世を知るスミレと世間知らずのカエル(1)
『夏の海辺に黒い猫』よりさらに前、ユータスとヴィオラの出会いとその後の一幕。
来客を伝えるベルの音が聞こえた瞬間、それまで呑気に鼻歌混じりに作業をしていた師匠の顔が、誰が見ても『嫌そう』だとわかる顔になった。
生来人見知りが激しく、人付き合いが苦手な彼を影に日向にと支えて来た最愛の妻を亡くして以来、出無精を通り越して引きこもりと化したという師・ゴルディ=アルテニカの元を訪れる客人は意外と多い。
彼の造るものは道具類であれば質実剛健、装飾品であれば華やかさこそ欠けるが飽きることなく、時と場合を選ばずに長く使えると知る人ぞ知る名匠なのだ。
普段は元・一番弟子であり、ゴルディの実の息子であるカルファーが対応するのだが、今日は所用で朝から職人ギルドの方へ出かけており、他の兄弟子達もそれぞれの仕事でおらず、今ここにいるのはゴルディとユータスの二人だけだった。
「──オレ、出ます」
師の周囲にどんよりと漂う『出たくねえ』オーラを前に、子供なりに空気を読んでそう言えば、ゴルディはあからさまにほっとした顔になる。
何がそんなに嫌なのかわからないが、師に頼られるのは少し嬉しい。
頼むという言葉を背に、再び鳴ったベルの音に急かされるように扉を開くと、そこには見覚えのないやたらと綺麗に整った顔立ちの女の人が立っていた。
母親よりは少し年上だろうか。母のエリーも女性にしては背が高いが、こちらも背筋が伸びているせいかすらりと高く見える。
「あら」
出て来たのが子供だったせいか、長い睫毛で縁取られたオレンジ色の瞳が軽く見開かれる。
「……こんにちは」
「こんにちは。ゴルディ=アルテニカさんの工房はこちらで間違いないかしら」
「はい。先生に、何か御用ですか?」
「ええ。わたくしはヴィオラ=ステイシス。そしてこの子はステラというの。よろしくね」
言われたそこでようやくヴィオラの足元、長いドレスの裾に隠れるようにして黒い毛玉がいる事に気付く。
猫のようだが、猫にしては大きい気がする。太っている訳ではなく、全体的に大きいようだ。
元々生き物は好きである。物珍しさからじっと視線を向けると、額に白い星を頂いた黒猫が『じろじろ見るな』と言わんばかりに金色の大きな瞳を吊り上げ、ニャウと一声鳴いた。
「あなたは?」
穏やかな声に促されるように、ユータスは口を開いた。
「……ユータス=アルテニカ」
「『アルテニカ』? という事はゴルディさんの……?」
「……。親戚、です」
『お客さんに限らず、目上の人にはきちんと敬意を払うんだよ』とカルファーから常日頃言われている事を思い出しつつ、出来るだけ丁寧な言葉遣いで答える。
血縁ではあるが、祖母の従弟をユータスの立場からどう表現すればいいかわからなかったので『親戚』の一言にまとめてしまったが、ヴィオラは特に気にならなかったのか、そう、と微笑んだ。
もしかすると『弟子』として挨拶をすべきなのかもしれないが、年齢を理由に正式な弟子と認められていないのでその事は黙っておく事にした。
「今日は突然来てしまってごめんなさい。申し訳ないけれど、ゴルディさんはいらっしゃるかしら? 可能ならお会いしたいのだけど」
「はい、います」
ヴィオラの質問に答えつつ、ユータスはこの後どうすればいいのか考え込んだ。この工房に来て二年ほどにはなるが、今まで見た事のない顔である。一度でも見かけていれば忘れないのでそれは確かだ。
もちろん、ユータスがここに来る以前の知り合いである可能性もあるし、工房以外で顔を合わせている可能性だってある。
カルファーならこの人物とゴルディがすでに顔見知りかどうか判断がつくのだろうし、仮に顔見知りでなくても何とか出来るのだろうが、顔見知りでない場合、ゴルディに対面させるのはユータスにはほぼ不可能だ。
──おそらく来客を告げると同時に何処かに逃亡を図られる。
見知らぬ人間と年端も行かない子供を置き去りにするなど、普通なら考えられない非常に大人げない行動だが、そんな理屈はゴルディには通用しない。
ユータスは熟考の末に一縷の望みをかけてヴィオラに目を向けた。
「あの……」
「何かしら?」
「──先生と会った事、ありますか?」
「……? いいえ、お会いした事はないわ。先日、こちらの知り合いの方にゴルディさんが作った細工物を頂いたの。使う人間の事を考えたとても素晴らしい物だったから、きっと造った方も素敵な方だろうと思って。一度お会いしてみたいと思ったのよ」
「……」
なるほど、とユータスは納得すると同時に絶望した。これでは無理だ。せめて知り合いならばと思ったのだが、初対面なら確実に逃げられる。
しかもゴルディは自分の作品を褒められるのが、世辞や社交辞令でなく本当の賛辞だとわかっていても苦手な人だ(ゴルディ曰く『座っているのに尻が浮いているような気分になる』のだそうだ)。
人に会いたがらないのも、元々の性格が大きいが、仕事の話になると大なり小なりそうした話になる事も理由の一つだろう。
十歳の子供と貴婦人然とした女性だけでは、あらゆる手段を講じて逃亡する五十男を阻止する事など無理な相談に違いない。
ここは事情を説明して、せめてカルファーがいる時に出直して貰った方がいいのではと思った時、カタリと奥から物音がした。
はっと音がした方に目を向ければ、奥の扉──ゴルディがいる部屋に続いている──が少し開いている事に気付く。
(──!!)
