■永田明美の場合■
まただ…。
永田明美は思った。
ここ数日間、電車を降りてから家までの帰路、自分の物とは異なる足音が聞こえる。
今は夜の九時近く。普段から人通りの少なく静かな通りなので、聞き間違えるはずはなかった。
誰かが私の後をついて来る。
明美は恐怖を覚えながら、ゆっくり後ろを振り返った。
……誰もいない。
勘違いだと自分に言い聞かせながら、明美は家に向かって歩き出す。
こんな事なら、誰かと一緒に帰ってくればよかった。明美は後悔した。
明美は現在高校二年生で、今日は放課後友人達とカラオケに行った帰りだった。
カラオケで楽しんだ後、友人達はファミレスに向かうと言っていた。
でも明美は一緒には行かなかった。門限が近付いているからだった。
歩いているうちにまた足音が聞こえる。
怖くて歩く速度も徐々に加速していく。
明美は恐怖を振り払うかのように夜道を走り出した。
逃げ込むように家に入る。
鍵を閉め、玄関で息を整える。走ってきたからなのか汗が背中を流れるのがわかる。
「お帰り」
母親の声が聞こえた。明美は靴を脱ぎ、リビングへ向かっていった。
「遅かったじゃない」
キッチンで皿洗いをしている母親が言った。
「友達とカラオケ行ってきたの。でもまだ九時になってないでしょ」
時計を見た。時刻は八時五十分、門限の九時にはあと十分ある。
「そうだけど、遅くなるなら連絡してね。心配なんだから」
そう言って、母親はリビングのテーブルに夕飯のカレーライスを持ってきた。
「夕飯まだよね? 食べなさい」
明美は鞄をソファに置くと、椅子に座り、目の前のカレーを見つめた。
お腹が空いているのに食欲が無い。
「どうしたの? お腹空いてないの?」
母親が心配そうに言った。明美は今日あった出来事を母親に話した。
「……そう。怖いわね。明日は駅までお父さんに迎えに行ってもらおうか?」
「……いい。大丈夫」
母親の提案を明美は断った。
翌朝、明美がリビングに行くと、スーツ姿の父親が、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
明美は無言で冷蔵庫を開け、中から牛乳を取り出し、コップに注いでそれを飲み干した。
「昨日も遅かったみたいだな」
父親が視線をそのままにした状態で、明美に言った。
「門限は守っているから文句無いでしょ」
そう言って明美は、テーブルに並べられた朝食に手をつけず、母親の用意した弁当を持ち、玄関に向かった。
「明美、食べないの?」
母親が心配そうに言った。
「いらない」
靴を履きながら明美は返答した。
いつも朝食は食べるようにしているが、父親がいては食欲が失せる。
明美が父親の事を毛嫌いするようになったのは高校に入ってからだった。
今までは優しいと感じていた父親の過保護な部分が、お節介に思えてきたのがそれの原因だった。
門限も父親の命令で、明美は正直うんざりしていた。
「今日は早く帰って来るんだぞ」
明美の機嫌を逆撫でする様に父親が言い放った。
「うるさいな」
そう呟き、明美は家を後にした。
「誰かにつけられている?」
明美は頷いた。
今は昼休み。明美はクラスで一番仲が良い男友達である藤村亮に廊下で相談をしていた。
明美はよく亮に相談を持ちかけていた、勉強の事や友達の事、それに父親の事も。
二人は仲良いだけではない。
実は一週間前、亮の告白に答え、明美と亮は恋人同士になっていた。
ただその関係を知る者は二人を除いて今はいなかった。
亮は小柄な男性で、明美よりも少し背が低い。
体格も細身な方だった。性格は温厚で勉強も出来、クラスではトップクラスの学力を有していた。
明美は昔から亮の優しさに惹かれていたため、告白を受けるのも自然な流れだったように思う。
「大丈夫? 今日は一緒に帰ろうか?」
心配そうな顔をして、亮が言った。
「え? でも、亮君の家から遠いでしょ?」
確かに、亮の家は学校から徒歩10分程で着き、明美の家は学校から一番近い駅まで徒歩15分程、電車で5分ほど行った駅で降り、そこから徒歩10分はかかる。
亮の家からはあまりにも遠すぎる。
「大丈夫だよ」
そう言って、亮は笑った。明美も嬉しくて笑顔になった。
「亮君、ちょっと教えて欲しい事があるんだけど」
クラスメイトの女子学生が亮に声をかけていた。手には数学の教科書を持っている。
