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〜前編〜

「 『Friends』 〜 一年間の黙示録 〜 」を見つけていただき、ありがとうございます!以下の点を確認した上で、どうぞお楽しみください(^^)/


・scratchで投稿されている作品「 『Friends』 〜超難関人間関係心理ゲーム〜 」(https://scratch.mit.edu/projects/1240070450/)のネタバレを含みます。ご注意ください。

・一部思想の偏った登場人物がいます。あくまで小説としてお楽しみください。

20XX/06/01 (Sun)


浅倉(あさくら) 琉生(るい)



―――目が覚めた。ここは何処だ?寝惚(ねぼ)けた目を擦ると、そこに映ったのは見慣れた車内と車窓越しの見慣れない風景だった。やっと冴え始めた僕の頭に、何度も耳にしたであろう二文字の言葉が浮かんだ。「転居」...つまり引っ越しである。父親の仕事の都合でどうしても必要だったらしい。だが、やはり不満が募る。今は中学二年の六月、やっと中学校に慣れてきたと思えばこの様だ。クラスにも少しずつ馴染み、放課後に残って他愛もない話をする相手もできた。部活だって、ようやく先輩の名前と顔が一致してきたばかりだったのに。積み上げてきたものが、何の前触れもなく崩されるような感覚。昨日までの「当たり前」が、今日からはもう手の届かない場所にあるのだと思うと、胸の奥がじくりと痛んだ。それでも時間は待ってくれない。車は止まらず、知らない街へと僕を運んでいく。窓ガラスに映る自分の顔は、どこか拗ねた子どものようで、思わず視線を逸らした。


車は緩やかな坂道を上っていた。窓の外には、低い家並みと、その向こうに広がる田畑が見える。前の街とは違い、高い建物も派手な看板もない。代わりに、空がやけに広かった。雲がゆっくりと流れているのを、こんなに大きく感じたのは初めてかもしれない。

「もうすぐ着くぞ」

運転席から父の声が飛んできた。母は助手席で地図アプリを見ながら、

「この辺り、静かでいいところらしいわよ」

と気楽に言う。僕は曖昧な返事を返し、再び窓の外に目を向けた。


やがて車は、小さな駅前ロータリーを抜け、商店が数軒並ぶ通りへと入った。新しい生活の匂いがする。期待よりも不安のほうが大きく、胸の奥がじわりと重い。アパートは二階建ての淡いクリーム色の建物だった。荷物を運び入れ、最低限の片付けを終えるころには、もう夕方になっていた。窓を開けると、どこからか蝉の鳴き声が聞こえる。六月の湿った風が、カーテンを揺らした。



20XX/06/02 (Mon)


〜浅倉琉生〜



翌朝。

制服は昨日のうちに用意してあった。まだ新品の、少し硬い生地。袖を通すと、自分が自分でないような気分になる。鏡の前でネクタイを整えながら、僕は小さく息を吐いた。

「行ってきます」

返事を待たずに玄関を出る。地図で確認した通学路を、記憶を頼りに歩き始めた。住宅街を抜け、小さな川にかかる橋を渡る。水面が朝日にきらめいていた。見知らぬ景色の中を歩く自分は、まるで物語の登場人物のようだ。


やがて、坂の上に校舎が見えた。白い外壁に、青い校章の入った看板。その中央に、はっきりと書かれている。


――釉浄(ゆうじょう)中学校。


胸がどくりと鳴る。門の前で一瞬立ち止まり、深呼吸をした。校庭ではすでに何人かの生徒が談笑している。笑い声が、遠く感じられた。知らない顔、知らない声、知らない日常。それでも、ここで過ごしていくしかない。僕は拳を握りしめ、門をくぐった。昇降口で上履きに履き替え、掲示板に貼られたクラス分け表を探す。自分の名前を見つけたとき、心臓がまた強く打った。


二年二組。


廊下を歩く足音がやけに大きく響く。窓から差し込む朝の光が、磨かれた床に反射してまぶしい。教室の前に立つと、「2-2」と書かれたプレートが目に入った。扉の向こうから、ざわめきが聞こえる。ここが、新しい僕の居場所になるのだろうか。そう思いながら、僕はゆっくりと扉に手をかけた。


がらり、と音を立てて引くと、教室のざわめきが一瞬だけ止まった。幾つもの視線が、いっせいに僕へと向けられる。喉がひくりと鳴った。

「……ああ、転入生か。入れ」

低く落ち着いた声が、教卓の方から飛んできた。声の主は担任らしい男の教師だった。黒縁の眼鏡に、きっちりと整えられた髪。表情は薄く、どこか事務的な印象を受ける。

「二年二組担任の、佐藤だ。自己紹介を」

佐藤先生はそれだけ言うと、出席簿に目を落とした。愛想はほとんどない。僕は教壇の横に立ち、簡単に名前と前の学校のことを話した。声が少し震えたのが、自分でも分かった。まばらな拍手が起き、佐藤先生が席はあそこだ、と窓側の後ろを指す。...明らかに女子列だった。周りを見ると所々男子列に女子が紛れ込んでいたりその逆もまた(しか)り。別に普通のことなのだろう。こうして、短い朝の会は淡々と進んでいった。


やがて休み時間。張り詰めていた空気が一気にほどけ、教室はにわかに騒がしくなる。どう動けばいいのか分からず、鞄の中を意味もなく整えていると――


「ねえ!」


突然明るい声が、すぐ横から弾けた。顔を上げると、長めの髪を揺らした元気そうな女の子が立っている。ぱっちりとした目が、まっすぐ僕を見ていた。

「琉生さんだったよね? よろしくね!」

にっと笑って差し出された手に、僕は一瞬戸惑いながらも、小さく頷いた。新しい日常が、今、音を立てて動き出した気がした。


彼女の名前は遠山楓理(とおやまかえり)というらしい。朝の会が終わるや否や、彼女は椅子を引きずる音も構わずこちらへ身を乗り出してきた。

「さっき言いそびれたけど、私、遠山楓理。楓に理科の理。覚えやすいし、たぶん一回で忘れないタイプの名前だから」

自分で言って、自分で満足そうに頷く。その仕草が妙に大きい。彼女は人との距離を測る物差しを持っていないのかもしれない。前の学校は都会だったのか、クラスは何人いたのか、彼女は質問を投げるというより、半ば決めつけるように話を進める。「絶対こっちのほうが静かでしょ?」「でもその代わり星は綺麗だから、たぶん感動するよ?」と、まだ見てもいない僕の感情まで先回りする。少し強引で、少し大げさ。それでも、不思議と悪意は感じない。本人も悪気は全くないのだろう。むしろ、自分の世界に僕を当然のように組み込もうとする、その無遠慮さが眩しかった。

予鈴が鳴ると、彼女は「あ、数学だ。最初から佐藤とか、ちょっと運悪いかもね」と肩をすくめた。「まあでも大丈夫!たぶん死なないから!」と、妙な励ましを残して席へ戻る。


一時間目は数学。担当は担任の佐藤先生だ。無駄のない足取りで教室に入り、静かに出席簿を置く。その表情は相変わらず硬い。

「教科書、四十二ページを開け」

低く抑えた声。私語は即座に消える。遠山の言っていた意味が、少し分かった気がした。一次関数の応用。前の学校でも触れた単元だが、解法の進め方がわずかに違う。板書は整然としていて美しいが、その分ごまかしが利かない。途中式を飛ばせば、すぐに指摘されそうな緊張感がある。

「転入生、ついて来られているか」

不意に呼ばれ、僕は顔を上げた。はい、と短く答えると、佐藤先生はそれ以上何も言わずに視線を戻した。試されているようで、背筋が伸びる。横を見ると、遠山は先ほどまでの騒がしさが嘘のように、真剣な顔でノートを取っていた。だが、問題が解けた瞬間、小さくガッツポーズを作っている。どうやら感情の振れ幅がそのまま外に出る性質らしい。やがて終業のチャイムが鳴る。佐藤先生は

「次回は例題三まで。予習を怠るな」

と告げ、教室を出ていった。


一拍の静寂。


次の瞬間、教室は一斉に息を吹き返す。椅子が鳴り、笑い声が弾ける。

次の休み時間が、始まった。


休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り切るより早く、遠山はもうこちらを向いていた。切り替えの早さというより、最初からその瞬間を待っていたような勢いだ。 椅子を半分こちらに寄せ、机に肘をつく。

「さっきの、平気だった?」

声は明るいが、探るような視線をしている。

「佐藤先生の授業、慣れるまで少し大変なんだよね。途中式、油断するとすぐ見抜かれるし」

大げさに肩をすくめてみせるが、その実、きちんと先生の癖を理解しているらしい。自分の失敗談らしきものを短く添えながら、話題を次々と広げていく。距離の詰め方が速い。それでも場を白けさせないのは、彼女なりの配慮が混じっているからだろう。答えを選びかけたところで、教室の前から低い声が落ちてきた。

「遠山。少し来なさい」

振り向くと、佐藤先生が廊下側の扉に立っている。休み時間でも、その表情は崩れない。遠山は一瞬だけ目を細め、それからすぐに笑った。

「はーい」

軽い返事とは裏腹に、足取りは素直だった。去り際、何か言いかけるようにこちらを見たが、結局何も言わずに教室を出ていく。その背中が消えると、不思議と周囲の音が遠のいた。机の上に視線を落とす。


―――例題三まで、予習を怠るな。


言葉がまだ耳に残っている。

ノートを整え、問題に取りかかる。一次関数の応用。条件を読み取り、式に落とし込む。途中式を丁寧に書き連ねる。誰に見せるわけでもないが、曖昧な省略は避けた。あの視線を思い出すと、自然と手が慎重になる。教室のざわめきは続いている。けれど、自分の周囲だけが少しだけ別の時間を刻んでいるようだった。


「……あっ、浅倉くん、消しゴム落ちたよ」

不意に、静かな声が届く。顔を上げると、隣の席の永瀬樹(ながせいつき)がこちらを見ていた。彼の手には、自分の消しゴムがある。一瞬、意味を測りかねる。視線を机の上に戻して、はじめてそれが手元から消えていることに気づいた。どうやら、書き進めるうちに無意識に落としていたらしい。差し出されたそれを受け取る。永瀬は小さく笑みを浮かべた。気負いのない、自然な表情だった。

「集中してたね」

それだけ言って、肩をすくめる。責めるでもなく、からかうでもない、ただ事実をそっと置くような声音こわね。

「気づかなかった。ありがとう」

「うん」

短いやり取りはそれで終わる。けれど、気まずさは残らない。永瀬は佐藤先生のように張りつめた空気をまとってはいない。落ち着いてはいるが、どこか柔らかい。必要以上に踏み込まず、それでも線を引きすぎない距離の取り方をしている。彼は自分のノートへ視線を戻し、何事もなかったようにペンを走らせ始めた。その横顔は穏やかで、先ほどまで遠山が残していった熱とは対照的だった。教室の中央では、まだ誰かが笑っている。遠山のいない場所は、少しだけ静かだ。消しゴムを机の隅に置き直し、書きかけの式に目を戻す。条件を整理し、数字を確かめる。途中式を省かずに重ねていく。隣から聞こえる筆記の音が、一定のリズムを刻んでいる。先ほどまでの騒がしさが嘘のように、自分の周囲だけが落ち着いた時間の中にある。転入してまだ間もない教室で、遠山の勢いと、永瀬の穏やかさ。その両方に挟まれながら、僕は静かに式の続きを綴り進めた。



その後二時間目の国語の授業も問題なく終わり、再び休み時間に入る。椅子の脚が床を擦る音が広がる中、遠山がこちらへ向かってくるのが見えた。きっとまた勢いよく話しかけてくるのだろう。その瞬間、突然教室の後ろの扉が開く。


「琉生!」


 迷いのない声。反射的に振り向く。そこに立っていたのは、新田陽翔(にったはると)――前いた中学校で仲が良かったが、二か月前に転校していなくなった友人だった。

一瞬、現実味が薄れる。二か月前、突然の転校。詳しい事情は聞かなかったが、あまり踏み込まないまま別れた。中学に入ってからは何かと一緒にいることが多かった。陽翔は目立つ存在で、自然と人の輪の中心にいるようなやつだったが、強引さはない。大胆に見えて、案外周囲をよく見ている。困っている人間を放っておけないところもあった。

その陽翔が、今、釉浄中学校の教室の入口に立っている。数秒、言葉が出ない。陽翔は軽く顎を上げ、廊下を示した。僕は頷き、席を立つ。遠山の視線を背中に感じながら、教室を出た。


 扉が閉まると、ざわめきが一段遠のく。陽翔は手すりにもたれ、こちらを見て笑った。

「琉生がこの学校に転校してきたって聞いて来てみたけどマジだったのか...」

驚きと、どこか嬉しさが混じった声。

「どうしてここに」

問いかけると、陽翔は軽く肩をすくめる。

「俺、今ここ。二か月前に転校しただろ」

あっけらかんとした言い方だが、どこか照れが混じっている。あのときは急で、きちんと話す時間もなかった。それでも、今は以前と同じ距離感。二か月空いても、ぎこちなさはほとんどない。学校のことを少し話す。クラスの雰囲気、担任の印象。陽翔はところどころで笑いながらも、真面目に聞いている。

「急だったからさ。ちゃんと別れの挨拶もできなかったし」

不意に、低くなる声。僕は首を振った。それ以上の説明は求めない。陽翔も深くは語らない。ただ、目だけはまっすぐだった。


予鈴が鳴る。


「またあとでな、琉生」

「うん」


短く交わす。教室に戻ると、遠山が明らかに聞きたそうな顔をしている。永瀬は静かにこちらを見て、すぐに教科書へ視線を落とした。席に座りながら、胸の奥に残る小さな高鳴りを自覚する。昨日転校してきたばかりの学校で、二か月前に別れた友人と再会。

六月の光が、窓際の机を白く照らしていた。


六月の午後は、静かに熱を含んでいる。窓から差し込む光が机の縁を白く照らし、昨日転校してきたばかりの教室を、少しだけ柔らかく見せていた。六時間目の終わり、担任の声で机を寄せる。班ごとの話し合い。特別な内容ではないが、こうした時間が日常の輪郭をつくる。永瀬は椅子の脚を床に引きずらないように持ち上げ、静かに位置を整えた。落ち着いているが、気取ったところはない。相手が話しやすい余白を、自然に保てる人間だ。


「このくらいで大丈夫かな」


そう言って机の角を揃えたのは、水沢(みずさわ)莉央(りお)だった。――水沢は同じ班の女子で、明るくよく笑うが、声を張り上げるタイプではない。元気さの奥にどこか冷静さがあり、年相応より少し大人びた空気をまとっている。不思議と周囲を安心させる存在だ。彼女は全体を見渡し、プリントを中央に寄せる。

「先に目標から決めちゃおうか」

軽い調子だが、場を進める力がある。


「……ここ、記入欄が二つあるみたい」


控えめに指摘したのは立花(たちばな)結衣(ゆい)。――立花も同じ班の女子で、物静かだが視野が広い。強く主張はしないものの、必要なときに的確に言葉を添える。穏やかで、どこか芯のある優しさを持っている。彼女はプリントの端を揃えながら、視線だけで確認を促す。話し合いは淡々と進んだ。派手な意見は出ないが、どれも現実的だ。水沢が柔らかく方向を示し、立花が細部を整え、永瀬が過不足を補う。

