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「妹を王太子妃にする。お前は影として支えろ」と命じられたので、十年間つけていた王宮日誌を閉じました

掲載日:2026/10/03

「ミレイユを王太子妃にする。お前はあの子の侍女として、これまでどおり支えなさい」


父がそう告げたとき、私は日誌の最後の一行を書いていた。


――午後四時。殿下の発熱なし。南方使節への返書、要修正。晩餐会では胡桃を避けること。


インクが乾くのを待ってから、私は顔を上げた。


「婚礼まで、あと三か月ですが」


「だから急いでいる」


父は苛立たしげに机を指で叩いた。


「ミレイユは社交界の花だ。明るく、愛らしく、誰からも好かれる。病弱なレオナード殿下のおそばには、あの子のような女性がふさわしい」


隣には異母妹のミレイユが座っていた。春色のドレスに身を包み、申し訳なさそうに睫毛を伏せている。


「ごめんなさい、お姉様。わたくし、そんなつもりではなかったの。でも殿下が、わたくしといると心が安らぐと……」


「そう」


「怒っていらっしゃる?」


「いいえ」


本当に怒ってはいなかった。


ただ、胸の奥で何かが静かに終わった。


私がレオナード殿下の婚約者になったのは十歳のときだ。殿下は幼い頃から病弱で、食べられない物が多く、季節の変わり目には必ず熱を出した。


私は王太子妃教育と並行して薬草学を学び、殿下の食事と予定を記録し始めた。どの香油で咳が出るか。何時間眠れば顔色が戻るか。誰との面会後に頭痛を訴えるか。


記録はやがて、健康だけでなく政務にも及んだ。


北部の伯爵は結論を先に伝える。南部の侯爵は孫の話をすると機嫌がよい。西の隣国では青い封蝋が国王の親書、白は外務卿の私信。


十年間で、日誌は十二冊になった。


「侍女というのは、正式な役職でしょうか」


私が尋ねると、父は眉をひそめた。


「形などどうでもよい。お前はミレイユが困らないよう、今までしてきた仕事を続ければいい」


「わたくしの名で参加している王妃教育は?」


「ミレイユの代理として受けなさい」


「王太子府から預かっている外交文書は?」


「引き続きお前が処理しろ。ミレイユに難しい仕事をさせる必要はない」


ミレイユがぱっと顔を輝かせた。


「よかった。お姉様がいてくだされば安心ね。わたくし、外国語と数字だけはどうしても苦手で」


私は日誌に触れた。


革の表紙は、十年のあいだに角が丸くなっていた。


「殿下も承知していらっしゃるのですか」


「もちろんだ。今夜、ご本人から話がある」


父の返事を聞き、私は日誌を閉じた。


ぱたん、と小さな音がした。


十年を終わらせる音としては、驚くほど軽かった。


     ◆


その夜、レオナード殿下はミレイユを隣に座らせていた。


私がいつも用意していた薄荷茶を飲み、私が選んだ膝掛けを使いながら、殿下は穏やかな声で言った。


「すまない、エレノア。君には感謝している」


感謝。


便利な言葉だと思った。


「君は優秀だ。私の体調も政務も、誰より理解している。だが王太子妃には、民に愛される華も必要だ。ミレイユにはそれがある」


「わたくしにはない、と」


「そういう言い方をしないでくれ。君の価値は別のところにある」


殿下は困ったように微笑んだ。


「これからも私たちを支えてほしい。立場が変わっても、三人の関係は変わらない」


一つ目。


婚約者ではなくなるが、仕事は続けろ。


「お姉様なら分かってくださるわよね」


ミレイユは私の手を取った。


「わたくし、王太子妃になってもお姉様を姉として大切にするわ。衣装も宝石も、好きなものを貸して差し上げる」


二つ目。


もともと私のために用意された衣装と宝石を、妹から借りろ。


「婚礼衣装の採寸は明後日だったね」


殿下が言った。


「仕立屋にはミレイユの寸法で作り直すよう伝えてくれ。君のほうが詳しいだろう」


三つ目。


私の婚礼衣装を、私自身の手で妹に譲れ。


十分だった。


「承知いたしました」


私が答えると、二人は目に見えて安堵した。


「やはり君なら分かってくれると思っていた」


「ありがとう、お姉様!」


「ただし、わたくしは侍女にはなりません」


殿下の笑みが止まった。


「……何?」


「王太子妃候補としてお預かりした書類は、明日すべて返却いたします。王妃教育も辞退します。婚礼衣装については、仕立屋へ契約の終了を伝えます」


「待ってくれ。衣装はミレイユが使う」


「あれは亡き母の遺産から、わたくしが注文したものです。王家にも公爵家にも所有権はございません」


ミレイユが傷ついた顔をした。


「お姉様、わたくしにくださらないの?」


「ええ」


「一着くらい、いいではありませんか」


「あなたも未来の王太子妃なら、自分の婚礼衣装は自分で選びなさい」


私は立ち上がった。


「十年間、大変お世話になりました」


殿下は咳き込み、空になったカップを差し出した。


いつもなら、すぐ薄荷茶を注ぎ足していた。


私は一礼し、そのまま部屋を出た。


     ◆


翌朝、十二冊の日誌を王太子府の机に並べた。


侍従長のハロルドが目を丸くした。


「こちらを、すべて置いていかれるのですか」


「王宮で得た情報ですから。持ち出すつもりはありません」


安堵と心配が入り交じった顔で、彼は一冊目を開いた。


「これは……目次はどちらに?」


「ありません」


「では、必要な記述をどう探せば」


「わたくしは覚えておりますので、必要ありませんでした」


十二冊は、私が自分のために書いた記録だ。他人に引き継ぐための手引書ではない。