「いいよ」
そう言って、亮は女子学生と一緒に教室へ戻っていった。一度振り返った亮は明美に笑いかけた。
アイコタクトで何が言いたいのか明美にはわかった。
『じゃあ放課後ね』
駅を降りた二人は、昨日と同じ帰路を通って明美の家に向かった。
昨日よりは早い時間だが相変わらず静寂している。
他の道を選ぶことも出来るが、この道が一番の近道だった。
「今日は来てないみたいだね」
背後を見ながら亮が言った。確かに、今日は足音が聞こえない。それでも明美は落ち着かなかった。
「心配しなくても大丈夫だよ。これからも一緒に帰れる時は僕が一緒に帰ってくれるから」
亮のその言葉を聞き、明美は安堵と同時に喜んだ。
彼氏と一緒に帰れるのだから嬉しくないはずが無い。
亮といろいろな話をしながら歩いているうちに、足音の事など忘れて明美は会話を楽しんだ。
「ごめんね、家まで送ってもらっちゃって」
家の前で立ち止まった明美が亮に言った。
「何で謝るの? 僕は一緒に帰れて嬉しかったよ」
そう言ってまた笑った。明美もつられて笑う。
暫く顔を見合わせた後、明美は家の中に入っていく、ドアの隙間から外を見ると、亮が手を振っていた。
明美もドアが閉まるその瞬間まで手を振っていた。
明美が朝食を食べていると、父親がネクタイを締めながらリビングに入ってきた。
無言でソファに腰を掛け、新聞を読み始めた。
「昨日一緒にいた子は、彼氏か?」
また視線を動かさず、父親が明美に向かって問いかけた。明美は黙って端を下ろした。
「関係ないでしょ」
明美は食器をキッチンの流し台へ持っていき、父親の隣に置かれた鞄を掴み玄関に向かおうとした。
「あの子はやめなさい」
明美の足が止まった。父親の言葉に怒りを覚えた。
「関係ないって言ってるでしょ!! 黙ってて!!」
そう叫んだ明美はリビングのドアを勢い良く閉めた。
父親が何か後ろから叫んでいたが、今の明美には耳に届かなかった。
「今日も一緒に帰ろうか」
帰りのホームルームの後、帰り仕度をしている明美に亮が小声で話しかけた。
「ごめん、今日友達と遊んでから帰ることになっちゃったから、先帰ってて」
本当は亮と一緒に帰りたかった。でも友人の誘いを断る事が出来なかった。
明美がすまなそうに謝ると、亮は笑顔を見せた。
「あのさ、帰り怖くなったら電話していい?」
明美が言うと、亮は大きく頷き、また笑った。
まさかこんな遅くなってしまうとは思わなかった。
友達と盛り上がっていたら時間を忘れてしまっていた。
駅を降りたときには、すでに9時を回っていた。
明美は携帯の時計を確認した後、いつもよりも早いペースで歩き始めた。
暫く歩いた所で、またあの音が聞こえた。
足音。背後から足音が聞こえる。
明美は耳を澄ませながら自分の足音を限りなく小さくするよう心がけて歩いた。
足音。やっぱり足音が聞こえる。聞き間違いじゃない。
心臓の鼓動が早くなっている事に明美は気が付いた。怖かった。
明美は暫く考えながら決意した。明美は勢い良く振り返った。
「……!」
後ろには、黒いロングコートを羽織り、ニット帽を被った人物が立っていた。
それが足音の主だとすぐにわかった。
逃げなきゃ。明美の本能がそう告げていた。
明美は無我夢中で走り出した。
後ろを見ると、ロングコートの人物も追いかけてきていた。
明美は恐怖で泣きそうになりながら走り続けた。
走って走って、とにかくロングコートの人物に追いつかれないように走った。
暫く行くと公園が目の前に現れた。
明美は公園の中に入り、草むらに身を隠した。
入り口の方に目をやると、ロングコートの人物が当たりを見回しながら公園に侵入してきた。
明美は慌てて姿勢を低くした。見つからないように。明美はそう祈った。
明美は何か思い出したように鞄から携帯電話を取り出した。
携帯を開き、メモリから亮の名前を見つけ出す。
発信ボタンを押し、亮の声を待った。
しかし、亮は電話に出なかった。
電話するって言ったのに。明美は切なくて、寂しくて、怖くて涙が出てきていた。
この公園は明美の家からそう離れていない場所に位置している。
幼い頃明美はこの場所でよく遊んでいた。
そして、空が暗くなると、父親が迎えに来てくれたことを思い出していた。
明美は携帯のメモリから、父親の番号を見つけ出し、発信ボタンを押していた。