「無理のない範囲で、って書いておけば続けやすいかも」

永瀬の一言は短いが、押しつけがましくない。水沢が小さく笑う。

「それ、大事だよね。六月って、なんかバランス崩しやすいし」

窓の外では運動部の掛け声が遠く響いている。季節は進んでいるのに、気持ちはどこか宙ぶらりんだ。立花がペンを走らせながら言う。

「焦らなくても、少しずつ慣れていけばいいと思う」

その声は小さいが、確かな重みがあった。昨日までいなかった自分が、こうして自然に席を囲んでいる。その事実が、ふと現実味を帯びる。水沢がこちらを見た。

「今日は、いろいろあったよね」

具体的な言葉は使わない。ただ、含みを残す。まあ、と曖昧に答えると、永瀬が穏やかに視線を上げる。

「環境が変わると、思ってるより疲れるからね」

事実を置くような言い方だった。机を元に戻す音が重なる。教室のあちこちで同じ動きが繰り返され、日常が再び整っていく。水沢が鞄を肩に掛ける。

「琉生、帰り、駅まで一緒に行く?」

さりげない提案。特別な約束ではない。ただの帰り道の共有。それでも、こうした小さな重なりが、教室という場所を形づくっていくのだと思う。六月の光はまだ強すぎない。四人で並んで廊下へ出ると、昨日よりもわずかに足取りが軽く感じられた。



20XX/06/09 (Mon)


〜浅倉琉生〜



転校してきて、一週間が過ぎた。七日間という時間は、思いのほか素直だ。急に親密になるわけでも、劇的に何かが変わるわけでもない。ただ、朝の空気に混じる匂いや、階段の段差の癖、教室のざわめきの高さが、身体に馴染みはじめる。それだけで、世界は少しだけ角を失う。月曜の朝、窓から差す光は白く、机の木目を淡く浮かび上がらせていた。鞄を下ろすと、隣の永瀬が顔を上げる。

「おはよう」

抑えた声色。過度に明るくもなく、冷たくもない。ちょうどいい温度で、言葉を差し出してくる。

挨拶を返すと、彼はわずかに口元を緩めた。会話はそれ以上広がらない。それでも気まずさはない。沈黙が空白にならず、ただの時間として流れる。その感覚に、ようやく慣れてきた。一時間目が終わると、教室の空気は緩む。楓理が後ろの席から身を乗り出した。

「ねえ聞いて、昨日さ——」

言葉は勢いよく放たれ、息継ぎの間も惜しい。まあ、相変わらず思いついたことをそのまま形にしてしまうだけだ。彼女の話題は、駅前の新しいカフェから、担任の口癖、週末の予定へと軽やかに跳ねる。教室の何人かが笑い、誰かが相槌を打つ。楓理は満足そうに頷き、また次の話題へ進む。

「琉生も今度行こ。あそこ絶対好きだと思う」

唐突だが、排他的ではない。彼女の世界には、境界線があまりないのだろう。

「機会があれば」

そう返すと、絶対ね、と強く念を押される。約束というより宣言に近い。


昼休み、班の四人で机を寄せる。弁当の匂いが混じり合い、窓の外では初夏の風がカーテンを揺らす。水沢が蓋を開けながら言う。

「一週間って、早いようで長いよね」

声音は軽いが、どこか遠くを見る目をしている。彼女はよく笑うが、その笑みの奥に静かな観察者の気配がある。場を和ませながら、きちんと全体を見ている。

「琉生、最初より顔が柔らかくなった」

さらりと言う。立花も小さく頷く。

「うん。少し」

声は細いが、曖昧ではない。彼女は言葉を慎重に選ぶ。過不足なく、必要なだけを置いていく。

「そうか」

自覚はない。だが、否定する理由もない。永瀬はペットボトルのキャップを閉めながら、静かに言った。

「慣れないと、周りを見る余裕がないからな...」

断言ではない。経験を差し出すような調子だ。水沢が笑う。

「樹、なんか先生みたい」

「別に」

彼は肩をすくめる。照れも誇張もない。


午後は体育だった。グラウンドの土は乾き、白線がくっきりと伸びている。二クラス合同の体育では、新田が中心になってチームをまとめていた。

「よし、ポジション適当に回そうぜ」

声は大きいが、乱暴ではない。誰かが戸惑えば自然にフォローが入る。大胆で、前に出ることを恐れないが、独りよがりにはならない。試合の合間、彼は水を飲みながらこちらに笑いかけた。

「もう体力戻った?」

「まだ」

「だよな。無理すんなよ」

軽い調子で、しかし本気で言う。彼の明るさは、押しつけにならないぎりぎりを知っている。


授業が終わり、教室に戻ると、汗の匂いと日差しが混ざり合う。窓際の席に腰を下ろすと、六月の光がまぶしい。

放課後、廊下で楓理が再び声を上げる。

「今度の文化祭さ、絶対派手にやりたいんだけど!」

まだ何も決まっていないのに、すでに構想は膨らんでいるらしい。周囲が呆れ半分で笑うと、彼女は少し頬を膨らませる。

「だってさ、せっかくなんだから思いきりやらないと損じゃない?」

勢いに押されながらも、どこか納得させられてしまう。彼女の言葉には、過剰な装飾がない。ただ熱量がある。その横で、永瀬が静かに補足する。

「現実的な範囲でね」

「わかってるって!」

即座に返す楓理。けれど本気で怒ってはいない。帰り道、五人で歩く。夕方の光はやわらかく、影を長く伸ばす。アスファルトに落ちた木漏れ日が、まるで薄いレースのようだ。水沢がふと足を止める。

「なんか、この時間好きなんだよね」

空を見上げる。青は少しずつ群青へと変わり始めている。立花が小さく微笑む。

「静かだから?」

「うん。あと、終わった感じがするから」

今日がきちんと終わる。その安心。楓理がぼそっと呟いた。

「...でも明日もあるけどね」

笑いが起こる。

「それは言わないお約束でしょ?」

永瀬は歩幅を合わせながら、さりげなく車道側に位置を変える。琉生はその中に、中心でも端でもなくただ自然に並んでいる。一週間前、この景色は借り物のようだった。今はまだ完全ではないが、自分の影がちゃんと地面に落ちている。楓理が急に振り返る。

「ねえ、今度みんなで写真撮ろうよ!」

理由は特にないらしい。ただ思いついただけだ。水沢が笑う。

「いいね。記念になるし」

立花も頷く。

それだけで十分だった。何気ない団欒の中、夕暮れは静かに沈み続けていた。



20XX/06/15 (Sun)


〜水沢莉央〜



休日の午前、空は淡く澄んでいた。駅前から出ている無料シャトルバスに揺られながら、窓の外を眺めていた。等間隔に並ぶ街路樹、ガラスに反射する陽光、どこか所在なげに歩く人影。平日の学校とは違う、ゆるやかな時間の流れがある。隣には立花結衣が座っている。膝の上に小さなトートバッグを置き、両手を揃えている姿は相変わらず整っている。休日だからといって大きく装うわけでもなく、けれど細部にささやかな気遣いがある。薄いベージュのカーディガンが、彼女の柔らかさをそのまま形にしたようだった。

「混んでるかな」

結衣が小さく言う。

「昼前だし、たぶん大丈夫」

そう答えながら、私は自分の声が少しだけ弾んでいるのを感じていた。理由は特別なことではない。ただ、こうして学校の外で誰かと会う時間が、思いのほか好きなのだ。ショッピングモールは、白い外壁が光を跳ね返し、広いガラス扉の向こうにひんやりとした空気を抱えている。中へ入ると、柔らかな香りと控えめな音楽が迎えてくれた。天井は高く、吹き抜けの空間が視界を縦に伸ばしている。休日の人波は穏やかだ。家族連れ、手をつないだ恋人同士、友人同士の笑い声。誰もが急いではいない。莉央はふと、昨日の放課後を思い出す。駅までの帰り道、長く伸びる影。琉生は、まだ完全に溶け込んだわけではない。それでも、あの並びの中で違和感なく歩いていた。少しずつ、輪郭が柔らかくなっている。

「まず、どこ見る?」

「新しいショップ、できたって聞いた」

そう言って、二階のアパレルフロアへ向かう。エスカレーターの手すりに触れると、冷たい感触が指先を引き締める。新しい店は、ガラス越しに淡い色合いの服が並んでいた。白や薄青、くすんだピンク。どれも主張しすぎず、それでいて目を引く。流行を追いすぎない、少しだけ背伸びしたデザイン。結衣が一枚のブラウスを手に取る。

「これ、きれい」

小さな声。だが、その目は確かだ。

「似合いそう」

そう言うと、彼女は少しだけ困ったように笑う。

「派手じゃないかな」

「全然。むしろ、ちょうどいい」

鏡の前に立つ結衣は、学校で見るより少しだけ大人びて見えた。光の当たり方のせいかもしれない。あるいは、休日という余白が彼女の雰囲気を際立たせているのか。莉央は自分でも一着手に取る。淡いグレーのワンピース。布地は軽く、風を含みそうだ。鏡越しに目が合う。

「莉央は、そういうの似合うと思う」

結衣が言う。

「背伸びしすぎかな」

「ううん。自然」

短い会話。だが、十分だった。試着室のカーテンを閉めると、外の音が遠のく。ひとりきりの小さな空間。布の擦れる音だけが響く。鏡の中の自分は、少し違って見える。学校での自分、友人といる自分、そして今、ひとりで立っている自分。どれも本物だが、微妙に表情が異なる。カーテンを開けると、結衣が待っていた。

「いいと思う」

素直な感想。過剰な賛辞はない。買うかどうかはまだ決めない。ただ、こうして迷う時間も悪くない。


店を出ると、吹き抜けから下階が見える。中央のイベントスペースでは、子ども向けのワークショップが開かれているらしい。カラフルな風船が揺れている。

「お腹すいたね」

結衣が言う。

「うん」

フードコートへ向かう。窓際の席が空いていた。トレーを置き、向かい合う。人のざわめきはあるが、不思議と落ち着く。天井の照明が柔らかく、テーブルの上に淡い影を落とす。結衣がストローを回しながら、ぽつりと口にする。

「琉生くん、少し変わったよね」

やはり同じことを思っていたらしい。

「うん。最初より、目が上がってる」

「目?」

「周りを見る余裕、みたいな」

言葉にしてみると、自分でも少し照れくさい。

結衣は小さく笑う。

「莉央、よく見てる」

「結衣もでしょ」

否定はしない。ただ、視線を落とすだけだ。永瀬の静かな気遣いも、楓理の勢いも、それぞれが違う方向から琉生を包んでいる。自分はそのどこに立っているのか、はっきりとはわからない。けれど、そっと隣にいられたらいいと思う。食事を終え、雑貨店をのぞく。小さなガラスのアクセサリーが光を反射している。結衣が青いイヤリングを手に取る。

「きれい」

「海みたい」

初夏の色だ。店を出るころには、外の光が少し傾き始めていた。ガラス越しの空が、淡いオレンジを帯びている。学校の外で過ごす時間は、日常を別の角度から照らしてくれる。友人たちの姿も、少し違って見える。

「今日はありがとう」

結衣が言う。

「こちらこそ」

短い言葉。それで十分だ。


バスが到着し、扉が開く。乗り込むと、窓の外にモールの白い壁が遠ざかっていく。来週、また教室で会う。いつもの席、いつもの光。その中でも、何かしらは少しずつ変化し続ける。...自分は今の自分のままでいられるだろうか。何も変わらない、今の自分のままで。莉央は窓に映る自分を見つめ、静かに目を細めた。日常は続く。だが、その中で変わっていくものがある。それを見逃さないでいたいと、思った。


見逃したく、なかった。



20XX/06/25 (Wed)


〜浅倉琉生〜



放課後の校舎は、昼間とは別の静けさをまとっている。授業の終わりを告げるチャイムが遠ざかり、委員会へ向かう足音が階段を駆け下りていくと、廊下には長い余白が残る。窓の外では、六月の光がやわらかく傾きはじめていた。多目的室の扉を開けると、数人の生徒がすでに集まっている。その中に、水沢の姿があった。


―――転校して三日目の午後、まだ教室の空気の温度も測りきれないまま、黒板に「委員会」と大きく書かれた。立候補の声が上がり、推薦の笑いが起こり、どこか既視感のある流れの中で役割が決まっていく。立花結衣は生活委員を選び、遠山楓理は勢いよく文化委員へと手を挙げた。永瀬樹は控えめに整美委員に落ち着き、周囲の納得を自然に引き受けていた。


琉生は、しばらく様子を見ていた。前に出るほどの確信はなく、何もしないまま残ることにも違和感がある。そんな曖昧な心持ちのまま手を挙げたのが、福祉委員会だった。理由は明確ではない。ただ、静かな場所がいいと思っただけだ。


名簿が配られたとき、そこに水沢莉央の名前を見つけた。彼女がどんな表情でその欄を選んだのかはわからない。ただ、同じ行に並んだ文字が、どこか安心を伴って目に入った―――


「同じだったね」

振り返り、穏やかに笑う。声は小さいが、確かに届く。

「うん、よろしく。」

それだけの返答でも、間は空白にならなかった。

顧問の教師が活動内容を説明する。校内の掲示物の管理、ボランティア活動の補助、募金の準備、地域施設への手紙作成。どれも目立つものではない。だが、誰かの手を経由して、どこかへとつながる役目だ。


机を寄せ、簡単な役割分担が始まる。水沢は自然にホワイトボードの前に立ち、予定を書き出した。大きくも小さくもない文字。整いすぎず、乱れもしない。

「来月の清掃ボランティア、担当決めちゃおうか」

促すようでいて、押しつけない。琉生は配布資料の整理を引き受ける。紙を順に揃え、枚数を数え、机の上に重ねる。単調な作業だが、心は不思議と落ち着いていた。水沢がふと横目で見る。

「こういうの、嫌じゃないでしょ」

「まあ」

曖昧な返事に、彼女は小さく頷く。

「目立たないけど、大事なんだよね」

その言葉には軽さがない。普段は明るい彼女が、少しだけ深い声音で言うと、それだけで空気が変わる。


会議は穏やかに進み、特別な波風も立たずに終わった。窓の外はすでに夕暮れへと傾き、校庭の端が薄い橙色に染まっている。片付けをしながら、水沢が静かに言った。

「委員会決めのとき、ちょっと迷ったんだ」

椅子を机に入れる音が重なる。

「でも、ここかなって思って」

「どうして?」

問いかけると、彼女は少しだけ視線を遠くに置いた。

「派手じゃないから」

短い言葉のあと、続ける。

「目立たない場所のほうが、ちゃんと見えることもあるでしょ」


廊下に出ると、部活動の掛け声が遠くに響いている。昼間の喧騒はなく、声は薄い壁を通して柔らかく届く。階段を並んで下りる。足音は重ならず、それでも歩幅は自然と揃う。

「琉生、合ってると思うよ」

唐突に言われ、足を止めそうになる。

「何が...?」

「委員会ここ」

それ以上の説明はない。だが、必要もなかった。


昇降口を出ると、夕風が頬を撫でる。校門の向こうで、新田が誰かと笑い合っている。楓理の声が弾む。にぎやかな輪郭が、遠景のように広がっている。その光景を横目に、水沢は少しだけ目を細めた。

「静かなほうが、続く気がするんだ」

独り言のような呟き。琉生は答えない。ただ、その隣に立つ。福祉委員会の活動は、これから何度も繰り返されるだろう。掲示を貼り替え、手紙を書き、募金箱を抱えて立つ。派手さはない。だが、確かな重みがある。夕陽が校舎の窓を一枚ずつ照らし、やがて群青に溶けていく。静かな役割の中で、ふたりの歩幅は、少しずつ揃いはじめていた。



20XX/07/04 (Fri)


〜遠山楓理〜



朝の教室って、どうしてあんなに退屈なんだろう。窓から入る光はきれいだし、みんなそれぞれ真面目な顔してるし、悪くはない。悪くはないけど、ちょっと地味。だから私は、少しくらい色を足してあげないといけないと思うの!鞄を机に置いて、軽く髪を整える。今日の前髪、完璧。鏡がなくてもわかる。だって昨日の夜、ちゃんと確認したもの。こういう準備を怠らないところが大事なんだから。

「ねえ聞いて!」

まだチャイムも鳴ってないのに、私は後ろの席の子に声をかける。昨日見つけたカフェの話。内装がすごくおしゃれで、スイーツが芸術的で、店員さんも感じよくて——あ、ちょっと盛ったかも。でもいいの。話は楽しいほうがいいに決まってる!

