■梅田仁の場合■
「いけない! 寝坊だ!」
携帯の時間表示を見て、梅田仁はベッドから飛び起きた。
今日は彼にとって遅れる事が出来ない重要な日だった。
自分の部屋から出ると、リビングに向かった。
今日は日曜で家族は誰もいない。仁本人も今日は大学の講義が休みだった。
「着替えてる暇もないよ」
仁は部屋の壁に掛かっている時計を見て呟いた。
今仁が着ているのはパジャマ代わりに着ているTシャツとジャージだ。
本来ならしっかりとした服装に着替える必要はあるのだが、仕方が無い。
仁は財布や携帯電話を持ち、家を出た。
走りながら、仁は携帯電話の画面を開き、安本と書かれた人物に電話を掛け始めた。
「もしもし、お前何やってるんだよ」
電話に出るなり、電話の向こうからそう聞こえた。
安本一真、仁の高校時代からの友人で、今も学科は違うものの、同じ大学に在学していた。
「ごめん、寝坊した!」
「馬鹿じゃないの? もうジョン来てるぞ」
一真が言った。ジョンと言うのは、アメリカからの留学生で、一真の友人だった。
一真は英文学科に在籍していて、その関係で出会ったらしい。
今日仁は一真に彼を紹介してもらう事になっていた。
「ごめん! 今向かってるよ。あと少しで着くから」
そう言って、仁は携帯をポケットに閉まった。
仁が家を出て10分程で、一真との待ち合わせ場所であるファミレスに辿り着いた。
お昼時と言う事もあり、店内は混んでいた。
仁は店内を見渡し一真の姿を確認した。そして窓側の席に座る一真を見つけた。
一真も仁を見つけたらしく、目の前に座る男性に一言声を掛け、仁に近付いてきた。
「お前! 遅いぞ!」
「ごめん!」
仁は両手の掌を合わせ、顔の前に持ってきた。
一真は仁のその行動を見て、大きな溜息を吐いた。
「もういいよ……それより、この前言った事覚えてるだろうな?」
一真が言った。仁は二日前に一真と話した会話を思い出した。
今日仁が一真に紹介してもらうジョンと言う男性は、普段はとても温厚で、優しい男性だが、愛国心が強く、自分の祖国アメリカを愚弄するような事を言ったり、表現されたりする者に対しては、怒りを露にするらしい。
一真の話だと、一度ふざけてジョンの前でアメリカの事を馬鹿にした同じ大学の学生が、ジョンに怒りの鉄拳を受け、入院したらしい。
その話を思い出した仁は、一真の顔を見て、深く頷いた。
仁が一真に頼んでジョンというアメリカの留学生を紹介してもらうのには理由があった。
仁は昔から海外、特にアメリカへ旅行するのが夢だった。
まずはアメリカの友人を作り、少しずつ夢を現実のものとしたい……という名目だった。
本当の理由とは、外国の友人がいるというちょっとした優越感を味わいたいという、くだらない理由だった。
その事は一真も知らない事実である。
「とにかく行くぞ」
一真はそう言うと、さっきまで座っていた席に向かって歩き出した。
仁は一真の後を追った。
「ジョン」
一真が椅子に座った男性に声を掛けた。
振り向いた男性・ジョンは笑顔で立ち上がり、仁に向かって握手を求めた。
一真がジョンに英語で仁の紹介をし、仁は続けておぼつかない英語で自己紹介をした。
ジョンは終始笑顔で話を聞いた。
互いの自己紹介も終わり、一真と仁は窓側の席に、ジョンはそのまま通路側の席に座った。
そこから三人はいろいろな話で盛り上がった。
基本、ジョンは日本語で話をしてくれた。
たまに仁へ伝わらない事があると、英語で話をし、一真が仁へ通訳する形になった。
仁は自分がアメリカが好きだと大袈裟に思える程熱く語り、ジョンも喜んで仁の話に耳を傾けた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
約一時間程話をした所で、ジョンが帰宅する時間になった。
ジョンと仁は互いの連絡先を交換すると、握手を交わし、ジョンが帰っていくのを立ち上がって見送った。
「ふぅ……」
ジョンが店を出るのを確認した後、仁はその場に座り深い溜息をした。
緊張もしたせいか、やけに体がだるく感じる。
「お前、俺に感謝しろよ?」
一真が言った。
「わかってるって。今日夕飯奢るからさ」
とにかく、今日は一真のお陰で、仁はジョンと仲良くできた。仁は本当に感謝していた。
「っていうか俺さ、ずっと言いたかったんだけど、お前の服、後ろ前じゃないか?」
一真が仁の服を見てそう言った。その言葉に驚いた仁は、自分の服を見た。
確かに一真の言うように、仁の着ているTシャツは前後逆さになっている。
その証拠に、顎の下辺りに、服のサイズが記入されたタグが見える。
「寝坊して慌てて家を飛び出してきたから」
一真は笑いながら、仁の服の前後を見回した。
仁の背中に目をやった一真は暫く視線を一箇所に留め、真剣な表情になった。
「お前……危なかったぞ」
一真は呟いた。
「何が?」
「お前、運良すぎだよ……もしこの服しっかり着てたら、お前ジョンに殺されてたぞ」
一真の恐ろしい言葉に、仁は眉間に皺を寄せた。背中に何が書いてあるんだと言うのだろうか。
仁は慌てて背中を見ようとした。今すぐここでTシャツを脱ごうとしたが、そうはいかない。
仁は窓に反射させ、自分の背中にかかれたデザインを確認した。
そこには、明らかにアメリカを皮肉った英単語が書かれていた。
多分、少しでも英語をかじった人物ならこの英単語の意味がわかるだろう。
その文字を確認した仁は血の気が引くのを感じた。
「危ねぇ……」
恐怖のせいか、仁の口角が上に上がった。少しずつ笑い出し始めた。
「やばいよ、危なかった! マジ良かったよ! 俺、こんなん着てきちゃったのかよ! 死ぬところだった!」
恐怖が安心に変わった時には、笑いが止まらなくなっていた。
安堵の笑いは、暫く続いた。
よく外国人が意味も知らずに変な漢字の書かれた服を着ていることがある。
日本人は同じように意味も知らずに、デザインだけで英語の書かれたTシャツを買ってしまう。
仁もそのタイプの人間だった。
今来ている服も、今この時まで意味も考えず着ていた。
それを運良く後ろ前に着ていたお陰で助かった。
仁は何度も何度も、ガラスに映る英単語を見て、笑い声を抑えた。
「仁……おい……」
一真が呟いた。仁が一真の顔を見ると、青ざめ表情でガラスに映った字を見ている。
仁は首を傾げながらガラスに視線を戻した。
文字に目をやったが、さっきと同じ映像が映っているだけだった。
だが、少しずつ仁の目の中のピントがずれていき、ガラスの先の風景が目に映った。
窓の向こうで、愛国者のアメリカ人が、じっと仁の顔を見ていた。