あんなに嫌いな父親でも、きっと自分を助けに来てくれる。明美はその時そう信じていた。
『プルプルプル』
『ピピピピピピピピ』
明美の耳に呼び出し音が聞こえたその瞬間、携帯の着信音が聞こえた。
聞き覚えのある無機質な着信音。それは父親の携帯電話の音であった。
明美は何が起こったかわからなかった。
いや、少しは気が付いていたのかもしれない。
ゆっくり立ち上がり、草むらから顔を出した。
目の前にロングコートの人物が立っていた。
その人物のポケットの中から、その着信音が聞こえた。
「明美……」
ロングコートの人物が小声でそう言った。その刹那。
『ゴンッ』
鈍い音がして、ロングコートの男の身体が地面に叩きつけられた。
驚いた明美が見たのは、鉄パイプを持った亮の姿だった。
今までに見たことが無いような真剣な表情で鉄パイプを握り締め、明美の顔を見ている。
「大丈夫!?」
鉄パイプを地面に投げ捨て、亮は明美の肩を握った。
明美は恐怖で混乱していた。
何があったのか理解できず、気が付くと亮を抱きしめて泣いていた。
「無事で良かった」
亮はそう言って、明美の頭を撫でた。
暫くして、明美は亮から離れると、確認をするため地面に倒れているロングコートの人物に近付いた。
ニット帽で顔が見えにくい。明美は自分の予想を覆したかった。
だからこそ、その人物のニット帽を取った。
しかし残酷にも明美の予想は現実だった。
倒れているその人物は、明美の父親だった。
亮に殴られた場所から血が出ているが、気絶しているだけのようだ。
明美は泣き崩れた。やり場の無い気持ちをどこへ向ければいいかわからなかった。
ただただ泣いた。
ここ数日明美の背後から追ってきていた足音の犯人が、自分の父親なんて
……今のこの気持ちが怒りなのか悲しみなのか、明美自身にもわからなかった。
「明美ちゃん、とにかく家に行こう。送るから」
そう言って亮は明美の腕を取った。
「でも……」
「大丈夫。お父さんは僕に任せて」
そう言って、亮は笑顔を見せた。でもその笑顔が今の明美には恐ろしく思えた。
「どうして?」
「え?」
明美は顔を俯かせた。亮の握った腕を振り払い、ゆっくり立ち上がった。
次に顔を上げたときには、明美の表情は恐怖で歪んでいた。
「どうして、この人が私のお父さんだって知っているの?」
そうだった。亮は明美の父親に会ったことは無かったはずだった。
なのに亮はそれを知っていた。明美はその事に気が付いたのだった。
「何でって……僕会った事あるもん」
その返答に明美は驚いた。
「明美ちゃんの家の前まで行った時、声掛けられたんだ。だから知ってる」
家の前まで? 明美は思い出した。
「昨日?」
「違うよ」
亮は即答した。
「もっと前。ずっとずっと前」
明美は理解が出来なかった。明美の表情とは反比例して亮の顔は笑顔だった。
「高校入って、明美ちゃんに一目惚れして、それからずっと、明美ちゃんを帰るのを見ていたんだ。そんな時お父さんに声掛けられたんだ。娘に近付くなって」
明美は理解し背筋が凍った。目の前にいる彼は、昔から明美のストーカーだった。
今になって、父親の言葉が脳裏を過ぎる。
『あの子はやめなさい』
明美は今この時が夢であってほしいと本気で願った。願う事の無い祈りを信じたかった。
「多分、僕と明美ちゃんが付き合った事に気が付いたんじゃないかな。その日から、明美ちゃんの後をお父さんがつけるようになったんだ。だから僕はいつも警戒していたんだよ。何かあったら助けられるようにそんなもん持ってね」
亮の指差した先には父親を殴った鉄パイプが転がっていた。
多分父親はストーカーから明美を守るために、後ろにいたんだ。
ずっと後ろにいたストーカーには気が付かなかったのに、自分を守ろうとした父親に恐れるなんて。
今思えば、門限を決めたのもストーカーから守るための事だったのかも知れない。
馬鹿だ。明美は自分を責めた。あれはお節介じゃない。優しさだったのに。
「大丈夫だよ。安心して。明美ちゃんお父さんの事嫌いなんでしょ? 僕も明美ちゃんとの仲を引き裂こうとするこの人が嫌いなんだ。だから任して」
そう言って、亮は明美に微笑んだ。
きっと彼はこれが正しい事だと思っているんだと思う。
だからこんなにも綺麗な笑顔をするんだ。明美の身体は震え、何も出来なかった。
「ちゃんと殺すから」
亮は優しく明美に呟いた。