みんなが笑ってくれると、やっぱり安心する。教室の空気がぱっと明るくなる感じ。こういうの、誰にでもできるわけじゃないんだから。


ふと横を見る。樹くんは、いつもの席で静かに本を閉じていた。騒がしい教室の中でも、あの人はちゃんと自分のペースを崩さない。余裕っていうのかな。そういうの、ちょっとずるい。


目が合った。


にこっと笑ってくれる。気のせいかも知れないけどきっとそう!


……ほら。


やっぱり。


授業が始まっても、私はたまに樹くんの横顔を盗み見る。ノートをとる手つきも落ち着いてるし、先生に当てられても慌てない。すごいわけじゃないけど、ちゃんとしてる。ああいうの、安心感って言うのかも。

でも安心するだけじゃ足りないよね?


昼休み、廊下でばったり会った。

「遠山さん、さっきの話、面白かった」

さらっと言う。え、なにそれ。そんな自然に褒めるの反則なんだけど!?

「でしょ!? 私、話すの上手いから!」

ちょっと大きめに返す。わざと。だって控えめにする理由ないし。彼は軽く笑うだけ。否定もしない。余計なことも言わない。


……余裕。


放課後、文化委員の集まりがあった。私は当然、中心で話す。文化祭の企画、もっと派手にできるはずだし、絶対そのほうが楽しい!

「せっかくなんだから、目立たなきゃ意味ないでしょ!」

みんなが少し驚くけど、最終的には頷く。そう。そうなの。私の言うこと、だいたい正しいの。でも本当は、ちょっとだけ焦ってる。最近、樹くんは福祉委員会の子たちと話してる時間が増えた。莉央ちゃんとか、結衣ちゃんとか。あの二人、静かでやわらかい感じ。悪くない。むしろ、いい子たちだと思う。


でも。


でも、だよ?


私が一番目立つでしょ?


私はちゃんと明るいし、話してて楽しいし、話題も豊富だし。並んだら、どう見ても私のほうが華やかじゃない?


帰り道、偶然を装って同じタイミングで昇降口に出る。

「樹くん、今帰り?」

「うん」

短い会話。だけど、隣に並ぶ。歩幅を少しだけ合わせる。彼は気づいてるのかいないのか、特に何も言わない。でも嫌そうじゃない。むしろ自然。夕陽がきれい。私の髪、たぶん光ってる。今なら最高のタイミングかも、って思う。でも今日はやめた。告白って、やっぱりちゃんと準備してあげないと失礼だし? いきなりすぎるのも、向こうがびっくりしちゃうし?キュン死ってやつ?

だから、もう少しだけ様子を見る。

教室で、彼が誰かと話しているのを横目で見るたび、胸の奥がちょっとざわつく。あれ、私こんなに落ち着きなかったっけ?


いや、違う。


私は余裕があるの。


だって、最終的に選ばれるのは私だし!


それはもう、ほぼ決まってるみたいなものだし!!


放課後の廊下で、ガラスに映る自分を見る。悪くない。むしろかなり可愛い。背筋も伸びてるし、表情も完璧。そろそろ、だよね。ちゃんとタイミングを見計らって、私が言ってあげよう。きっと、驚く。ちょっと赤くなるかも。そして、困ったみたいに笑って、「嬉しい」って言うんだと思う。


うん、想像できる。


だって、相手は私だもの。


明日もまた、教室は少し退屈で、少し騒がしい。その中で私はちゃんと輝いてる。


そして、あの人はきっと、気づいてる。私の魅力に。


まだ言ってないだけ。余裕そうな樹くんでも、私に告白する勇気がまだ出ないんだ!


だから大丈夫。


私は鞄を肩にかけ、軽く髪を払う。


——もう少ししたら、私から言ってあげるんだから!



20XX/07/15 (Tue)


〜浅倉琉生〜



午後の授業は、午前と少しだけ時間の進み方が違う。昼休みの余韻がまだ机の上に残っていて、窓から差し込む光は柔らかく、どこか眠気を誘う。黒板に走るチョークの音が、静かな波のように教室を横切る。数学の時間だった。佐藤先生が数式を書き連ねるたび、白い粉が淡く舞う。六月の空気は湿り気を帯びていて、カーテンがわずかに揺れている。風は強くない。ただ、存在を主張しない程度に通り抜けていく。

隣の永瀬は、姿勢を崩さずノートを取っている。無駄のない筆跡。先生の説明に合わせて、必要なところだけを的確に拾う。ときどき視線を上げ、理解を確認するように小さく頷く。その動きは自然で、過度な自己主張がない。こちらが問題に手間取っていると、彼はさりげなくノートを少しだけ寄せる。

「ここ、こうじゃない?」

指先で示すのは、ほんの一行。

「……ああ」

それだけで、式はすっと解ける。過剰な説明はない。できることをできる形で置いていく。それが彼のやり方だ。


前の席では、水沢がシャーペンを走らせている。集中しているときの彼女は、普段よりも静かだ。けれど、表情は硬くならない。問題を解き終えると、小さく息を吐き、視線を窓の外へ逃がす。思考を一度ほどくような仕草。

...と、佐藤先生に指名され、そそくさと黒板に向かう。

「えっと……」

一瞬の間のあと、滑らかに答えを書き出す。迷いは少ない。説明も簡潔だ。教室の何人かが頷く。席に戻るとき、こちらに気づき、目だけで軽く合図を送る。成功を誇示するでもなく、ただ共有するように。


教室の後方では、遠山楓理が小さく身を乗り出している。佐藤先生の問いに対して、半ば勢いで手を挙げる。

「はい!」

声は明るく、やや大きい。答えが正解でも不正解でも、あまり気にしていない様子だ。大切なのは、場に参加しているという実感なのかもしれない。発言のあと、周囲をちらりと見渡す。その視線は、どこか自信に満ちている。


立花結衣は、水沢の隣で静かにメモをとっている。彼女のノートは整っている。字は細く、余白が美しい。佐藤先生の言葉をそのまま写すのではなく、自分なりに整理しているのがわかる。


授業の後半、グループで問題を解く時間が設けられた。机を寄せる音が重なる。班の四人が向かい合う。

「ここ、ちょっと難しいね」

水沢がプリントを見つめる。

「場合分けかな」

永瀬が言う。立花が小さく頷く。

「たぶん、二通り」

紙の上で、数字が静かに並び替えられていく。意見がぶつかることはない。だが、ただ同調するわけでもない。それぞれが考えを置き、必要なら修正する。遠くで楓理の声が聞こえる。

「えー、それ絶対違うって!」

教室の空気がわずかに揺れる。班の中では、静かな集中が続いていた。


チャイムが鳴る。授業の終わりを告げる乾いた音。机を元に戻す。椅子が床を擦る音が重なり、教室は再びざわめきを取り戻す。窓の外、空は少しだけ色を変えていた。青に、わずかな白が混ざる。午後は確実に進んでいる。何かが劇的に変わるわけではない。けれど、こうして同じ時間を共有することが、少しずつ輪郭を整えていく。浅倉琉生は、ノートを閉じる。ページの端に残った鉛筆の跡が、今日という一日の証のように思えた。教室のざわめきの中で、自分の居場所はまだ完全ではない。だが、確かにここにある。午後の光が、机の上を静かに滑っていった。



20XX/07/24 (Thu)


〜永瀬樹〜



休み時間になると、教室は決まって少しだけ呼吸を荒くする。チャイムの余韻が消えるより早く、椅子の音や笑い声が重なり合い、整っていた空気がやわらかく崩れていく。その変化を、僕はいつも机の上から眺めている。鞄から文庫本を取り出し、静かに開く。紙の匂いはほとんど消えていて、代わりに指先の温度が移る。活字は均等に並び、余白がきちんと確保されている。過不足のない文章は、それだけで安心感を与える。物語は、ある人物が小さな選択を重ねていく過程を描いている。派手な事件は起きない。ただ、思考の軌跡が丁寧に追われている。そういう本が好きだ。

数ページ読み進めたところで、机の横に人の気配が止まった。

「樹くん、やっぱり読んでる」

顔を上げると、遠山楓理が立っている。明るい声色。迷いのない距離。

「うん」

短く答えて、本に指を挟む。

「難しくない?」

「そうでもないよ」

彼女は身を屈めて表紙を覗き込む。好奇心がそのまま形になったような仕草だ。

「どんな話?」

「人が何を選ぶか、っていう話」

「またそういうの」

小さく笑う。


―――僕は遠山楓理が嫌いだ。


けれど、そのことについて考え込むつもりはないし、態度に出すつもりもない。


「さっきの数学どうだった?」

彼女は机に手をつき、自然な流れで話題を変える。

「普通かな」

「普通って便利だよね」

「そうかもしれない」

声の調子は変えない。穏やかに、必要な分だけ返す。後方では新田陽翔が誰かと笑っている。軽やかな笑い方だが、決してうるさくはない。水沢莉央は窓際で友人と並び、何かを静かに話している。立花結衣はノートを見返しながら、時折こちらを気にしているような視線を送る。浅倉琉生と目が合う。彼はわずかに頷く。その簡潔さが心地いい。僕も小さく返す。

「ねえ、放課後ちょっと時間ある?」

遠山が言う。

「特に予定はないよ」

「じゃあ、少しだけ付き合って」

「どこに?」

「内緒」

楽しげな表情。自分の提案が受け入れられる前提の声音。僕は小さく笑う。

「悪いことじゃなければ」

「もちろん!」

即答だった。彼女の明るさは、教室の光とよく似ている。遠慮がなく、躊躇もない。その輪郭が、時々眩しすぎるだけだ。

本を閉じ、栞を挟む。ページの間に指先の温度が残る。

「じゃあ約束ね」

「うん」

それだけで十分だ。


チャイムが鳴り、教室は再び整い始める。遠山は自分の席へ戻り、振り返って軽く手を振る。僕は目で応じる。人と穏やかに接することは、特別な努力を要しない。ただ、自分の内側と外側を分けておくだけでいい。本を机に置き、次の授業の準備をする。


そして、休み時間は終わった。


表面は静かに、何事もなく。



20XX/07/24 (Thu)


〜遠山楓理〜



放課後の空気は、少し甘い。チャイムが鳴った瞬間、教室のざわめきがほどけて、みんな一斉にそれぞれの世界へ向かっていく。部活の人、帰る人、寄り道する人。その中で私は、わざとゆっくり立ち上がった。


今日はちゃんと意味があるから。


私は先に歩き出す。廊下の窓から入る夕日が、床に長い影を作ってる。階段を降りて、昇降口を抜けて、校舎の裏手へ。向かったのは、体育館の横。放課後は部活の声が響いてるけど、建物の影になっているこの場所は、意外と静か。人もあまり通らない。

「ここでいいや!」

私は立ち止まる。

「どうしたの?」

相変わらず落ち着いた声。私は鞄からスマホを取り出す。

「ちょっと見て!」

画面には、他校との合同イベントの案内ページ。地域交流企画で、代表生徒が数人参加できるっていうやつ。

「これ、応募しようと思ってるの!」

「...へぇ...」

反応が薄い。

「へえ、じゃなくて!」

私は一歩近づく。

「これ、ペア参加なんだよ!」

風が吹いて、髪が揺れる。


「樹くん、一緒に出ない!?」


言った。


教室じゃ言えない。あんなところで言ったら、結衣ちゃん莉央ちゃんどっちも何か察した顔するし。だから、ここまで連れてきた。樹くんはスマホを覗き込む。画面をスクロールして、内容をちゃんと読んでる。

「テーマは地域活性化か」

「そう! 絶対私たち向いてると思わない?」

「“私たち”なんだ」

「当たり前でしょ!」

私は胸を張る。

「こういうの、ちゃんと考えられる人とじゃないと意味ないもん!」


それに——

並んだときに、絵になる相手じゃないと困るし。

私には樹くんしか似合わないし、樹くんには私しか似合わない!

心の中でだけ思う。


「締め切り、来週か」

彼は静かに言う。

「うん。だから今日話したの!」

放課後にわざわざ移動したのは、ちゃんと向き合ってほしかったから。

軽いノリで決めてほしくない。

“ついで”みたいに扱われるのは嫌。

「どう?」

私はじっと見る。


少しの沈黙。


「いいよ」

その一言で、胸の奥がぱっと明るくなる。

「ほんとに!?」

「ちゃんと準備するならね」

「するに決まってるでしょ!」

私は思わず笑う。

ほら、やっぱり。

私が選べば、ちゃんといい形になる。

「テーマ、何にする?」

「まだ白紙。でもさ」

私は空を見上げる。夕焼けが濃い。

「どうせやるなら、一番目立つ案にしたいよね!」

「...堅実なほうが通りやすいけど」

「えー!」

私はわざと大げさに肩を落とす。

「夢がない!」

でも、その現実的な視点も嫌いじゃない。


 派手に行くのは私の役目。

 整えるのは彼の役目。


バランス、いいと思う。


「じゃあ、明日から考えよ!」

「そうだね」

あっさりしてる。でも断らなかった。それで十分。

体育館の中から、ボールの跳ねる音が聞こえる。吹奏楽の音も混ざって、放課後の学校はまだ生きてる。

「ありがと!」

私は笑う。

「絶対、私たちが一番目立つから!」

私はくるっと背を向ける。

「帰ろ!」

並んで歩き出す。少し距離はあるけど、同じ方向。

教室じゃだめだった。あの場所は、日常すぎる。でもここは、ちょっとだけ特別。


だから意味がある。


告白は、まだしない。


まずは一緒に何かをやること。

ちゃんと並んで、同じ場所を目指すこと。

...そうドラマで言ってた!


その先にあるものは——


きっと、私が一番似合う結末なんだから!



