「妹を王太子妃にする。お前は影として支えろ」と命じられたので、十年間つけていた王宮日誌を閉じました
「ミレイユを王太子妃にする。お前はあの子の侍女として、これまでどおり支えなさい」
父がそう告げたとき、私は日誌の最後の一行を書いていた。
――午後四時。殿下の発熱なし。南方使節への返書、要修正。晩餐会では胡桃を避けること。
インクが乾くのを待ってから、私は顔を上げた。
「婚礼まで、あと三か月ですが」
「だから急いでいる」
父は苛立たしげに机を指で叩いた。
「ミレイユは社交界の花だ。明るく、愛らしく、誰からも好かれる。病弱なレオナード殿下のおそばには、あの子のような女性がふさわしい」
隣には異母妹のミレイユが座っていた。春色のドレスに身を包み、申し訳なさそうに睫毛を伏せている。
「ごめんなさい、お姉様。わたくし、そんなつもりではなかったの。でも殿下が、わたくしといると心が安らぐと……」
「そう」
「怒っていらっしゃる?」
「いいえ」
本当に怒ってはいなかった。
ただ、胸の奥で何かが静かに終わった。
私がレオナード殿下の婚約者になったのは十歳のときだ。殿下は幼い頃から病弱で、食べられない物が多く、季節の変わり目には必ず熱を出した。
私は王太子妃教育と並行して薬草学を学び、殿下の食事と予定を記録し始めた。どの香油で咳が出るか。何時間眠れば顔色が戻るか。誰との面会後に頭痛を訴えるか。
記録はやがて、健康だけでなく政務にも及んだ。
北部の伯爵は結論を先に伝える。南部の侯爵は孫の話をすると機嫌がよい。西の隣国では青い封蝋が国王の親書、白は外務卿の私信。
十年間で、日誌は十二冊になった。
「侍女というのは、正式な役職でしょうか」
私が尋ねると、父は眉をひそめた。
「形などどうでもよい。お前はミレイユが困らないよう、今までしてきた仕事を続ければいい」
「わたくしの名で参加している王妃教育は?」
「ミレイユの代理として受けなさい」
「王太子府から預かっている外交文書は?」
「引き続きお前が処理しろ。ミレイユに難しい仕事をさせる必要はない」
ミレイユがぱっと顔を輝かせた。
「よかった。お姉様がいてくだされば安心ね。わたくし、外国語と数字だけはどうしても苦手で」
私は日誌に触れた。
革の表紙は、十年のあいだに角が丸くなっていた。
「殿下も承知していらっしゃるのですか」
「もちろんだ。今夜、ご本人から話がある」
父の返事を聞き、私は日誌を閉じた。
ぱたん、と小さな音がした。
十年を終わらせる音としては、驚くほど軽かった。
◆
その夜、レオナード殿下はミレイユを隣に座らせていた。
私がいつも用意していた薄荷茶を飲み、私が選んだ膝掛けを使いながら、殿下は穏やかな声で言った。
「すまない、エレノア。君には感謝している」
感謝。
便利な言葉だと思った。
「君は優秀だ。私の体調も政務も、誰より理解している。だが王太子妃には、民に愛される華も必要だ。ミレイユにはそれがある」
「わたくしにはない、と」
「そういう言い方をしないでくれ。君の価値は別のところにある」
殿下は困ったように微笑んだ。
「これからも私たちを支えてほしい。立場が変わっても、三人の関係は変わらない」
一つ目。
婚約者ではなくなるが、仕事は続けろ。
「お姉様なら分かってくださるわよね」
ミレイユは私の手を取った。
「わたくし、王太子妃になってもお姉様を姉として大切にするわ。衣装も宝石も、好きなものを貸して差し上げる」
二つ目。
もともと私のために用意された衣装と宝石を、妹から借りろ。
「婚礼衣装の採寸は明後日だったね」
殿下が言った。
「仕立屋にはミレイユの寸法で作り直すよう伝えてくれ。君のほうが詳しいだろう」
三つ目。
私の婚礼衣装を、私自身の手で妹に譲れ。
十分だった。
「承知いたしました」
私が答えると、二人は目に見えて安堵した。
「やはり君なら分かってくれると思っていた」
「ありがとう、お姉様!」
「ただし、わたくしは侍女にはなりません」
殿下の笑みが止まった。
「……何?」
「王太子妃候補としてお預かりした書類は、明日すべて返却いたします。王妃教育も辞退します。婚礼衣装については、仕立屋へ契約の終了を伝えます」
「待ってくれ。衣装はミレイユが使う」
「あれは亡き母の遺産から、わたくしが注文したものです。王家にも公爵家にも所有権はございません」
ミレイユが傷ついた顔をした。
「お姉様、わたくしにくださらないの?」
「ええ」
「一着くらい、いいではありませんか」
「あなたも未来の王太子妃なら、自分の婚礼衣装は自分で選びなさい」
私は立ち上がった。
「十年間、大変お世話になりました」
殿下は咳き込み、空になったカップを差し出した。
いつもなら、すぐ薄荷茶を注ぎ足していた。
私は一礼し、そのまま部屋を出た。
◆
翌朝、十二冊の日誌を王太子府の机に並べた。
侍従長のハロルドが目を丸くした。
「こちらを、すべて置いていかれるのですか」
「王宮で得た情報ですから。持ち出すつもりはありません」
安堵と心配が入り交じった顔で、彼は一冊目を開いた。
「これは……目次はどちらに?」
「ありません」
「では、必要な記述をどう探せば」
「わたくしは覚えておりますので、必要ありませんでした」
