。
ちなみにヴィオラの目を引く華やかな美貌であったり、年齢を感じさせないスタイルが良さといったものが理由ではない事は確かだ。
というのも、一般的な『美女』はゴルディが最も苦手とする人種だからである。
だからこそ、割とあっさりとヴィオラを受け入れたゴルディに周囲は驚いたのだが、弟子達のしつこい追求にゴルディが返したのは、『近い感じがするから』という謎の言葉だけだった。
近いとは『何』となのか、それとも『誰』となのか。
しばらくの間物議を醸したが、当のゴルディが酔っていた時の言葉だった為、その場で適当に思いついた可能性も高く、真実は当人の胸の内に秘められたまま終わる事になる。
「こんにちは、マダム。それにステラも」
手にしていた水の入った桶を一度地面に置いて挨拶を返すと、相変わらず綺麗に整った顔が優しく微笑んだ。足元にはこちらもすっかりお馴染みとなったステラの姿もある。
元々子供好きなのか、それとも何か他に理由があるのか、やって来るとヴィオラは必ずユータスにも声をかけてくる。
当初は『ユータス君』という呼び名だったが、耳慣れなくて変な感じがするとユータスが言った事もあり、今は普通に呼び捨てだ。
対するユータスも当初はヴィオラを『ステイシスさん』と呼んでいたが、それだと夫のステイシス氏と同じになると他の兄弟子達に倣って『マダム』と呼ぶようになった。
最初はそんな大層な身分ではないからと面映ゆそうな様子だったヴィオラも、いつの間にかティル・ナ・ノーグの人々が敬愛を込めてそう呼ぶようになってしまったせいか、今ではそう呼ばれる事にも慣れたようだ。
聞いた話では本来の自宅は王都にあるものの、貿易商の夫がこちらに仕事に来るのについてティル・ナ・ノーグを訪れ、月の半分ほどをこの街で過ごしているらしい。
余程この地を気に入ったらしく、ずっとここにいたいくらいよ、と何かの話のついでにそんな風に言っていた。
ティル・ナ・ノーグから今まで出た事のないユータスは他と比較のしようがないのでそんなものなのかと思う程度だが、それでも自分の生まれ育った土地を気に入ってくれるのは何となく嬉しい。
そんなヴィオラは元は王都でも名の知られた舞台女優だったらしい。一般人にしては立ち居振る舞いや姿勢が美しいとは思ったけれども、まさかそんな人とは思いもしなかった。
芸能関係の知識など皆無なユータスはまったく知らなかったが、ちょくちょく王都にそれぞれの所用で出かける兄弟子達はその名前を知っており、最初はまさかこんな所にと半信半疑の様子だった。
名前を聞いてあの兄弟子達が驚くくらいなのだから、きっととても有名な女優だったのだろう。だからといってユータスの中のヴィオラの位置付け──『先生の逃走を阻んだすごい猫モドキの飼い主で、先生の顔見知り』が変わる事はなかったが。
「今日はゴルディさん、いらっしゃるかしら?」
ヴィオラの問いかけにユータスは首を傾げた。
「……? 今日だけじゃなくていつもいますよ?」
何しろゴルディは基本的に引きこもりである。ヴィオラもすでにその事を知っており、この頃はわざわざ尋ねなかったのに、今日に限って何故そんな事を聞くのだろう。
そんなユータスの疑問を隠さない声に、ヴィオラは微苦笑を浮かべた。
「ふふ、言い方が悪かったわね。今日は『逃亡』しそうな予定はないかしら?」
というのも、先月ヴィオラの訪問中に偶然別の客が訪れ、会話途中で逃げ出そうとしたゴルディとそれを阻止しようとする人々の騒動を目の当たりにしたからである。
つくづく、色々と変な場面を見られる巡り合わせだと思う。話の途中で放り出されたら普通は気分を害するものだろうし、よくぞ愛想を尽かさずにゴルディと付き合いを続けてくれるものだ。
「はい。今日はカールさんだけじゃなくて他の人もいるから、逃げようとしても何処かで捕まると思うし……今日だけは多分、突然お客さんが来ても逃げないと思います」
今日はそれだけ特別な日なのだ。普段はバラバラに活動している兄弟子達が全員揃っているのもその為である。
ユータスの言葉に不思議そうに首を傾げつつも、第三者が深入りをしてはいけない話題だと察したのか特に追求はして来なかった。
ヴィオラのこういう所が、ユータスには時々すごく不思議で仕方がない。何だか心の中を読まれているような気がしてしまう。
前に正直にそう思った事をヴィオラに言ったのだが、ヴィオラは怒りもせず、ただ笑ってこう答えた。
──そう感じるのは、あなたがまだ『世界』をよく知らないからよ。
どういう意味かと尋ねてもそれ以上は教えてくれなかったので、何処か意味深なその言葉は今もユータスの中に不可解なままで残っている。
確かに自分はこの街の外の事は何も知らない。けれど、外に出たとしても人の考えを読めるようになるとはとても思えなかった。
「今日も何かご注文ですか?」