20XX/09/03 (Mon)


〜立花結衣〜



夏休みを明けて、昼休みの廊下は、光に満ちていた。中庭に面した窓から春の風が吹き込み、カーテンをふわりと持ち上げる。教室からは賑やかな笑い声。購買へ向かう足音が駆け抜けていく。その流れの端で、私は両腕いっぱいにポスターを抱えていた。生活委員の仕事。掲示物の貼り替えは地味だけれど、学校の空気を整える大切な役目だと思っている。


廊下の中央まで来たときだった。

突然、強い風が吹き込む。ばさり、と乾いた音がして、抱えていたポスターの上部が大きくめくれ上がった。次の瞬間、束が崩れ、色とりどりの紙が一斉に舞い上がる。


「……あ」


手を伸ばしたけれど、間に合わない。ポスターは廊下いっぱいに散らばり、何枚かは風に押されて窓際まで滑っていく。足元に広がる紙の海に、胸がひやりと冷えた。急いでしゃがみ込み、拾い始める。そのとき、軽快な足音が近づいてきた。


「おい、なんだなんだ?」


明るい声。顔を上げると、見覚えのない男子生徒がこちらへ駆け寄ってくる。迷いなく窓際へ走り、逃げそうになった一枚をぱっと押さえた。

「風、今日やばいな!」

そう言いながら、次々と拾い集めていく。動きに躊躇がない。むしろ少し楽しんでいるようにも見える。

「す、すみません……」

私は慌てて頭を下げる。

「なんで謝んの? 風のせいでしょ」

彼は笑った。屈託のない、まっすぐな笑顔。

「ほら、そっち頼む。俺こっち集めるから」

指示は自然で、頼もしい。気づけば私は、言われた通りに反対側のポスターを拾っていた。彼の動きは早く、しかも雑ではない。重ねるときにはきちんと角を揃えている。


最後の一枚を手に、彼が立ち上がる。

「オッケー、コンプリート」

少し得意げな声。

「ありがとうございます……本当に」

「いや、こんくらい全然」

軽く肩をすくめる仕草が、どこか大人びている。

「...生活委員?」

ポスターの束を見て、彼が尋ねる。

「はい。掲示の貼り替えで」

「一人で? 大変じゃん」

そう言いながら、彼はひょいと私の手元から半分を持ち上げた。

「手伝うよ。どこに貼んの?」

「え……」

突然の申し出に戸惑う。

「時間あるし。どうせ教室戻っても俺騒いでるだけだしさ」

明るく笑う。その言葉に、気負いはない。

「あの……お名前、伺ってもいいですか」

「俺? 新田。新田陽翔」

即答だった。

「立花結衣です」

「結衣ね。よろしく」

初対面なのに、心の距離が近い。それでも不思議と嫌ではない。押しつけがましさがなく、ただまっすぐだ。

「三か月前に転校してきたんだよね」

自分から言う。

「そうなんですか」

「うん。前の学校とはだいぶ雰囲気違うけど、ここも悪くない」

そう言って、にっと笑う。 その横顔を見ながら、私は思い出す。

「浅倉くんと、同じ学校だったって……」

「あ、琉生?」

名前を聞いた瞬間、彼の表情が柔らいだ。

「そうそう。一か月前にこっち来たよな」

「知り合いなんですか」

「前の学校で同じクラス。あいつ、人見知りするけど、慣れたら面白いよ」

どこか誇らしげに言う。

「俺が先に転校してさ。あとから琉生も来た。知ってるかもしれんけどな」

その口調には、仲間を気遣う色が滲んでいる。

「結衣って琉生と同じクラス?」

「はい」

「じゃあ、よろしく頼むわ。あいつ、放っとくとずっと静かにしてるから」

三階の掲示板へ向かう階段を、並んで上る。新田くんはポスターを軽々と抱え、軽い足取りで段を上がる。途中で下級生に声をかけられれば、笑いながら手を振り返す。その自然な明るさに、廊下の空気が少し柔らぐ。


「ここ?」

「はい」

掲示板の前で、古いポスターを外す。

「これ、曲がってるよ」

彼はそう言って、貼り直しかけた私の手元をそっと支えた。

「ここ、少し上」

指先は迷いなく、けれど乱暴ではない。画鋲を押し込むときも、危ないから貸してと言って、自分がやる。大胆で、でもさりげなく気遣う。


特別棟の前でも同じように作業を進める。

「こういうの、意外と楽しいな」

新田くんは笑う。

「なんか...普段やらないことって新鮮じゃん?」

私は小さく頷く。一人なら、きっと黙々と終わらせていただけの仕事。けれど今は、廊下の光や、風の匂いまで違って感じられる。


最後の一枚を貼り終えたとき、予鈴が鳴った。

「ミッション完了!」

彼は両手を軽く打ち合わせる。

「本当に助かりました」

「いいって。困ってる人は助ける主義」

さらりと言う。

冗談のようでいて、本気にも聞こえる。胸の奥が少しだけ温かくなった。


風はもう穏やかだ。

けれど、先ほどとは違う。

廊下に残るのは、紙のざわめきではなく、明るい笑い声の余韻。


最初はびっくりした。正直関わってはいけない人に話しかけられた気がした。

――でも、その時気がしただけだった。


大胆で、にぎやかで、それでいてちゃんと優しい人。


昼休みの短い時間が、思いがけず色づいたように感じられた。



20XX/09/15 (Sat)


〜浅倉琉生〜



朝早くから、学校全体が活気に満ちている――今日は、文化祭当日だ。色紙で作った装飾が廊下の天井を横切り、教室ごとに違う匂いが混ざり合う。甘い匂い、焦げた匂い、インクとテープの匂い。日常の輪郭が、ほんの少しだけ曖昧になる。

僕たちのクラスは「没入型ミステリールーム」をやる。

教室を丸ごとひとつ使って、物語仕立ての謎解きを体験してもらう形式だ。来場者は“失われた美術品を探す調査員”という設定で、机の中や黒板、壁の額縁に隠された暗号を解いていく。


入口には水沢莉央が立っていた。落ち着いた声でルール説明をしている。人前に立つのが上手い。言葉を選ぶ間合いも自然だ。教室の奥では永瀬樹が小道具の最終確認をしている。鍵付きの箱、暗号表、ブラックライト。几帳面に配置を整え、動線に無駄がないか目で追っている。遠山楓理は装飾の仕上げに余念がない。壁に貼った“古い新聞記事”の位置を数センチ単位で直し、「世界観は大事だから」と小さく呟いていた。少し大げさなくらいの演出が、彼女には似合う。立花結衣は受付横でパンフレットを揃えている。静かな所作。紙の角を丁寧に揃える手つきが、彼女らしい。僕は教室中央のヒント係だ。詰まっているグループに、さりげなく次の視点を示す役目。


開始のチャイムと同時に、廊下のざわめきが一段上がる。最初のグループが入ってきて、照明を少し落とすと、教室の空気が変わる。 



――数週間前、文化祭の内容を決める時間があった。

飲食店案も出ていた。焼き菓子、模擬カフェ、屋台風の軽食。盛り上がりはあったが、準備や衛生管理の話になると空気が少し沈んだ。そのとき、立花が「展示型なら準備を分担できます」と静かに言った。水沢が「物語仕立てなら来場者も楽しめるかも」と続ける。

僕は、現実的な線を口にした。期間と人手を考えれば、教室完結型がいい。永瀬はすぐに具体案を出した。動線、時間制限、必要な備品。遠山は「どうせなら雰囲気を徹底したい」と言い、世界観の方向性を示した。

議論は自然にまとまり、今の形になった。


あの時間、僕はまだ教室の中心にはいなかった。けれど、外側でもなかった――



物語は、美術室から消えた絵画を巡るものだ。黒板に残されたチョークの暗号、机の裏に貼られた座標、額縁の裏の紫外線メッセージ。謎解きのグループが黒板の暗号で詰まっている。視線を受け止め、ヒントをひとつ落とす。

「チョークの色、順番に意味がある」

それだけで、彼らは気づく。教室の外では、遠山が次のグループを案内している。少し芝居がかった口調で物語の導入を語る。演出は彼女の担当だ。


午前の当番が終わり、フリー時間になる。

廊下に出ると、別の世界が広がっていた。呼び込みの声、笑い声、揚げ物の匂い。別クラスの一角に、ひときわ人だかりができている。そこが新田陽翔のクラスだ。模擬店はホットサンド屋。鉄板で焼く音がリズムみたいに響く。具材は三種類。定番のハムチーズ、甘いチョコバナナ、期間限定の照り焼きチキン。エプロン姿の新田が、客をさばいている。明るい声で呼び込み、列を整理し、同時に焼き加減を確認する。大胆な身振りの裏で、全体をよく見ている。目が合うと、片手を軽く上げる。

「来たな」

「まあな」

短い応酬。注文を受ける手は止まらない。隣の生徒が少し戸惑うと、さりげなくフォローに入る。受け取ったホットサンドは、思ったより丁寧に焼かれていた。外はこんがり、中はきちんと熱が通っている。

「どうだ」

「悪くない」

新田は笑う。大きく、けれど嫌味のない笑い方だ。

「そっちは?」

「順調だよ」

「ならあとで行くわ」

その一言に、妙な安心感がある。


教室へ戻る途中、遠山とすれ違う。装飾のリボンを直しながら、満足そうに教室を見ている。永瀬は入口でパンフレットの残数を確認している。水沢は来場者の感想をノートにまとめていた。次の改善点を考えているらしい。立花は受付で小さく微笑みながら人を迎える。


教室に戻ると、入口付近に見覚えのある姿が立っていた。エプロンを外した新田が、腕を組んで展示を眺めている。遠山の導入を聞き、永瀬の仕掛けに目を細め、水沢の説明に頷く。僕と目が合うと、軽く顎を上げた。それだけでいい。文化祭は一日で終わる。けれど、準備の時間も、廊下で交わした短い言葉も、教室の中で重ねた視線も、全部が今日の光の中に溶け込んでいる。喧騒の中に立ちながら思った。ここにいることは、悪くない。照明を少し落とし、次のグループを迎える。黒板の暗号の前で立ち止まる彼らに、さりげなく視線を送る。教室の外からは、また新田の笑い声が聞こえた。



20XX/09/17 (Mon)


〜浅倉琉生〜



文化祭明けの初日。校舎は、何事もなかったかのような顔をしている。色とりどりの装飾は取り払われ、黒板のイラストもほとんど消されている。けれど、よく見ればテープの跡や、画鋲の小さな穴が残っていて、昨日までの喧騒が確かにここにあったことを証明している。机に鞄を置き、椅子を引く。椅子の脚が床を擦る音が、やけに澄んで聞こえた。

水沢はすでに席に着き、ノートを開いている。姿勢はいつも通り整っているが、どこか力が抜けている。ページの端に小さな走り書きが見える。きっと文化祭の反省か、改善点のメモだろう。ああいうところが、彼女らしい。

立花は配布物を揃えている。文化祭で使ったパンフレットの残りをまとめ、必要なものと不要なものを分けているらしい。静かな所作。紙を扱う指先が、昨日と変わらず丁寧だ。

遠山は黒板の端に残ったチョーク跡を見つめている。完全には消えていない線を、指でなぞるように確認してから、少しだけ笑った。満足そうでもあり、名残惜しそうでもある。

永瀬は机の上で資料を整理している。文化祭の収支表だろうか。必要なものだけを残す作業に、いつも通り迷いがない。


教室は、いつもの形に戻ろうとしている。昨日の熱は、もうない。それでも、どこかに薄く残っている。午前の授業は淡々と進む。板書の音、ページをめくる音、教師の声。非日常の余韻は、徐々に日常へ溶けていく。


昼休み、僕は廊下へ出た。文化祭の看板が外された壁は、妙に広く感じる。人の流れも、昨日より静かだ。階段を降りようとしたとき、少し先で立花の姿が目に入った。誰かと話している。近づくにつれ、その相手がわかる。


新田陽翔。


別クラスの廊下で、壁に軽く背を預けながら、身振りを交えて話している。少し顔を上げて、いつもの落ち着いた笑みで応じている。笑い声がひとつ弾ける。彼女が笑うときは、声は大きくないけれど、目元がやわらかくなる。それを、新田はちゃんと見ている。

会話の内容までは聞こえない。ただ、新田が何かを大げさに説明し、立花が小さく首を振る。その繰り返し。


あの二人、関わり合ったんだな。そんなことを、ぼんやり思う。

そういえば文化祭の準備期間中、立花が委員の仕事で動き回っていたな。新田も、自分のクラスで中心になっていたはずだ。どこかで交差したのだろう。不思議でも何でもない。


僕は、そのまま階段を降りる。会話に割り込む理由はない。割り込む必要もない。

廊下の窓から入る光が、床に長い帯を作っている。文化祭は終わった。けれど、人と人の間にできた線は、簡単には消えないらしい。

購買の前で、水沢が誰かと話しているのが見える。真面目な顔で、たぶん何かの調整をしている。永瀬は教室へ戻る途中らしく、腕に資料を抱えている。遠山は教室の後ろで、文化祭の写真を見ている。


それぞれの位置。

それぞれの速度。


自分はどこに立っているのか、と考える。転校してきた頃は、ただ静かにやり過ごせればいいと思っていた。目立たず、深く関わらず。でも、文化祭を経て、少しだけ感覚が変わった。


教室で意見を出したあの日。

謎解きのヒントを落とした瞬間。

新田の模擬店で交わした短い会話。


どれも小さな出来事だ。けれど、確かにここにいた証みたいなものだ。


午後の授業。窓際の席で、ノートを取る。前の席で立花がペンを走らせている。さっき廊下で見た横顔とは違い、今は真剣な表情だ。新田は別の教室にいる。それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごしている。それでいい。日常は、思ったより滑らかに戻ってくる。それでも、どこかが少しだけ違う。文化祭前と、同じではない。廊下を歩くと、まだわずかに甘い匂いが残っている気がする。錯覚かもしれない。それでも、悪くないと思う。教室のドアを開けると、夕方の光が差し込んでいた。新しい日常が、静かに始まっている。



20XX/09/23 (Sun)


〜遠山楓理〜



今日は特別な日。だって、わたしが動くんだもの!他校との合同イベント。出ることが決まった時点で、半分くらい結果は見えていた。だって、わたしがいるんだから。成功しないわけないでしょ?ペアは永瀬くん。まあ、当然よね。頭も回るし、見た目も私には劣るけど悪くない。わたしの隣に立つには、そのくらいは必要だもの。

駅前で待ち合わせわたしが着くと、永瀬くんはもういた。ふうん。やっぱり、わたしとの約束だから早めに来ちゃうのね。

「早いね」

「別に」

そっけない返事。でもいいの。照れてるだけだし。


電車の中、並んで座る。距離は自然。わたしが窓側。景色を眺めながら、今日の流れを頭の中で組み立てる。イベントは市民ホールでのディスカッション形式。テーマは地域活性化。ありがち。でも、やりようはいくらでもある。


グループワークが始まると、他校の生徒たちは妙に遠慮がちだった。だから、わたしが空気を変える。「それ、もっと派手にできるよね!」机の上に身を乗り出す。アイデアを広げる。観光客を呼ぶなら演出が必要、写真を撮りたくなる仕掛けが必要、話題になる瞬間が必要。視線が集まる。当然。永瀬くんは横で静かに補足する。実現性とか、予算とか、具体性とか。うん、ちゃんとわたしを引き立ててる。ほら、やっぱり相性いいじゃない。

最終発表では、うちのグループが一番拍手をもらった。司会の先生も何度かうなずいてたし、他校の生徒もあとで話しかけてきた。でもね。こういうときに一番見るべきなのは、永瀬くんの反応。横目で確認すると、いつも通りの顔。淡々としてる。


でも、わかる。


内心では絶対に思ってる。


やっぱり楓理すごい、って。


だって事実だし。



帰り道、夕方の光が少しオレンジに変わっていた。駅までの道、並んで歩く。

「今日、楽しかったよね!」

「まあ」

短い返事。うんうん、そうだよね。楽しいよね。わたしと一日一緒だったんだから。

今日という日は完璧だった。わたしはちゃんと目立って、ちゃんと評価されて、ちゃんと結果を出した。そして、その隣には永瀬くんがいた。


人通りが少し減る。


風が吹いて、スカートの裾が揺れる。


...タイミングも雰囲気も完璧。


もう充分じゃない!?告白するのは今しかないでしょ!


