第一話(5)
時間は少し遡る。
二葉の目の前に、少女の小さな額があった。
その白い肌にくっきりと浮かぶ、赤い痣。そこに、二葉の求めているモノがある。
二葉は織子の長い髪を一房手に取り、
「橘さんって、良い匂いがするね…」
耳元に、そう囁いた。甘く。この少女を誘惑するかのように。
「!!!!????」
慣れていないのだろう。反射的に、織子の身体がびくっと震える。
しかし二葉は構わず、織子の瞳を見つめた。
少女の額にあるモノ。それを得るためならなんでもしよう。
「特に…」
甘さを含んだ視線で、額を見つめる。
「額の、痣から…」
秘め事のように囁けば、織子は驚いたように声を上げた。
「…っ!? み、見えるの…? 風切くん」
なるほど。彼女は自分が額に抱いているモノが何であるか知らないらしい。
それは、好都合だ。
「見えるよ。だってそれは…」
二葉の手が、額に伸びる。
あと少し、あと少しの距離でそれが間近に迫った時、
「えっ…」
最初にそれに気付いたのは織子だった。
(しまった…っ)
怒りと殺気を孕んだ大気が、辺りを包む。
「…っち…」
(あと少し、だったのに…)
落雷が自分を襲う寸前、二葉はばっとそこから後ずさった。
もう少し気付くのが遅れていれば、あの雷に焼き殺されていただろう。
「…ずいぶんと嫉妬深い龍神殿だ…」
落雷の衝撃から、気絶してしまったらしい少女がベンチに倒れている。
しかし、二葉には触れることができない。
触れればまた、あの雷が自分を襲うだろう。
(…こんなに近くにあるのに…っ)
目の前に、己が渇望してやまないモノがある。にも拘わらず触れることすらできない苛立ちに、二葉は自然唇を噛みしめた。
「その御方から離れろ…です」
「!?」
突然響いた声と、そして向けられた殺気に振りかえると、そこには一人の少年が立っていた。
まだ十歳くらいの、あどけない顔立ちの少年だ。
濡れたように艶やかな漆黒の髪に瞳。仕立てのよさそうな半ズボンから伸びる足は、驚くほど白い。学校帰りの小学生…に見えなくもないが、しかし二葉に向けられる視線は、射殺されそうなほど鋭い。
「…神使か…。龍神殿はよほど橘さんにご執心のようだね」
「黙れ…です。貴様のような下賎には関係の無いこと…です」
少年はゆっくりと、こちらに近づいてくる。
二葉を威嚇するように、変わらず、その殺気を向けながら。
「もう一度言う…です。その御方から離れろ…です。でないと…」
「でないと?」
二葉が微笑む。その挑発に、少年がにいっと唇を歪ませた。
「斬る!!」
から手だったはずの少年の手に、幻のように日本刀が現れる。
少年はそれを握って、二葉の元へだっと飛び込んだ。
「…っと」
ぶんっと、音を立てて一閃が振るわれる。
それをかわし、二葉は後ろに飛んだ。
「…今日のところは…っと」
容赦のない突きが、二葉の頬を掠める。
ツウっと一筋、血が零れた。
「ここで退散するよ。僕一人では、分が悪い」
「ッハ。何匹来ようと同じ…です」
少年は刀をかまえて、嘲笑する。
「…言ってくれるね…神使風情が…」
己の頬を流れる血を手で拭い、這うように低い声で呟く。
「あまり調子に乗るなよ」
「んっ!?」
突然、少年の周りに突風が沸き起こった。
両腕で目を庇い、衝撃に耐えた時にはもう、
「っち…。逃げられた…です」
二葉の姿はなかった。
少年は刀をぴっと振るい、僅かに付いた二葉の血を払った。
そして鞘におさめると、日本刀はまた幻のように消えていった。
「昂殿」
自分を呼ぶ、男の声に少年―昂はくるっと振り向いた。
そこには、着物姿の男が立っている。親子ほども年の離れた外見の二人だが、
「重國。遅い…です」
昂はふんっ不機嫌そうに鼻を鳴らす。重國と呼ばれた男は苦笑するのみだ。
「我々は貴方がたのようには動けませんからね」
「…まあ仕方ない…です。車は…?」
「用意致しました。その御方をこちらへ」
昂はこくんと頷いて、まだ気絶したままの織子を軽々と抱え上げる。
重國が代ろうかと目配せしたが、
「この御方に触れてはいけない…です。主様がお怒りになる…です」
そう言われて、何も言わず車まで先導した。
公園のすぐ傍に停められていた車の後部座席に、織子の体を横たわらせる。
そして二人も乗り込んだところで、重國が言った。
「昂殿、結界を」
「うん…です」
昂がパァンと柏手を打つと、辺りの空気が一変する。
落雷の直後、張っていた人払い(人目に付かないようにする)結界を解いたのだ。
「では参りましょうか」
重國の言葉を合図に、車が走り出す。
彼らの主の元へ、未だ眠り続ける少女を送り届けるために。
また新キャラの登場です。
二人については次の話で詳しく語られます。