「ええ。あと、一つ聞きたい事があって。少しお時間頂けるかしら。何か取り込み中なら、明日にでも出直して構わないけれど」
「大丈夫です。……今日はこの後酒盛りがあるんです」
「あら。そうなの?」
すでにゴルディの酒好きを知っているヴィオラが小さく笑う。
「先生に伝えてきます」
「ええ、ありがとう」
ヴィオラを残して酒盛りの準備をしているはずのゴルディの元へ行くと、その決して広くはない部屋にいい年をした男がぎっしりと屯していた。
ゴルディを除いて全部で六人。いずれもゴルディを師(あるいは師も同然)として慕っている兄弟子達である。確かにこの部屋がこの工房で一番広い部屋ではあるが、傍目には実に暑苦しい光景だ。
「お、ひよっこどうした?」
一番入口に近い場所にいた人物、ブルードが声をかけてきた。少し前までは常に仮面越しの会話だったが、この頃はようやくユータスに慣れたのか仮面が消えている。
「先生にお客さんです」
「客だと……? 誰だ」
早くも腰を浮かしかけた体勢でゴルディが答える。それでも普段ならその時点で裏口へ続く扉に向かっていたに違いないので、自制心は働いているようだ。
……すぐ横でいつでも襟首を掴んで捕獲出来るよう、カルファーが控えているのも大きいかもしれないが。
「マダム=ステイシスです。依頼らしいですよ」
「マダム=ステイシス!?」
ユータスの返答に噛みついて来たのは、当のゴルディとは違う人物だった。ライアン=ペイジという名の硝子職人である。
部屋の片隅で持ってきた酒のつまみを準備をしていたその人は、驚くべき速さでユータスに詰め寄って来る。
「ユータス! それは本当かい!?」
肉体改造が趣味で、ムキムキに鍛え上げられた肉体を誇るライアンに詰め寄られると圧迫感が半端ない。思わず一歩後退りしながらも、ユータスは頷いた。
「……はい、ライアンさん。それにステラも」
「猫はどうでもいい! そうか!!」
言うやいなや、そのまま部屋の外に出て行こうとするのを阻む腕が二組。
「何の真似ですか、ジンさん。それにリークも」
「……行くな」
「マダムに何の用があるんですか。先生の客人なんですから、ライアンさんが出る必要は何処にもないでしょう!」
怪訝そうに首を傾げるライアンに、ジンは不機嫌そうに、リークは眉を吊り上げて口々に答える。何しろ、ライアンはこの工房関係者で最大の問題人物なのだ。
「何を言ってるんだい? あのマダム=ステイシスを間近に拝めるんだよ!? 彼女のプロポーションは実に私の理想に近いんだ。これは是非ともお近づきになり、あわよくば彫像のモデル……ぐはっ!」
言葉途中でライアンの身体が大きく横によろめく。
「──うるさいよ」
冷ややかな一言と同時に、床に落ちた何かを拾い上げるのはその場にいる人間で最も丸い体型をした人物、アーリー=メルンだった。
埃を払うのは赤いセロファンに包まれた何処かの菓子店のキャンディらしい。彼はいつもこのキャンディを持ち歩いており、ユータスも時々貰う。
それを恐るべきコントロールでライアンの側頭部に的確にヒットさせて黙らせたアーリーは、やれやれといった様子で口を開く。
「ライアン。ついこの間も、騎士団から危険人物と思われて連行されたよね。その頭に詰まっているのが脳じゃなくて筋肉なのはわかっているけど、そんな言い訳が通用するのはこの工房くらいって事をいい加減に理解しなよ」
容赦ない言葉にライアンはとんでもないと首を振る。
「あれは誤解なんですよ、アーリーさん! たまたま街で実に将来有望な身体をした少年がいたので、是非見せてくれないかと頼んだのであって、別に不埒な行為を行おうとした訳じゃないんですよ? なのに騎士団の連中ときたら……! 芸術を解さない石頭ばかりで困りますよ、まったく。まあ、彼等も日頃鍛えているだけあって実にいい身体をしているので、服越しとは言え間近で見れてラッキーではありますが。あっ、今度捕まったら彼等にも脱いで見せて貰えないか頼んでみるのもいいですね!」
「うん、君がいろいろと手遅れなのはよくわかったよ」
一言で会話を終わらせると、アーリーは付き合いきれないとばかりになり行きを見守っていたカルファーに目を向ける。その視線を受けて、カルファーはまだ動こうとしないゴルディに声をかけた。
「先生、お客人をいつまでも待たせるのは失礼では? ここは任せて行って来て下さい」
「お、おう。そうだな」
ゴルディに続いて自分もと続こうとするライアンを、再びジンとリークが阻み、軽い押し問答になる。
そんな彼等を『毎度飽きねえ奴等だな』とブルードが肩を竦めると、同様に見守る体勢のユータスにしみじみと語った。
「いいか、ひよっこ。俺が言う事じゃねえが……、ああはなるなよ」
「……? はい」
素直に頷くユータスが仕事などで夢中になると暴走するようになり、元々素質があった事に彼等が気付くのは数年後の事である。