準備してない告白は失礼とか思ってたけど、よく考えたらまず私が告白してあげる時点で失礼なわけないし、元から私が選ぶ側なんだから。


それに、もう決まってるし。


永瀬はわたしのことが好き。


あとは、わたしがそれを受け取ってあげるだけ。


むしろ、告白してあげるなんて、正直かなり優しいと思う。


わたしほどの人に想われるなんて、滅多にないんだから。


「永瀬くん」


足を止めさせる。


振り向く。相変わらず静かな目。


その視線、ちゃんとわたしに向いてる。


ほらね。


もう隠さなくていいのに。


わたしはにっこり笑う。


少しだけ顎を上げて。


「樹、わたしのこと好きでしょ?」


一拍。


返事を待たない。


だって、答えは知ってるし。



「だからさ、私が永瀬くんと付き合ってあげる!」



20XX/09/23 (Sun)


〜永瀬樹〜



『だからさ、私が永瀬くんと付き合ってあげる!』


...目の前の彼女(そいつ)はたしかにそう言った。


夕方の光が、やけに穏やかだった。駅前の通りは人もまばらで、風だけが少し冷たい。そんな静かな時間に、あまりにも彼女らしい台詞が落ちてきた。


遠山楓理は、いつも通り胸を張っていた。


迷いも、照れも、躊躇もない。

正確には照れているように見えるが、ただの見せかけだ。

まるで賞状でも渡すみたいな顔で、そう言った。


僕は一瞬、何も言えなかった。


驚いたわけじゃない。

予想していなかったわけでもない。






...ただ、あまりにも想像通りで、少しだけ笑いそうになっただけだ。






――小学六年生の頃。

あの頃、僕と遠山、...それから折原葵さんは同じクラスだった。

担任は柔らかい雰囲気の先生で、生徒の話をきちんと聞く人だった。怒鳴らないし、急かさない。教室の空気は穏やかで、どこか整っていた。その中で、折原さんはひときわ静かな存在だった。成績は常に上位。発言は簡潔で、感情に流されない。けれど冷たいわけではなく、誰に対しても同じ温度で接する。物腰は柔らかく、人当たりもいい。近づきやすいのに、踏み込みすぎればそっと線を引かれるような、そんな距離感を持っていた。

僕は、気づけば彼女に目が向くようになっていた。

きっかけは曖昧だ。グループ活動で意見が噛み合ったことか、提出物を確認し合ったことか。理由は些細だったが、話すたびに心が安らぐ感覚があった。

だから、迷惑にならない程度に、休み時間に時々話しかけた。長くは引き留めない。用事があるふりをして、少しだけ。それで十分だった。


...だが、その頃からすでに、遠山は僕のことを明らかに好いていた。

もっと正確に言えば、彼女の“初恋”はひとりに定まっていなかった。僕と、他クラスの男子の二人に、同時に同じ熱量を向けていた。

本人はきっと、矛盾だとは思っていなかったのだろう。


遠山は、ほぼ毎休み時間、僕のそばにいた。登校も下校も、自然な顔で隣に並ぶ。理由はその都度違った授業の確認、提出物の相談、どうでもいい雑談どれも断るほどのものではない。だが、確実に距離を詰めるには十分だった。

そして、僕が折原さんと話しているときも、遠山は必ずそこにいた。偶然を装って加わることもあれば、あからさまに割って入ることもあった。

「先生が呼んでたよ」

「ちょっと手伝ってほしいんだけど」

用件の真偽は曖昧だったが、彼女は迷わず僕を折原さんの前から引き離した。そのたびに、胸の奥に小さな違和感が溜まっていった。折原さんも、遠山のことを好いてはいなかった。それは僕にもわかった。視線のわずかな硬さや、沈黙の長さで。僕も同じだった。

でも、折原さんは決して態度に出さなかった。遠山が隣に立っていても、僕に対する接し方は変わらなかった。穏やかに、丁寧に、いつも通り。

それが救いだった。

同時に、僕を不安にさせた。


――僕が折原さんのところへ行くと、遠山を連れてきてしまう。


そう思うようになった。


僕の行動が、折原の時間を侵食しているのではないか。

僕の存在が、余計なものを引き寄せているのではないか。


それでも折原さんは、遠山の前で、僕に優しく接してくれた。


それが本心だと、疑わなかった。



六年生の終わりが近づいた頃、噂を耳にした。直接ではない。誰かがこぼした言葉が、遠回りして届いた。


折原は、本心では遠山を連れてくる僕のことを嫌っていたらしい、と。

さらに、担任の前で、僕についての愚痴をこぼしていた、と。

担任と折原2人で、愚痴に盛り上がっていた、と。


最初は否定した。そんなはずはない。

だが、具体的すぎる断片がいくつも重なり、ただの作り話だと切り捨てるには、妙に現実味があった。


遠山に邪魔をされ続けたのは事実だった。

僕が折原のところへ行くたびに、彼女は割り込んできた。


それは、たかが遠山の恋心の延長だった。二股に分けられたうちの、適当な軽い熱のひとつ。

だが、その軽さのせいで、僕は何度も大事な時間を奪われた。


そしてもし、折原がそれを理由に僕を疎ましく思っていたのだとしたら。


怒りは、まず遠山に向いた。


自分勝手な感情で踏み荒らしたことへの苛立ち。

悪びれもしなかった態度への嫌悪。


けれど同時に、周囲にも失望した。


それを面白半分で広める誰か。

遠回しに伝わる形で、わざわざ耳に入るようにする環境。



そして何より、


折原の本音に、最後まで気づけなかった自分。


あの穏やかさを、そのまま信じていた自分。


何も見抜けなかった。


本当に馬鹿だ。


誰の言葉も、誰の態度も、表面しか(すく)えていなかった。


その瞬間から、人の「優しさ」をそのまま受け取ることができなくなった。


笑顔の裏を探す癖がついた。


好意の裏に、別の意図があるのではないかと疑うようになった。


遠山も、折原も、周囲も。


そして、自分自身も。


信じられるものが、全部なくなった―――






夕暮れの光の中で、遠山はまだ疑っていなかった。自分が拒絶される可能性を、一度も想定していない顔。


「だからさ、私が永瀬くんと付き合ってあげる!」


――付き合ってあげる。

その言い回しが、ひどく滑稽に聞こえた。


僕はしばらく何も言わなかった。

怒りはない。動揺もない。


ただ、温度が落ちた。


「……本気で言ってるの?」

「本気に決まってるじゃん」


 即答。


疑いの余地すらない声音。

僕はゆっくり息を吐く。


「...気持ち悪い」


遠山の顔から、わずかに色が抜ける。


「は?」

「その思考回路」


声は低い。感情は削ぎ落とした。いや、過去のお前にもう削ぎ落とされた。


「なんで僕が、お前を好きな前提で話が進んでる?」


「だって——」

「“だって”じゃない」


遮る。


完全に。


目の前にあるそれのことなんてもうどうでも良かった。


「僕がお前を好きだって証拠、どこにある?」


遠山は答えない。

答えられない。


「ないよな。所詮全部お前の頭の中だけの絵空事だ」


一歩、距離を詰める。


威圧する必要はない。

声だけで十分だった。


「昔からそうだ」


視線を逸らさない。


「僕が誰と話しても横に立って、割り込んで、引き剥がして、それで“好きだから”って顔してた」


淡々と事実を並べる。


「自分がやってること、理解してたか?」


 沈黙。


「してないよな。理解する気もなかった」


遠山の喉が小さく鳴る。


「しかも、お前」


少しだけ声を落とす。


「僕だけですらなかっただろ?」


遠山の瞳が揺れる。


「同時に、別のやつも“好き”だった」


はっきり言う。


「そんな薄っぺらい感情で、よく人の時間奪えたな」


空気が凍る。


「僕はお前が心底嫌いだ」


言葉に迷いはない。


「昔からずっと」


遠山の呼吸が浅くなる。


「自分が中心で、自分が選ぶ側で、相手は自分を好きで当然だと思ってる」


冷たい視線を向ける。


「傲慢なんだよ」


言い切る。


「人の気持ちを勝手に決めつけて、思い通りに動かなかったら被害者ぶる」


遠山の唇が震える。


それでも僕は止めない。


「僕がお前と一緒にいる時間、どう思ってたか知ってるか?」




「苦痛だよ」


静かに落とす。


「視界に入るだけで、昔のこと思い出す」


ほんのわずかに眉を寄せる。


「自分の欲のために他人を踏み台にするやつ」


遠山の肩が小さく揺れる。


「それが、お前だ」


声は低いまま。


「僕は一度も、お前を好きになったことはない」


 断言。


「これからも絶対にない」


間髪入れずに続ける。


「付き合って“あげる”?笑わせるなよ」


目を細める。


「僕がお前を選ぶ未来は、存在しない」


沈黙が落ちる。


逃げ場のない静けさ。


「自分が欲しいからって、相手も欲しがってると思うな」


冷たく、鋭く。


「僕の気持ちを勝手に書き換えるな」


最後に、抉るように告げる。


「もう二度と、僕に触れるな。視界にも入るな」


それだけ言って、視線を切る。


背後で、何かが崩れる気配がしたが、振り返らなかった。


もう、関係ない。



20XX/09/24 (Mon)


〜遠山楓理〜



次の日の朝。

ひとりで歩く通学路は、思ったよりも軽い。昨日、あんなふうに言われたのに。あんな顔で、あんな声で、突き放されたのに。

胸はちっとも重くない。むしろ、澄んでる。永瀬くん、本当に何を考えてるんだろう。


わたしが告白して“あげた”のに。


あれ、どれだけ価値があるかわかってる? 普通なら、喜ぶところだよ?振るなんて、信じられない。

……ううん、違う。信じられないんじゃない。判断を間違えたんだよね、あっちが。わたしと付き合わないなんて、大損。後から気づいても遅いのに。

昨日の冷たい目を思い出す。あんな顔、初めて見た。でも、それで怖くなったり、落ち込んだりするほど、わたしは弱くない。

あれだけ好きだったけど――。今は、もう思う。ああ、やっぱり違ったんだなって。わたしの隣に立つ人じゃなかった。だって、本当にふさわしいなら、わたしを選ばないわけないもの!


校門が見えてくる。朝の光がまぶしい。


そこで、ふと浮かんだ顔。




...この前、立花と廊下で話していた男の子。


あのときは、ただ横目で見ただけ。でも今思い返すと、ちゃんとかっこよかった。背が高くて、笑うと空気が明るくなる感じ。声も軽くて、余裕があって。ああいうの、いいかも。永瀬くんみたいに、冷たくて理屈ばっかりじゃない。わたしの隣で笑っていたら、きっと絵になる。


うん。決まり。


次は、あの男の子だ。

あの人なら、わたしにちゃんと釣り合う。

でも問題は――。


立花結衣。


昨日も思ったけど、あの二人、少し距離が近い。

結衣ちゃんは優しいし、大人しいし、誰とでも仲良くなる。でも、だからって。


わたしが恋愛するうえで、隣にいる必要ある?

――ないよね。


わたしと新田くんが並ぶなら、そこに結衣は入らない。

だって、主役はわたしなんだから。


結衣は友達。


うん、友達だよ?


でも、恋愛は別。


大事なのは、誰が一番ふさわしいか。

あの人の隣に立つなら、どう考えてもわたし。


結衣には……少し、どいてもらわないと。

別に悪いことじゃない。

恋は早い者勝ちだし、似合う者勝ち。わたしが本気になれば、流れは変わる。今までもそうだった。

気づけば隣に立っていて、気づけば中心にいる。


今回も同じ。


あの人は、わたしを選ぶことになる。そのほうが、ずっと正しいから。

もしその前に、誰かが近くにいるなら。少しだけ、位置をずらせばいいだけ。


だって、わたしは選ばれる側じゃない。


選ぶ側なんだから!



20XX/10/03 (Tue)


〜永瀬樹〜



遠山楓理の告白から、一週間。結論だけを言えば、僕の日常は何も崩れなかった。むしろ、静かに整えられたような感覚すらある。あの日以降、教室の空気は微妙に変わった。遠山を見る視線は、以前よりも冷えている。あまりに強引で、あまりに一方的だった告白は、どうやら彼女の思惑通りには受け取られなかったらしい。

対して僕には、妙な同情と、少しの好意的な評価が向けられている。別に訂正する気もない。事実として、僕は誠実に断った。それだけだ。


朝の教室。窓際の席に鞄を置くと、斜め後ろから軽やかな声が届く。

「おはよ、樹」

水沢莉央。柔らかい声色。朝の光を受けて、彼女の横顔はどこか透明感がある。

「おはよう、水沢さん」

僕がそう返すと、水沢は少しだけ目を細める。

「その呼び方、相変わらずだね」

「呼び捨てなんか違和感あるし...」

「そうなの?どうであれかたいなあ」

言葉とは裏腹に、彼女は楽しそうだ。水沢には、自然とあたりが柔らかくなる自覚がある。理由は単純だ。彼女は踏み込まない。けれど、離れすぎない。ちょうどいい。


ホームルーム前、クラスの女子が数人、僕の席の近くで雑談している。

「永瀬くんって、ちゃんとしてるよね」

「うん、あれは楓理がちょっと……」

声は小さいが、聞こえない距離じゃない。僕は何も反応しない。評価は他人のものだ。管理するものでも、消費するものでもない。水沢さんが小さく僕を見る。

「...人気者っ」

「違う」

「否定早いね」

「面倒なだけだよ」

水沢はくすっと笑う。その笑い方は軽いが、視線は冷静だ。

「でも、ちゃんとしてるのは本当でしょ」

「……どうだろう」

「少なくとも、私はそう思ってる」

不意打ちのように落ちる言葉。過剰じゃない。甘くもない。ただ、まっすぐだ。


昼休み、中庭のベンチに並ぶ。冬の空気は澄んでいて、遠くの校舎がくっきりと見える。

「ねえ、樹」

「なに?」

「...なんか私にだけ、ちょっと声柔らかいよね」

唐突な指摘に、少しだけ間を置く。

「...自意識過剰系?」

「違う! でも実際樹そうじゃない?」

「そうかな」

「うん。最初からだけど」

否定はしない。

「水沢さんには、構える理由がないからかな」

「それ、うれしい」

彼女はパンをちぎりながら微笑む。

「私は最初から、樹のこと好きだもん。友達として」

軽やかに言う。

「知ってる」

「即答だ」

「態度でわかるから」

彼女は笑いながらパンを口に運んだ。


放課後。教室に残り、提出物をまとめていると、水沢が机に肘をつく。

「樹」

「なに?」

「...なんか疲れてるでしょ」


「...別に」

「嘘」

即答だった。僕は小さく息を吐く。

「…まあ少しはね」

「だよね」

彼女はそれ以上追及しない。ただ、隣に立つ。

「帰ろ。今日は私がコンビニ寄りたい」

「付き合えってことか」

「うん。樹は荷物持ち」

「さっき疲れてるか聞いてきたのなんだったのさ」

「...さあ」

「横暴」

「知ってる」

立ち上がると、自然と歩幅が揃う。廊下を歩きながら、何人かが僕たちを見る。悪意はない。ただの興味だ。僕は気にしない。水沢さんも気にしない。

「ねえ、樹」

「ん?」

「私、今の樹好きだよ」

「さっきも聞いた」

「そうじゃなくて。ちゃんと断って、ちゃんと立ってる樹」

夕陽が差し込む廊下で、彼女の横顔が柔らかく光る。は僕少しだけ視線を逸らす。

「...ありがとう」

短い言葉。けれど、僕にしては...それに彼女に対してなら十分だった。

水沢は満足そうに微笑む。

一週間前の出来事は、もう騒ぎではない。クラスの評価も、遠山の視線も、いずれ薄れていく。残るのは、選んだ距離。選んだ人間関係。



水沢莉央――彼女が“樹”と呼ぶ声が、前から思いのほか心地いいことを、僕はまだ口にしない。


...口にしたくないから。



20XX/10/11 (Wed)


〜浅倉琉生〜



三時間目と四時間目のあいだの休み時間。短いはずなのに、教室は少しだけ無防備になる。僕は椅子を斜めに引いて、窓に背を預けた。外は薄い青で、冬に近づく光をしている。校庭の隅の木が、風に揺れていた。特にすることもない。次の授業の教科書は机に出してあるし、急いで確認するほど不安もない。視線をやると、永瀬が席でノートを開いている。静かだ。周囲がざわついていても、あの人の周りだけ少し温度が低い気がする。冷たいという意味ではなく、落ち着いているという意味で。その前に、水沢。椅子を少しだけ寄せて、永瀬のノートを覗き込んでいる。近い距離。でも、不自然じゃない。

「ここ、違うんじゃない?」

水沢が小さく言う。永瀬はペンを止め、視線を落とす。

「本当だ。ありがと」

静かな声。柔らかい。あの人は基本的に穏やかだけれど、水沢に向ける声は最初からずっと同じ温度だ。変わらないというのは、案外すごい。水沢は満足そうにうなずき、自分の席に戻る。短いやり取りだけれど、そこには余計な力が入っていない。