十二冊は、私が自分のために書いた記録だ。他人に引き継ぐための手引書ではない。
「新しい王太子妃殿下と、一からお作りください」
日誌の最終頁には、昨日の記録までしかない。
今日の殿下が何を食べ、誰と会い、何を決めるのか。もう私が書くことではなかった。
部屋を出ると、廊下の窓辺に一人の男性が立っていた。
隣国ルーウェンの大使補佐、ユリウス・アーレンベルクだった。
「ずいぶん晴れやかなお顔ですね、エレノア様」
「婚約を解消された女性にかける言葉ではありませんわ」
「では、十年勤めた職場を円満退職した方に」
思わず笑ってしまった。
ユリウスは以前、外交文書の翻訳を通じて知り合った人だ。私の意見を聞くとき、彼は一度も「王太子殿下ならどう考えるか」とは尋ねなかった。
「以前のお話は、まだ有効ですか」
「王立文書院の客員研究員の件ですか?」
「ええ。我が国では、五年前の水害で古い外交記録の多くを失いました。あなたの記憶力と整理の技術を貸していただきたい」
胸の奥が熱くなった。
三年前、彼から初めて誘われたとき、私は即座に断った。王太子妃になる自分が、外国で働く未来など考えられなかったからだ。
「今度は、殿下の許可を理由に断らないでください」
「父の許可が必要かもしれません」
「あなたは二十歳です」
「そうでした」
十歳から婚約者だったため、自分がもう、誰かの許可を待つ子供ではないことを忘れていた。
「お受けします」
初めて、自分の未来を自分の言葉で決めた。
◆
私が王宮を離れて三日目、最初の使者が来た。
殿下が南方使節との昼食会で胡桃の菓子を口にし、寝込んだという。
五日目には、ミレイユが泣きながら部屋を訪ねてきた。
「お姉様、青い封蝋の手紙は急ぎなの? 白いものと、どちらを先に開ければいいの?」
「差出人を確認なさい」
「文字が読めないの」
「では、翻訳官へ」
「翻訳官は、お姉様が先に要点をまとめてくださっていたと言うのよ!」
「これからは、あなたが依頼するのです」
ミレイユは唇を震わせた。
「お姉様は、わたくしが失敗しても平気なの?」
「あなたはわたくしの婚約を受け取ったとき、王太子妃の仕事も受け取ったのよ」
「でも、お姉様は何でもできるでしょう?」
「できることと、しなければならないことは違うわ」
七日目には父が来た。
「今すぐ王宮へ戻れ。先方から、ミレイユの教育が進んでいないと苦情が来ている」
「王太子妃に選んだのはお父様です」
「姉なら妹を助けるのが当然だろう!」
「娘なら父の命令に従うのも、婚約者なら殿下を支えるのも、姉なら妹を助けるのも当然。では、わたくしのために生きるのは誰ですか」
父は答えなかった。
「これまで、わたくし自身でさえ、それをしておりませんでした」
机の上には、ルーウェンへ持っていく荷物の一覧がある。母の首飾り。自分で買った本。着慣れたドレス。そして、何も書かれていない新しい日誌。
「これからは、わたくしがいたします」
父には帰ってもらった。
◆
出発の日、駅にはユリウスが迎えに来ていた。
「荷物はこれだけですか」
「ええ。思ったより、わたくし自身のものは少なかったようです」
王太子妃のための衣装も宝石も資料も、すべて置いてきた。
けれど、不思議と身軽だった。
列車が動き出す直前、王宮の馬車が駅前に止まった。
降りてきたのはレオナード殿下だった。顔色は悪く、従者に支えられている。
「エレノア!」
十年のあいだ、殿下が人前で私の名を叫んだことなど一度もなかった。
「君が必要だ。戻ってきてくれ」
「新しい王太子妃殿下がいらっしゃいます」
「ミレイユには無理だ。あれは何も分かっていない」
「三か月あれば学べます。わたくしは十年かけましたが」
「では、せめて引継書を作ってくれ。日誌だけでは分からない」
殿下は私が何を好きだったか、最後まで尋ねなかった。
どこへ行くのかも、そこで何をするのかも。
必要なのは私ではなく、私の仕事なのだ。
「日誌の続きを、ご自分たちでお書きください」
発車の鐘が鳴った。
ユリウスが先に列車へ乗り、こちらへ手を差し出した。
私はその手を取った。
◆
ルーウェンの王立文書院には、大きな窓があった。
午後になると、机いっぱいに日が差す。私は古い条約文を読み、欠けた記録を照合し、分かったことを自分の名前で論文にした。
誰かの返事を代筆する必要はない。誰かの好物を覚えておく必要もない。
半年後、私の研究は文書院の紀要に掲載された。
表紙に記された「エレノア・ヴァレンティン」の文字を、私は何度も指でなぞった。
「そんなに嬉しいですか」
向かいの机からユリウスが笑う。
「ええ。自分の名前が、こんなに好きだったとは知りませんでした」
「では次の論文も、その次も載せましょう。あなたの名前を嫌というほど残せばいい」
机の端には、新しい日誌が置いてある。
最初の頁には、ルーウェンへ着いた日のことを書いた。
――午前十時。国境を越える。空が広い。
今日の頁を開き、私はペンを取る。
誰かを支えるための記録ではない。
私が見て、選び、生きた日々を忘れないための記録だ。
窓の外では、春の風に白い花が揺れていた。
私は自分の名前で、今日の一行を書き始めた。