「新しい王太子妃殿下と、一からお作りください」


日誌の最終頁には、昨日の記録までしかない。


今日の殿下が何を食べ、誰と会い、何を決めるのか。もう私が書くことではなかった。


部屋を出ると、廊下の窓辺に一人の男性が立っていた。


隣国ルーウェンの大使補佐、ユリウス・アーレンベルクだった。


「ずいぶん晴れやかなお顔ですね、エレノア様」


「婚約を解消された女性にかける言葉ではありませんわ」


「では、十年勤めた職場を円満退職した方に」


思わず笑ってしまった。


ユリウスは以前、外交文書の翻訳を通じて知り合った人だ。私の意見を聞くとき、彼は一度も「王太子殿下ならどう考えるか」とは尋ねなかった。


「以前のお話は、まだ有効ですか」


「王立文書院の客員研究員の件ですか?」


「ええ。我が国では、五年前の水害で古い外交記録の多くを失いました。あなたの記憶力と整理の技術を貸していただきたい」


胸の奥が熱くなった。


三年前、彼から初めて誘われたとき、私は即座に断った。王太子妃になる自分が、外国で働く未来など考えられなかったからだ。


「今度は、殿下の許可を理由に断らないでください」


「父の許可が必要かもしれません」


「あなたは二十歳です」


「そうでした」


十歳から婚約者だったため、自分がもう、誰かの許可を待つ子供ではないことを忘れていた。


「お受けします」


初めて、自分の未来を自分の言葉で決めた。


     ◆


私が王宮を離れて三日目、最初の使者が来た。


殿下が南方使節との昼食会で胡桃の菓子を口にし、寝込んだという。


五日目には、ミレイユが泣きながら部屋を訪ねてきた。


「お姉様、青い封蝋の手紙は急ぎなの? 白いものと、どちらを先に開ければいいの?」


「差出人を確認なさい」


「文字が読めないの」


「では、翻訳官へ」


「翻訳官は、お姉様が先に要点をまとめてくださっていたと言うのよ!」


「これからは、あなたが依頼するのです」


ミレイユは唇を震わせた。


「お姉様は、わたくしが失敗しても平気なの?」


「あなたはわたくしの婚約を受け取ったとき、王太子妃の仕事も受け取ったのよ」


「でも、お姉様は何でもできるでしょう?」


「できることと、しなければならないことは違うわ」


七日目には父が来た。


「今すぐ王宮へ戻れ。先方から、ミレイユの教育が進んでいないと苦情が来ている」


「王太子妃に選んだのはお父様です」


「姉なら妹を助けるのが当然だろう!」


「娘なら父の命令に従うのも、婚約者なら殿下を支えるのも、姉なら妹を助けるのも当然。では、わたくしのために生きるのは誰ですか」


父は答えなかった。


「これまで、わたくし自身でさえ、それをしておりませんでした」


机の上には、ルーウェンへ持っていく荷物の一覧がある。母の首飾り。自分で買った本。着慣れたドレス。そして、何も書かれていない新しい日誌。


「これからは、わたくしがいたします」


父には帰ってもらった。


     ◆


出発の日、駅にはユリウスが迎えに来ていた。


「荷物はこれだけですか」


「ええ。思ったより、わたくし自身のものは少なかったようです」


王太子妃のための衣装も宝石も資料も、すべて置いてきた。


けれど、不思議と身軽だった。


列車が動き出す直前、王宮の馬車が駅前に止まった。


降りてきたのはレオナード殿下だった。顔色は悪く、従者に支えられている。


「エレノア!」


十年のあいだ、殿下が人前で私の名を叫んだことなど一度もなかった。


「君が必要だ。戻ってきてくれ」


「新しい王太子妃殿下がいらっしゃいます」


「ミレイユには無理だ。あれは何も分かっていない」


「三か月あれば学べます。わたくしは十年かけましたが」


「では、せめて引継書を作ってくれ。日誌だけでは分からない」


殿下は私が何を好きだったか、最後まで尋ねなかった。


どこへ行くのかも、そこで何をするのかも。


必要なのは私ではなく、私の仕事なのだ。


「日誌の続きを、ご自分たちでお書きください」


発車の鐘が鳴った。


ユリウスが先に列車へ乗り、こちらへ手を差し出した。


私はその手を取った。


     ◆


ルーウェンの王立文書院には、大きな窓があった。


午後になると、机いっぱいに日が差す。私は古い条約文を読み、欠けた記録を照合し、分かったことを自分の名前で論文にした。


誰かの返事を代筆する必要はない。誰かの好物を覚えておく必要もない。


半年後、私の研究は文書院の紀要に掲載された。


表紙に記された「エレノア・ヴァレンティン」の文字を、私は何度も指でなぞった。


「そんなに嬉しいですか」


向かいの机からユリウスが笑う。


「ええ。自分の名前が、こんなに好きだったとは知りませんでした」


「では次の論文も、その次も載せましょう。あなたの名前を嫌というほど残せばいい」


机の端には、新しい日誌が置いてある。


最初の頁には、ルーウェンへ着いた日のことを書いた。


――午前十時。国境を越える。空が広い。


今日の頁を開き、私はペンを取る。


誰かを支えるための記録ではない。


私が見て、選び、生きた日々を忘れないための記録だ。


窓の外では、春の風に白い花が揺れていた。


私は自分の名前で、今日の一行を書き始めた。

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― 新着の感想 ―
長年支えられていたのに裏切るって屑だな。 病弱でこんなのを王太子選ばなくてはならないとはこの国終わってますね。 隣国に行って大正解ですね。
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