遠山の告白から約二週間。

なぜ知っているのか――簡単なことで、遠山が「永瀬が私を振ってきた」と愚痴を振りまいているからだ。...みんな聞いてはいるがほぼ相手にはしていないようだけれど。人の評価は、驚くほど早く形を変える。僕はそれを、窓際から眺めている。永瀬は水沢と並んで何かを話している。水沢が笑うと、永瀬もわずかに目元を緩める。ほんの少しの変化。でも、見ていればわかる。あの二人のあいだには、安心がある。特別な言葉も、劇的な展開もない。ただ、自然に隣にいる。


チャイムまで、あと数分。教室のざわめきは、どこか均一だ。

遠山は顔を上げない。

永瀬は静かにページを閉じる。

水沢は次の教科書を机に出す。

僕はその光景を、何の感情も誇張せずに見ている。


何の変哲もない休み時間。それぞれが、それぞれの位置にいる。それだけのこと。


やがてチャイムが鳴った。

僕は姿勢を戻し、前を向いた。



20XX/10/20 (Fri)


〜新田陽翔〜



四時間目が終わって、教室が一気にうるさくなる。椅子を引く音とか、机を叩く音とか、誰かの笑い声とか。毎日同じなのに、毎回ちゃんと騒がしい。俺はペンを置いて、軽く伸びをした。次は数学。正直、頭が切り替わらない。ふと、腹減ったな、と思う。まだ昼休みじゃないのが惜しい。隣のクラスに用事があったのを思い出して、立ち上がる。ついでに少し廊下の空気を吸おう、くらいの軽い気持ち。


ドアを開けると、廊下はもう人でいっぱいだった。別クラスの連中がわらわら出てきていて、ちょっとした渋滞みたいになっている。その中に、見慣れた後ろ姿を見つけた。肩までの髪。落ち着いた立ち方。

立花結衣。

隣のクラスの前を通ったとき、ちょうど自販機の前で小銭を数えているところだった。

「結衣」

声をかけると、少し驚いた顔で振り向く。

「あ、新田くん」

名字で呼ばれるの、もう慣れた。

「何してんの?」

「飲み物買おうと思って」

「珍しくない?」

「そんなことないよ」

小さく笑う。結衣の笑い方は大きくないけど、ちゃんとあったかい。俺は隣の自販機にもたれた。

「どれにするか迷ってる感じ?」

「うん……甘いのにしようか、無糖にしようか」

「そこ悩む?」

「悩むよ」

わりと真剣な顔。俺は横からボタンを眺める。

「今日は甘いのでもいいんじゃね?」

「新田くんも甘いの飲むの?」

「今日はな」

そう言いながら、適当にボタンを押す。缶が落ちる音が響く。結衣も少し考えてから、同じ列の別のボタンを押した。


「...結構甘いんだ」

「そうかな」


二人で廊下の窓際に移動する。まだチャイムまでは少し時間がある。

「今日の英語、やばくなかった?」

俺が言うと、結衣がうなずく。

「長文、難しかったね」

「最後の設問、絶対ひっかけでしょ」

「わたし、あれ自信ないかも」

廊下を人が行き交う。隣のクラスのドアが開いたり閉まったりして、そのたびに声が漏れてくる。でも、結衣といるときは、少しだけ周りの音が遠くなる気がする。

「そういえばさ」

俺は缶を軽く振りながら言う。

「文化祭のとき、結衣ずっと忙しそうだったな」

「ああ、あれは……クラスの出し物の準備で」

「ちゃんと回ってるの見たよ」

「え、ほんと?」

「うん。普通に似合ってた」

さらっと言ったつもりだったけど、結衣は一瞬止まる。

「……ありがとう」

小さい声。でもちゃんと聞こえる。

「結衣ってさ」

「なに?」

「意外と堂々としてるよね」

「え?」

「なんか、もっと控えめなタイプかと思ってた」

「うん、控えめだよ、たぶん」

「いや、芯ある感じする」

自分でも、なんでそんなこと言ったのかはよくわからない。ただ、そう思った。結衣は少し困ったみたいに笑う。

「新田くんって、そうやって急に真面目なこと言うよね」

「そう?」

「うん。ちょっとびっくりする」

それなら、それでいいかもしれない。


チャイムが鳴る。

「戻ろっか」

「うん」

結衣は自分のクラスのドアの前で立ち止まる。

「またあとで」

「うん、あとで」

ドアが閉まる。廊下に少しだけ静けさが戻る。何の変哲もない休み時間。ただ自販機で飲み物を買って、少し話しただけ。それでも、なんか悪くない。俺は空き缶をゴミ箱に入れて、自分のクラスに戻る。


...そうだ、次は数学だった。




20XX/01/31 (Sun)

――――――10月が終わりを迎えようとしている今から9ヶ月ほど前、1月31日のこと――――――



〜水沢莉央〜



玄関のドアを閉めた瞬間、やっと一日が終わった気がした。

「ただいま」

リビングから返事が返ってくる。いつもの声。いつもの匂い。いつもの音。靴をそろえて、階段を上がる。今日はなんだか、少しだけ長い一日だった気がする。――理由はわかってる。教室での視線とか、廊下の空気とか、そういうものが、少しずつ変わっているから。あの告白の件から、もう一週間。遠山楓理の名前を、今日私が聞いた分では、誰も一度も口にしていない。でも、完全に消えたわけじゃない。

ドアを閉めて、自分の部屋に入る。カーテンを少しだけ閉めて、制服のままベッドに倒れ込む。天井が近い。静かだ。スマホを取り出す。

画面をつけると、未読が一件。


樹。


自然と、口元がゆるむ。

n――今日の数学結構難しかったね

それだけの短いメッセージ。たったそれだけなのに、少しだけ心が軽くなる。とりあえず打ち返す。

m――うん、最後の問題ぜんぜんわからなかった

送信。

既読がつくのは早い。たぶん、向こうも今部屋にいる。

n――僕は途中で式がどこかに消えた...

思わず小さく笑ってしまう。樹は、そういう言い方をする。大げさでもなく、自慢でもなく、ただ淡々と。

n――でも水沢さん、ノートきれいだったよね。相変わらず

その一文に、少しだけ指が止まる。見てたんだ。

m――見られてたの?

n――前の席だったから。

m――変態。

n――なにがだよw

さらっといじりを入れたのは置いといて、そっか、と思う。

教室で、前後の席だっただけ。それだけなのに、妙に近く感じる瞬間がある。

m――ちゃんと解けた?

n――まあまあかな。

m――そんなこと言ってどうせ90点乗ってるんでしょ?

n――さあ...水沢さんは?

m――...半分いってないかも。

少しだけ、本音。既読がついて、少し間が空く。その数秒が、意外と長い。確かに返信しにくいの送ったな。

n――じゃあ今度、一緒に勉強やる?

胸が、ほんの少しだけ鳴る。

m――いいの?

n――うん、僕も不安だし

樹は、いつもこうだ。上からでもなく、無理に距離を詰めるわけでもなく、自然に「一緒」を差し出してくる。

n――じゃあ、放課後少し残る?

m――明日なら大丈夫

別に特別な約束じゃない。ただの勉強。スマホを胸の上に置いて、天井を見る。教室での樹の横顔を思い出す。遠山の告白を断ったあとも、特別態度が変わるわけじゃなかった。むしろ、わたしに対しては最初からずっと優しい。変わらない。それが、安心する。スマホがまた震える。

n――今日の英語のテストの長文、最後どういう意味だったかわかる?

m――家族の話のところ?

n――うん。あの主人公が、最後に選んだほう。

ベッドに寝転がったまま、天井を見つめる。

m――あれは、正解ない気がする。

n――だよね。

少し間が空いてから、

n――水沢さんなら、どっち選ぶ?

唐突な質問。でも、嫌じゃない。

m――えー...

指を止めて、考える。

m――たぶん、安全なほう。

n――そっか。

m――樹は?

n――僕も、たぶんそう。

似てるね、と打とうとして、やめる。

代わりに、

m――意外。

とだけ送った。

n――そう?

m――もっと思いきるタイプかと思ってた。

数秒。

n――僕、あんまり冒険しないよ。

その一文に、少しだけ目を細める。たしかに、そうかもしれない。教室でも、目立つことはしないし、無理に誰かに合わせたりもしない。静かで、でもちゃんとそこにいる。


m――でも、ちゃんと自分で決めてる感じする。


送ってから、少しだけ恥ずかしくなる。

n――水沢さんも。

短い返事。

m――わたし?

n――うん。流されてない感じ。

布団の中で、ぎゅっと指先を握る。そんなふうに見えているんだ。

m――そんなことないよ。

n――そうかな。


少し間が空く。


それから、

n――今日さ、クラスでちょっとした言い合いがあって。

n――なんか、噂とか、誰が何言ったとか。

画面を見つめながら、胸の奥が少しだけ冷える。最近、そういう空気は、確かにある。

m――面倒だね。

n――うん。


少し長めの沈黙。


それから、


n――水沢さんって、信用してる人何人いる?

画面を持つ手が、少しだけ強くなる。



m――急だね。


n――ごめん。なんとなく聞きたくなっただけ。


なんとなく。でも、樹は本当に「なんとなく」でそれを聞く人じゃない気がする。

何かを、見透かされてる。布団に顔を半分うずめる。

信用してる人。


家族?


友達?


クラスメイト?


頭の中に、いくつかの顔が浮かんで、――消える。


考えれば考えるほど、胸が静かに冷えていく。


m――樹は?


先に聞き返す。

少し時間が空いて、


n――僕は……少ないよ?


具体的な数字は出さない。ずるい。

画面のキーボードが滲んで見える。打っては消して、打っては消す。


「いるよ」とも打てる。


「わからない」とも言える。


...でも。


指が、止まる。


「なんとなく」じゃない。どうして聞いてきたんだろう。


希望なんて持っちゃ駄目なのに。


...正直に、打つ。


m――0。


送信。


既読がつくまでの数秒が、やけに長い。


取り消したくなる。


でも、もう遅い。


静かな部屋の中、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえていた。



20XX/01/31 (Sun) 〜永瀬樹〜


〜永瀬樹〜



信用している人は少ない。...正確に言えば一人。

「信用できる人」が一人しかいないんじゃない、「信用する人」が二人以上必要ないからだ。


誰かを信じる――それをするからわざわざ裏切られたときに失望する。優しく接してくれた担任。仲良くしてくれた生徒(おりはら)。でもそんな表面上の容姿は裏切らない根拠には全くならない。実際裏切られたんだから。そんなくだらないことで勝手に、自分の欲のままに、好きなだけ信用するから周りに踊らされる。


...なら誰も信じなければ良い、最初は僕もそう思った。でもそこまでニンゲンは優秀じゃなかった。ニンゲンはその“強さ”を持っていない。誰かを頼らないと勝手に崩れる精神を持つニンゲンに、「誰も信じない」なんてことは無理矢理にでもすることは初めからできなかった―――




m――0。


その一瞬、僕は呼吸することを忘れる。


...でも、なんとなくそんな気はしていた。


水沢さんは初めて会ったときから、誰に対しても明るく接していた。明るい、というより、丁寧だ。誰にでも同じ距離で、同じ温度で。それは優しさに見える。...皆その仮初めの優しさに浸って満足する。

僕は水沢さんに、自分に近いなにかがあるように思った。そして、その“優しさ”の正体を見つけた。それは優しさに見えるけれど、同時に、境界線でもある。踏み込ませない線。...誰も拒絶しない代わりに、誰も特別にしない線。


“0”。


画面に浮かぶその数字は、思っていたよりも静かだった。重いわけでも、刺さるわけでもなく、ただ事実みたいに置かれている。

僕はすぐに返信できなかった。


責めるつもりで聞いたわけじゃない。軽い雑談の延長。噂話の流れ。そのはずだった。

でも、あの一文字は、軽くない。


ベッドに座り直す。スマホを持つ手が、少しだけ冷たい。


“0”。


それは、僕が求めていた“強さ”だろうか。

それとも、全く別の場所の“諦め”だろうか。


水沢さんは、教室でよく笑う。誰かに話しかけられればちゃんと目を見て答えるし、困っている人がいれば自然に手を貸す。


でも――


誰かに寄りかかっているところを、僕は見たことがない。

頼っているところを、見たことがない。

あれは、自立なんだと思っていた。


でも、違うのかもしれない。


僕はゆっくりと打ち込む。


n――そっか。


短く。

近すぎない距離で、ただ寄り添うべきだと、

それ以上の言葉を敢えて見つけないべきだと、思った。


すぐに既読がつく。

たぶん、向こうも緊張している。


m――引いた?


その一文に、胸の奥がわずかに痛む。


引くわけがない。

引くわけがないよ。


僕は、少しだけ息を整えてから打つ。


n――引かないよ。


送信。


数秒。


m――ほんと?

疑うというより、確認するみたいな文字。

n――うん。


少し考えてから、続ける。


n――理由、聞いてもいい?



また、間が空く。

...今度は長い。



僕は天井を見上げる。

聞くべきじゃなかったかもしれない、と少しだけ思う。

でも、聞きたいと思ってしまった。


既読。

そして、


m――信用って、難しいから。


それだけ。シンプルで、曖昧で、でもきっと本音。

僕は画面を見つめる。難しい。


n――でも、0って言えるの、すごいと思う。

送ってから、少しだけ不安になる。

変なふうに取られないだろうか。


既読。


m――すごくないよ。

n――...僕はできなかったから。


それは本音だ。


m――樹は、ちゃんと信じれる人いるんでしょ。


その一文に、心臓が一拍遅れる。

一人いる。それは僕にとって大きな差だった。


n――いるよ。


正直に打つ。


m――...すごいね。


短い言葉。

ただの相槌なのか、それとも羨ましさなのか、判別がつかない。

彼女は、信じる人がいることが羨ましいのだろうか。

僕は少し迷ってから、続ける。


n――でも、いらないと思ってる。

m――どうして?

n――信じるせいで、自分が傷つくから。


少し、打ちすぎたかもしれない。

取り消したくなる衝動を、ぎりぎりで抑える。


やがて、


m――壊れる前提なんだ。


柔らかい文字。責めていない。ただ事実を指摘している。


n――...都合の良いことで自分を安心させたくない。


僕は正直に返す。

部屋は静かだ。

窓の外を走る車の音だけが、遠くで聞こえる。


n――それに――

m――誰も信じたくなくても、できないんだよね?


見透かされた。不思議と怖くはなく、安心感すらあった。



m――私は誰かを頼りたくても、頼れないから。



“0”と“1”。


何が違うのか、それが今わかった気がした。


水沢さんは自分の何かを犠牲にして、裏切られて傷つくことを克服した。

僕は自分が壊れることを恐れて、まだ“1”の弱みを持っている。


彼女の目にはどう見えているのか、僕にはまだ考える余裕がなかった。



20XX/01/31 (Sun)


〜水沢莉央〜



私はずっと誰かを信じるのが怖かった。でも、樹も一緒だった。


“0”と“1”。


何が違うのか、それが今わかった気がした。


樹は誰かに裏切られることよりも、自分が壊れないことを優先させた。

私は誰かに裏切られることが怖くて、まだ自分を守れていない。


n――...大丈夫なの?

m――うん、大丈夫。うまくやってる


不意に目頭が熱くなって、視界がぼやけ、スマホに水滴が落ちた。...大丈夫なんかじゃない。でも私にそう言う勇気はなかった。

私はメールが好き。会わなくても話せる手軽さもそう、でも何よりも、自分の表情を見せずに楽に嘘をつけることが、「裏切られたくない自分」にとって救い――

n――嘘。


...っ


...即答だった。それは真偽を確かめる台詞ではなく、すべて見抜いた鋭く、優しい言葉だった。


m――...なんで?