おそらく様子を見に行かせたものの、弟子とは言ってもまだ幼い子供を応対に出した事を気にしてゴルディが様子を見に来てしまったに違いない。
慌てて窓辺に駆け寄り、窓を開いて裏口の方を見れば、案の定そこから何処かへ逃亡を図るゴルディの後ろ姿が見えた。
しまった、逃げられる──そう思った刹那。
「ステラ!?」
背後で驚いたようなヴィオラの声がしたかと思うと、横の空いた隙間から何か黒い物が目にも止まらぬ速さで飛びだして行く。
「ウニャウッ」
低く鳴き声を上げながら、窓の枠を軽く一蹴り。
たったそれだけで、黒い毛玉は恐るべき脚力を発揮し、隣に建つ離れの屋根に飛び乗ったかと思うとそのまま軽やかな足取りで屋根伝いに移動し、その向こうへと姿を消す。
それがヴィオラについてきていた黒い猫なのだと気付くのに少し時間がかかった。見た目が大きな猫だったので、そこまで俊敏な動きをするとは思っていなかったのだ。
そして先程は隠れて目立たなかったのか気付いてなかったが、その背にはまるで蝙蝠のような──。
「──翼?」
見間違いだろうか、そんな事を思いつつ目を擦っていると、いつの間にか横に来ていたヴィオラが心配そうに口を開く。
「ステラったらどうしたのかしら……。ごめんなさいね、ユータス君。驚いたでしょう?」
「びっくりした、けど……、それよりあの猫……」
「ステラ?」
「うん、じゃなかった……はい。背中に、翼みたいなのが生えてた。本物ですか?」
驚きと混乱で敬語もめちゃくちゃになっているユータスを微笑ましそうに見つめ、ヴィオラが頷いた。
「ええ、本物よ。ステラは猫じゃなくて『アルフェリス』という名前の生き物なの。見た目はちょっと大きな猫みたいだけれど、グリフィスキアって知ってるかしら」
「見た事はないけど、闘技場にいるって聞いた事なら」
「アルフェリスはその獰猛な肉食獣の親戚なんですって。そのせいか、『猫』と言われるのが好きではないみたいだから、次からは名前で呼んであげてね」
「名前──ステラ?」
「そうよ。『星』という意味なの」
額に白い星があった事を思い出し、なるほどと納得していると、やがて建物の向こうからゴルディの物と思われる情けない悲鳴が聞こえてきた。
「……あら?」
「先生……?」
もしやと思ったのはヴィオラもだったようだ。二人で顔を見合わせ、外へ出て離れの裏へと移動する。
するとそこにはうつ伏せに倒れたがっしりした体格の男と、その背中に得意げに乗る黒い猫──ステラの姿があった。
「まあ、ステラ! 何をやっているの!?」
どうやら倒れている男がゴルディであると予測がついたのか、ヴィオラが慌ててステラを降ろそうとする。しかしその前にユータスが立ち塞がった。
「そのままでいいです」
「え?」
「えーと、ステラ、だっけ。先生の逃亡を阻むなんてすごいな……! カールさんでも、三回に一回は失敗するんだぞ」
パチパチと手を叩きつつ、ユータスは心からの賛辞を込めてステラを褒め称えた。
口調自体は淡々としていても、何処か興奮気味の声とその気持ちが伝わったのか、ステラが先程よりは友好的な視線を向けて来る。
「あの……、ユータス君。そちらの方、ゴルディさんではないの?」
「先生です」
あっさりと認め、そのままユータスは倒れたまま動かないゴルディへ歩み寄った。
「先生、お客さんです。死んだ振りはやめて下さい」
「……」
ユータスの言葉にも、微動だにしない。客人を前にして往生際が悪いにも程がある。かくなる上はと、ユータスは奥の手を出す事にした。
出来れば使いたくなかったが、ユータスでは引きずって部屋に引き戻すなどといった力技は使えないので、何とかゴルディに自分で戻って貰わねばならない。
「カールさんに帰るまでに何かあったら報告するように、って言われてます。……しばらくお酒飲めなくなってもいいんですか?」
「……!?」
その効果は劇的で、カッと閉じられていた目が見開かれた。まるで今まで意識を失っていたと言わんばかりに、首だけ起こすときょろきょろと辺りを見回す。
「お、オオ、俺は今まで一体……」
「おはようございます、先生。お客さんですよ」
「そ、そそそ、そうか。おかしいな、なんでオレはこんな所で寝てるんだろうな。アッハッハ」
そこまで酒が好きなのかと飲んだ事もないユータスが半ば感心している横で、そのままムクリと身を起こす。その背中にくっきりとステラの物と思われる足跡がついているので、原因は明らかだ。
非常に白々しい茶番劇だが、ヴィオラはそういう事をとやかく言う人物ではないようで、微苦笑を浮かべて成り行きを見守っている。
ゴルディの上から飛び降りたステラは、そのまま主人の足元に戻ると機嫌良さそうに尻尾をパタパタと振った。
──それが、その後ずっと続く事になるヴィオラ(とステラ)との、長い付き合いの始まり。