嘘を見抜いた樹に対してかすかに希望を持った自分が、嬉しくて、馬鹿らしかった。


――自分自身を壊そうとしている自分を助けてくれるかもしれない。

――希望を持ったって無駄、信じるから裏切られる。


私が何を望んでいるのか、もう私にもわからなかった。


n――無理してるときの水沢さん、ちょっとだけ文章が綺麗になるから。


画面が滲んで、うまく読めない。指で拭う。...でもまたすぐに滲む。

息が、詰まる。そんなところまで、見てるの。


m――そんなことないよ。


震える指で打つ。

n――あるよ。


間を置かない。


n――それに「無理してる大丈夫」を言うとき、いつも返信が早い。


心臓が、どくん、と強く鳴る。


私はいつも、先に「大丈夫」を置く。

会話を終わらせるための、便利な言葉。


n――水沢さん、誰にも頼らないの上手だよ。

n――でも、それって上手なだけで、平気って意味じゃない。


涙がまた落ちる。画面に、小さな丸い跡。


どうして。

どうして、こんなに簡単に見抜くの。


m――樹だって。

やっと打てたのは、それだけ。

n――うん。

否定しない。

n――僕も同じ。

少し、呼吸が整う。

n――だからほんの少しはわかる。


その一文に、胸の奥がじわっと熱くなる。


m――わかったって、どうするの?

打ちながら、自分でも意地悪だと思う。助けてほしいのか、突き放したいのか、わからない。


少し、間。


n――どうもしない。


一瞬、胸が冷える。

やっぱり。


期待なんて。


n――勝手に助けるとか、できないから。


続きが届く。


n――でも、嘘ついてるときは、嘘って言う。


視界が、また歪む。


n――僕もそれくらいならできる。


それは、救いなのか。

それとも、ただの距離なのか。

少し考えて、理解した。


これは“救い”だ。

私がそれをどう受け取るかによって、救いにもなるし距離にもなる。私自身が私の意思で選べるなら、それは私にとっての救い。


でも。


裏切られる可能性を少し作ってまで私自身を守るべきなのか

今のまま、無理をしてでも裏切られる可能性をなくすべきなのか


それが私にもわからないから。


m――辛い


指が勝手に動いた。取り消す、という選択肢が頭をよぎる前に、既読がついた。


心臓が(うるさ)い。


たった二文字。

でも、たぶんこれは、私にとっての“1”に一番近い言葉。

逃げ道も、言い訳も、飾りもない。


画面を握る指が白くなる。


数秒。


長い。


怖い。


やっぱり言わなきゃよかった、と遅れて後悔が押し寄せる。


 ――重いって思われるかもしれない。

 ――面倒って思われるかもしれない。

 ――距離を置かれるかもしれない。


信じるから、裏切られる。


頭の中で、その言葉が何度も反響する。


通知。


n――うん。


短い。

でも、否定じゃない。


n――そうだよね。



樹は私とほとんど同じだ。

違うのは、彼は“1”を選んでいること。


n――期待したぶんだけ崩れるから、最初から期待しないのは一緒。

n――でもさ。


間。


その「でも」が、怖い。


n――それで、楽になったかって言われたら、なってない。


息が止まる。


n――ずっと緊張してる。


n――ちゃんとしてないと、崩れる気がする。


n――誰かに弱いとこ見せたら、終わる気がする。


涙が、また落ちる。私だけじゃなかった。強そうに見えて、静かで、崩れない人だと思ってた。

でも、同じ場所に立ってる。


m――じゃあ、なんで1にしてるの。


震える指で打つ。既読。


少し長い沈黙。


n――0のままだと、本当に終わりそうだから。


心臓が、強く打つ。


n――僕自身は「“0”にできないから」、って思ってる。


n――でも本当は、無意識に自分が壊れるのを恐れてるだけだと思うから


n――だから、ひとりだけ。


ひとりだけ。

それは救いなのか、依存なのか、もうわからない。


m――それ、怖くないの?


n――怖いよ。


即答。


n――その1がいなくなったら、たぶん崩れる。


正直すぎる。


n――でも、0で崩れるよりは、ましだと思う。


私は、目を閉じる。

0でも、1でも、どっちも崩れる可能性はある。

じゃあ何が違うの。


n――水沢さん。


m――なに。


n――さっきの「辛い」さ。


胸がきゅっとなる。


n――あれ言えた時点で、もう0じゃないと思う。


息が止まる。


m――違う。


反射的に打つ。


m――あれは、ただの弱音。


n――うん。


n――弱音を言える相手を選んだってこと。


頭の奥が、じん、とする。

私は、選んだの?

無意識に?


n――僕もさ。


少し間。


n――今、けっこう辛いから。


その一文に、体が固まる。


n――ずっと平気なふりしてるけど。

n――ほんとは、いつ崩れてもおかしくない。


視界がまた滲む。


m――なんで言うの。


n――水沢さんが言ったから。


単純な理由。でも、重い。


n――ひとりで抱えてると、本当に壊れそうだから。


その言葉は、私の心臓の奥にまっすぐ落ちる。

同じだ。私たちは、同じ前提で立ってる。


 周りは厳しい。

 崩れたら終わる。

 信じたら負け。


その世界の中で、ぎりぎり立ってる。


m――じゃあさ。


指が震える。


m――どうするの。



長い沈黙。



n――わからない。


正直。


n――たぶん、正解はない。

n――でも、少なくとも今は。


n――ひとりで崩れるより、誰かと崩れかけてるほうが、少しまし。


その言葉に、胸の奥が強く締めつけられる。


まし。救いじゃない。解決でもない。

でも、まし。


私は布団をぎゅっと握る。

0か1かじゃない。

勝ちか負けかでもない。

ただ、今この瞬間、完全にひとりじゃない。


...もう私は“0”ではないのかもしれない。



――誰かと崩れかけてるほうが、少しまし。


...樹。



m――ねえ、樹。


n――なに?



私も、一緒に崩れかける誰かが欲しい。









m――修了式の日、放課後、一緒に死なない?






20XX/10/25 (Wed)


〜浅倉琉生〜


午後の光が音楽室の床にまっすぐ差し込み、譜面台の影を長く引き延ばしていた。冷えはじめた空気の中に、わずかな高揚が混じっている。十一月中旬の音楽祭まで三週間あまり。焦りはあるが、それ以上に、ようやく「形になってきた」という実感が芽生え始めていた。


六時間目。クラス全員での合唱練習。移動中の廊下はにぎやかだが、練習のやる気に満ちていた。

立花結衣が楽譜を見ながら、「サビ前、ブレスそろえたほうがきれいじゃない?」と隣の女子に話している。前向きで、声が明るい。

少し後ろでは、遠山楓理が楽譜のページをめくっていた。歌詞の横に小さくメモを書き足している。

永瀬樹は窓側を歩いていた。無駄な会話には加わらず、だが完全に距離を取るわけでもない。手元の楽譜に視線を落としながら、周囲の声をきちんと拾っているように見える。

僕は、その少し後ろを歩いた。


音楽室に入ると、三十数人分の空気が一気に広がった。椅子を並べる音、譜面台を立てる音、軽い笑い声。

「男子、もう少し後ろ下がったほうがバランスよくない?」

遠山が提案する。

「たしかに。さっき低音前に出すぎてたかも」と誰かが応じる。

自然と隊形が動く。以前より、意見が出るまでの時間が短くなった。

「あー」と伸ばす声が重なり、空間に広がる。まだ完全には揃わないが、音の芯ははっきりしている。

と、遠山が手を挙げた。

「アルト、母音ちょっと横に広がってるかも」

「じゃあ縦意識してみよ」と立花。

再び声を出すと、響きが一段締まった。浅倉はその変化を感じ取りながら、自分の音をわずかに調整する。突出せず、しかし軸は保つ。合唱は、誰か一人の強さよりも、全体の均衡だ。


息を合わせ、最初のフレーズ。今日は入りが揃っている。

一番を歌い終えたところで止まった。

「二番の入り、少し重くない?」と立花。

「うん、テンポ気持ち前でもいいかも」と水沢が続ける。

永瀬は短く、「子音合わせたら軽くなると思う」とだけ言った。

視線が一瞬集まり、何人かが頷く。

「やってみよ」


再び二番の頭。

子音を揃える意識。入りが、すっと整う。音が前に出た。

「今いい!」と後ろから声が上がる。

小さな拍手が起こる。笑いも混じるが、真剣さは失われない。

その後、部分練習に移った。女子パートがやや揺れる。

遠山が「もう一回いこ!」と明るく声をかけた。

立花は静かに音を取り直し、周囲に合わせている。

永瀬は自分のパートを淡々と支える。声は強すぎず、だが安定している。

僕はその上に、自分の音を重ねた。全体の中心がぶれないよう、わずかに芯を示す。


 もう一度。


今度は高音がきれいに揃った。

「よし!」

誰かが言い、空気が明るく弾む。


合唱は、不思議な連鎖だ。誰かが成功すれば、周囲も引き上げられる。


そして、今日最後の通し練習が始まった。

僕はは呼吸を整える。だが今日は、必要以上の緊張はない。


声が重なる。


厚みがある。


響きが揃う。


二番の入りも自然だ。高音も崩れない。サビでは、クラス全体の声が一つの塊になり、天井へ伸びる。


一瞬の静寂のあと、自然と拍手が起こった。

「今の、本番レベルじゃない?」と遠山が笑う。

「でもまだ詰められそうだよね」と立花が静かに続ける。


劇的な変化ではない。だが確実に、全体が前に進んでいた。個々の声が、互いを聴きながら調整し合っている。

それが今日の最大の収穫だ。


片付けが始まる。椅子を戻す音、譜面台をたたむ音。ざわめきはあるが、どこか満足げだ。


音楽祭まで、あと三週間。


焦りよりも、期待のほうが少し大きい。僕は、喉に残る微かな振動を確かめながら音楽室を出た。


重なった声の感触が、まだ胸の奥に残っている。


十一月は、きっと悪くない。



20XX/11/02 (Thu)


〜永瀬樹〜



昼休みの光は、どこか春を含んでやわらかい。校庭の端に立つ木の影は、思ったよりも濃くて、風が吹くたびに静かに揺れていた。僕は幹にもたれながら、ペットボトルの水を一口飲む。グラウンドの向こうでは、新田が大きな声で笑っている。遠山の声も混じっているみたいだ。あの二人は、たぶんどこにいてもすぐに見つかる。

「ここ、意外と穴場だよね」

隣で、水沢が空を見上げたまま言った。光を透かした葉が、彼女の横顔に細かい影を落としている。

「うん。教室より、ちゃんと息ができる感じがする」

「わかる。天井がないからかな」

小さく笑う。その笑い方は控えめなのに、なぜか印象に残る。

「...ねえ、樹」

彼女はノートとシャーペンを取り出した。

「うん、そろそろ始めよっか」




―――僕も、もう疲れた。

信じたって裏切られるこの世界で、もうしたいことがわからなかった。

何ができるのかわからなかった。


『一緒に死なない?』


...本来恐怖のはずの「死」に、僕は一瞬希望を見出みいだした。命を絶ったら、この穢れた場所から抜け出せる、そう思った。

でも、駄目なこととも、わかっていた。


n――...本気?

m――本気。こんなところで嘘つくと思う?


駄目だ、と言いたかった。

でもその言葉を打ち込む自信が、僕にはなかった。


『どうして彼女は“0”?』


“1”だった世界線だってあり得たはずなのにどうして――

“0”と“1”の違いがわかったところで、その答えを知った。


“0”は、 「自分自身<傷つかないこと」

“1”は、 「自分自身>傷つかないこと」


彼女にとって、

「自分自身」よりも、「裏切られても傷つかない」ことが大切だった。

自分自身がどうなってでも、傷つきたくなかった。


それだけ傷ついた出来事が、過去にあったということ。


それに比べて僕は、あの小6の出来事があった後でも、自分自身の安全を優先できた。


水沢さんに何があったかはわからないけど、この程度で済んでる僕にその辛さがわかるわけがなかった。

わかろうとするだけ失礼だと思った。


...その上で決めた彼女の自殺志望を、何もわかってない僕が何の根拠もなく止めたくない。

元から狂ってる世の中だ。「死んではいけない」なんてのも、勝手に作られた固定概念だ、と思った。


自分の人生なんだから、したいことをするべきだ。


...それに彼女は、一度決めたことはやりきるまで止まらない。


ふと浮かんだ疑問をぶつける。

n――でも相手は僕でいいの?


返信までの時間が長く感じる。


m――...樹の他にいないよ。



僕も、もう終わらせたい。

水沢さんに、“1”である人にそう頼まれるのなら、断る理由はどこにもなかった。―――




結局その時の僕は、まだ死の恐怖に勝てずに、一年生の修了式から一年先送りにしてもらった。彼女は本気なのに、僕はなんて自分に甘いのだろう。でも、もう大丈夫だ。この世界には心底絶望できた。


「昨日適当に調べてきたんだけど、〇〇県にある『エステートビル』ってところどう?」

そのビルに関する、一般人の出入り、階数などの様々な情報が、そのノートには記されていた。

「出入り可、23階建てか。高さも充分だね。屋上は?」

「あるよ。常時解放されてるみたい。」

...お互い本気だからこそできる、抜け目もなければ緊張感もない会話だった。

「なら大丈夫だね。...ここからそこそこ遠めみたいだけど、何か理由あるの?」

「別に特に理由はないんだけど...最後ぐらいちょっと長旅したくない?」

彼女は僕に、いたずらっぽく微笑みかけた。

「余裕だね。狂ってる」

「そっちもね。『高さも充分だね。』って結構狂ってると思うけど?」

「わざわざ屋上の有無まで調べてきた人がよく言うよ」

不意を疲れたかのように吹き出す。気づけば僕もつられて笑っていた。

警戒もなしに、本音を喋って笑い合えるこの時間が、内容がどうであれ心の底から楽しかった。

騒がしいグラウンドを横目に、木陰で木の幹に凭もたれて、僕達は静かにその計画を進めていた。



20XX/11/13 (Mon)


〜遠山楓理〜



ほんっとに信じられない!!

もう一ヶ月だよ? 一ヶ月。普通ならとっくに忘れてるはずなのに、たまに思い出すのやめてほしいんだけど。いや、別に未練とかじゃないし? ただ、意味が分からないだけ。あんなふうにちゃんと告白してあげたのに、断るってどういうこと? まあいいけど。私と付き合えないって、だいぶ損してると思うし。


だから次。


切り替えは大事。うん、大事。


今日の目標は――新田陽翔くん!


ああいうタイプ、いいよね。明るくて、真ん中にいて、笑ってて。廊下歩いてるだけで目立つし。分かりやすいっていうか。私と並んだら、絶対バランスいいと思うんだよね。


さっきまで廊下にいたのに、もういない。足速いの? それとも私が探してるの察して逃げた? いや、それはないか。私に追われるとか、むしろラッキーだし。


……あ、いた。


自販機の前。友達となんか盛り上がってる。笑い声大きいなあ。でも嫌な感じじゃない。ちゃんと周り見て笑ってる感じ。そういうの、ちょっとポイント高い。

私は一回立ち止まって、スマホの黒い画面で前髪チェック。よし。完璧。

堂々と歩く。遠回りしない。隠れない。私から行くって決めたんだから。

「新田くん!」

声かけたら、すぐ振り向いた。反応いいじゃん。

「ん? どうした?」

「ちょっと話さない? 今大丈夫でしょ?」

確認は一応するけど、断られる前提ではない。

「あー、まあ、いいけど」

ほらね。友達がニヤニヤしてるけど、別にいい。むしろ見ててほしいくらい。

「前からさ、ちゃんと話してみたいなって思ってたんだよね」

「俺と?」

「そう。だってあんまり接点なかったじゃん」

本当は私が動いてなかっただけ。でもそれは言わない。

「新田くんってさ、いつも真ん中にいるよね。なんか、楽しそう」

「いや、そんなことないって」

「あるよ。だって自然に人集まってるし」

ちゃんと目見て言う。褒められて困ってる顔、ちょっと面白い。

「そういうの、いいなって思って」

ちょっとだけ距離を縮める。

「今度さ、放課後ジュース買いに行こ!」

「ジュース?」

「うん。購買でも自販機でもどっちでもいいけど」

「なんでジュースなんだよ」

「なんとなく。軽い感じでいいじゃん」

いきなり重いのはよくないし。……いや、別に重くしてもいいけど。

「……まあ、時間合えばな」

その言い方、完全拒否じゃない。十分すぎる。

「じゃあ決まりね。私、また声かけるから!」

「決まりって」

「だって嫌じゃないでしょ?」

「まあ……?」

ほら。確定。私はにこっと笑う。ちょっと自信ありげに。

「よかった。じゃあよろしくね」

そう言って一歩下がる。引き際も大事。追いかけたくなる距離ってあるし。

新田くん、ちょっと笑ってる。困ってるけど、嫌そうではない。むしろ少し楽しそう。分かるよ、その感じ。私に話しかけられてるんだから。廊下を歩きながら、なんかちょっとだけ気分がいい。


やっぱり私、間違ってない。ちゃんと次に進んでる。

もう新田くんは私のもの同然!



20XX/11/13 (Mon)


〜新田陽翔〜



……なんなんだ、今の。


遠山が去っていった廊下の先を、しばらく眺めてしまった。勢いがすごい。急に現れて、空気をかき回して、満足したみたいに去っていく。台風みたいだな、とわりと本気で思う。

「決まりね」って、何が決まりなんだ。

俺、ちゃんと了承した覚えはない。けど、はっきり否定もしなかった。ああいう真正面からの勢いには、どうも強く出られない。

嫌だったか、と自分に問いかけてみる。

……嫌ではない。多分。

ただ、距離の詰め方が予想外すぎて、頭が追いついていないだけだ。

ジュース、か。

なぜジュース?

あれは軽い誘いなのか、それともそうじゃないのか。遠山の表情を思い返す。自信満々で、迷いがない。ああいう人間は、たぶん自分の選択を疑わない。


そんなことを考えながら廊下を歩いていると、角を曲がったところで人影が止まった。

「あ、ごめん」

ぶつかりそうになって、慌てて足を止める。

「あ……新田くん」

結衣だった。

「悪い、前見てなかった」

「ううん、大丈夫」

相変わらず声は控えめだけど、ちゃんとこっちを見ている。

「今、遠山ってやつに急に話しかけられて」

「そうなんだ」

それ以上踏み込まない。その距離感が、結衣らしい。

「なんか、すごかった」

正直な感想が出る。

結衣は小さく笑った。

「遠山さんらしいね」

「らしい、か」

「うん。思い立ったらすぐ動くタイプ」

確かに。迷いがない分、強い。

「ジュース買い行こって言われた」

「へえ」

「それだけ?」

「……まあ嫌じゃないなら、いいんじゃない?」

さらっと言う。嫌じゃない。そこが一番厄介だ。

「急すぎないか?」

「遠山さんの中では、急じゃないのかも。いつもああだから...」

結衣は珍しく苦笑いをした。なるほどな、と思う。自分のタイミングで動ける人間は、きっと強い。

「新田くん、意外と押されると断れないでしょ」

「……否定できないな」

結衣は少しだけ笑って、「じゃあね」と教室へ向かった。

俺はその背中を見送りながら、軽く息をつく。


あのペースに巻き込まれたとき、自分がどこまで流されるのか。

そこだけが、少し気になった。



20XX/11/15 (Wed)


〜立花結衣〜



数日経っても、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。

廊下の光景が、頭の中で静かに繰り返される。遠山さんのまっすぐな背中と、その場に立ち尽くす新田くんの横顔。

...実は、盗み見してた。


――嫌ではない。


彼はそう言った。その言葉が、思ったよりも長く残っている。

窓の外では、校庭の木が風に揺れていた。カーテンがふわりと膨らむ。春が近づいている匂いがする。

「結衣、どうしたの?」

隣から柔らかい声がする。

莉央ちゃん。

彼女は机に頬杖をつきながら、こちらを見ていた。視線は穏やかなのに、どこか核心を見抜いているような目。

「……そんなに分かりやすい?」

「少しだけ」

少しだけ、なんて言いながら、たぶんほとんど分かっている。私は一度、深く息を吸った。

「さっき、新田くんと廊下で会って」

「うん」

「遠山さんに誘われたって言ってた」

「...ジュース?」

どうして知っているの、という顔をすると、彼女は小さく笑う。

「なんとなく想像つく」

確かに、「想像は」つく...?いやそれでも。私は指先で机の縁をなぞりながら、言葉を探す。


「……最近ね」

「うん」

「新田くんと話すと、ちょっと変なんだ」

「変?」

「胸が、落ち着かなくなる」

言ってしまうと、急に現実味を帯びる。莉央ちゃんは驚かない。ただ静かに続きを待っている。

「前は普通だったの。クラスの中心にいる明るい人、っていうだけで」

「今は違う?」

「うん」

廊下で、あんなふうに困った顔をして、それでもちゃんと話を聞いていて。押されても逃げないけど、強くも出ない。その曖昧さが、妙に気になってしまう。

「話すたびに、少しだけ緊張するの」

「それは悪い緊張?」

「……たぶん、違う」

怖いわけではない。ただ、意識してしまう。莉央ちゃんは、窓の外に視線を向けた。


「好き、って言葉にするには、まだ早い感じ?」


...段階をいくつか飛ばして核心をついてきた。私は苦笑する。

「そこまで大きくない。でも、前よりずっと近い」

彼の名前を呼ぶだけで、声の温度が変わる気がする。

「遠山さんのこと、気になる?」

「少しだけ」

正確には、遠山さんの“勢い”が。

あんなふうにまっすぐ行けるのは、正直うらやましい。私は、いつも考えてから動くから。

「結衣は、どうしたいの?」

静かな問い。どうしたい?その言葉が、胸の奥にゆっくり落ちていく。

「……まだ、何も」

「うん」

「ただ、今のままじゃ、少しだけ後悔する気がする」

「じゃあ、少しだけ動いてみればいい」

「少しだけ?」

「うん。結衣らしい速さで」

遠山さんみたいに、一気に距離を詰めなくてもいい。走らなくてもいい。自分の歩幅で。

教室のざわめきが、少し遠く感じる。

私は窓の外を見た。光が机の上に淡く落ちている。

「ねえ、莉央ちゃん」

「なに?」

「ドキドキするのって、悪いことじゃないよね」

彼女は、迷わず答えた。

「ぜんぜん。むしろ、大事なサイン」

その言葉は、柔らかいのに、芯があった。私は小さく笑う。

胸の奥のざわめきは消えない。でも、それが少しだけ愛おしく思えた。

きっと私は、まだ入り口に立っている。


 でもそれでいい。


春は、急がなくてもちゃんと来ると思うから。



20XX/11/22 (Wed)


〜永瀬樹〜



折原葵――彼女も同じ釉浄中学校のはずだった。だが、中学受験をしたらしく、今ここにはいない。

...そういえば、彼女がどの中学校に行ったのかすら僕は知らなかった。ずっと仲が良いと思っていた自分が(つくづく)嫌になる。

今どこで何をしているのだろうか。

あの女(とおやま)の顔が頭に浮かんだのを境に、僕は考えるのをやめた。


窓からふわりと、冬の冷たい風が吹き込んだ。


恋愛というのは、対象の相手を勝手に美化するだけのただの呪いだ。折原のことを好きでさえなければ、ほんの少しの違和感に気づけたかもしれない。早く気付けていれば、まだ仲良くできている世界線があったかもしれない。

こんな前科があるのに、僕はまだ学ばない・・・・。

わかっている。どうせ自分は水沢莉央のことが好きなんだ。自覚したくないけど、それは現実から目を背けるに等しい。そんなことをしたら、また間違いを犯すだけだ。どうにかしないと、いけない。


前、休み時間に木陰で話したときも、彼女は死ぬこと以外何も希望がなかったはずだ。他に何もないから、あそこまで吹っ切れて、何の暗さもなく無邪気に話せるんだ。でも、僕はきっと違った。あの時僕は少しだけ、彼女といれる時間が楽しかった。死ぬこと以外にも、他の希望を見出していた気がした。相手はもう何も残っていないのに、僕は心の中でそれを裏切っていた。


だからこそ。

死のう。このまま一緒に死んでしまおう。こんな愚かな奴なんて早く死んでしまえば良いんだ。

彼女と死のうとしていることの罰として、その案件を利用して自分を殺す――実質矛盾だが、別に構わない。


だって、死んでしまえば全部終わるんだから。


それに水沢さんがそれを望んでいるんだったら、それこそ両得。彼女を止めることのできない自分にできることなんて、彼女に望みを叶えることしかないんだ。


彼女は僕にとっての苦い薬で、甘い毒。


予想のできないこの計画がどう転がろうと、それは変わらない。



20XX/12/01 (Fri)


〜水沢莉央〜


休日の午前。ガラス張りのエントランスから差し込む光が、床に淡い模様を描いている。結衣と並んで歩きながら、私は人の流れを静かに観察していた。

「久しぶりだね、ここ」

結衣が少し弾んだ声で言う。

「うん。変わってないね」

私は笑う。...鏡のように整えられた、ちょうどいい笑い方で。

周りのことは信じない。それは最近始まったことじゃない。ずっと前から、どこかで線を引いている。笑いながらも、心の奥の扉は閉めたまま。


ただ、前にここへ来たときは、そのことを言葉にしていなかっただけ。


ショッピングモールの空気はいつも軽い。明るい音楽、甘い匂い、にぎやかな足音。楽しげな空間ほど、人は本音を隠すのが下手になる。私は、本音が少しも漏れないように普段以上に警戒を強めた。

エスカレーターに乗ると、下から人の波がゆっくりと押し寄せてくる。誰が誰を見ているのか、誰が何を考えているのか、そんなことを一瞬で想像して、すぐに手放す。

考えすぎない。

でも、見落とさない。

「新しいお店、二階だよね?」

「そうそう、奥のほう」

結衣の歩幅に合わせる。速すぎず、遅すぎず。隣にいることが自然に見える距離。店内は淡い色で統一されていた。柔らかな布地、控えめな香水の匂い。結衣がブラウスを手に取る。

「これ、どう思う?」

「似合うと思うよ。結衣の雰囲気に合ってる」

言葉を選ぶ。過不足なく、ほんの少しだけ温度をのせて。結衣は嬉しそうに笑う。その無防備な笑顔を見ながら、私はふと考える。

信じるって、どこまでを言うんだろう。

試着室のカーテンが閉まる。私は壁際に立ち、店の奥と入口をなんとなく視界に入れる。

無意識。たぶん、ずっと前からの癖。

「どうかな?」

カーテンが開く。

「うん、いいね。さっきより大人っぽい」

本心だ。ただ、それ以上は踏み込まない。店を出ると、中央の吹き抜けから子どもたちの笑い声が落ちてくる。高く、軽い音。ああいう声を、私はまぶしいと思う。でも羨ましいとは思わない。

「お腹すいたね」

「行こっか」

フードコートの窓際に座る。背後に壁がある席を選ぶのは、たぶん無意識じゃない。結衣がストローを回しながら、小さく言った。

「この前ね、新田くんと話したの」

「うん」

「なんか、ちょっとドキドキして」

私はゆっくり頷く。

「いいことだと思うよ」

「そうかな」

「うん。ちゃんと自分の気持ち、感じてるってことだから」

結衣は安心したように笑う。その表情を見ながら、私は心の中で静かに距離を測る。

誰かを好きになる気持ちは、きっときれいだ。でも、それがどう転ぶかは誰にもわからない。


私は未来を信用しない。

だから、今の言葉だけを扱う。

「莉央は? 好きな人とかいないの?」

少し首をかしげる。

「どうだろうね」

曖昧に笑う。本当のことは言わない。言わなくても、困らない。

人は変わる。関係も変わる。だから私は、最初から全部を預けない。

それでも、隣にいる結衣を大切にしないわけじゃない。守ることと、預けることは違うから。


モールを出るころ、空は薄い夕色に染まっていた。ガラスに映る私たちの姿は、どこから見ても仲のいい友達だ。

「今日はありがとう」

「こちらこそ」

笑って手を振る。バスの窓に映る自分の顔は、いつも通り明るい。きっと誰も気づかない。


――気づかれないほうが、都合がいい。


ずっと同じ温度で笑い続けることは、意外と難しくない。慣れているから。

それでも、隣に座る結衣の眠そうな横顔を見て、ほんの一瞬だけ思う。

この距離なら、悪くない。


近づきすぎず、離れすぎず。

触れないまま、そばにいる。


それが今の私にとって、一番静かで安全なかたちだった。



20XX/12/12 (Tue)


〜浅倉琉生〜



休み時間、教室のざわめきから少し離れたくなって、僕は図書室へ向かった。廊下の窓から差し込む冬の光は淡く、床に長い影を落としている。扉を開けると、紙の匂いと静かな空気が肺に落ちてきた。ここはいつも、時間の進み方がゆるやかだ。

カウンターの向こうに、新田がいた。腕章をつけて、返却された本を棚に戻している。陽の当たる窓際で、珍しく真面目な顔をしていた。

「なあ、新田」

低い声がして、奥のテーブルにいた図書委員の男子が身を乗り出す。

「お前、好きな人いねーの?」

軽い調子。けれど、その目は面白がっている。

「は? いねーよ」

新田は即答する。少しだけ声が上ずった気がした。僕は背の高い書架の陰に立ち、適当に文庫本を手に取る。開いたページに目を落としながら、耳は自然と会話を拾っていた。

「絶対うそ。お前わかりやすいもん」

「なんだよそれ」

沈黙が一拍落ちる。ページをめくる指先が止まる。

「……別に」

新田の声はさっきより低い。強がりと、本音の間みたいな音。

「で? 誰?」

「だからいねーって」

「言えよ。減るもんじゃねーし」

からかう笑い声が、静かな空間に少しだけ浮く。司書の先生は奥で書類を整理していて、こちらには気づいていない。新田は棚に本を戻すふりをして、しばらく黙っていた。窓の外で、風が木の枝を揺らす。光が揺れて、彼の横顔に影を落とす。


「……うるせーな」

小さく吐き出すように言う。

「いるんだ?」

「……まあ」

あっさりと崩れた。僕は本を閉じる。...音を立てないように。

「誰?」


間。


長くはない。けれど、確かに迷った時間。

「……立花結衣」

その名前が、静かに落ちた。


「...立花...結衣?」

「声でけーよ」

図書室の空気を震わせる。新田は慌てて周囲を見回す。けれど、その視線は僕のいる書架までは届かない。

「知らない名前だな。なんで?」

「なんでって……」


言葉を探す沈黙。


「なんか、ちゃんと聞いてくれるし」

ぽつり、と。

「話してて、変に気使わなくていいっていうか」

照れ隠しみたいに笑う気配がする。

「へー。意外と普通だな」

「うるせ」

そのやり取りは、どこか穏やかだった。冗談半分の空気の中に、確かな本音が混じっている。僕は本を棚に戻す。背表紙を揃えながら、胸の奥に落ちた名前の重さを確かめる。


立花結衣。


教室で静かに笑う横顔が浮かぶ。新田はまだ何か言われている。

「告れよ」

「無理」

「押せばいけるって」

「そういうのじゃねーんだよ」

その一言が、妙に真面目で、僕は少しだけ驚く。


軽いだけじゃない。

ちゃんと考えている声だった。


これ以上ここにいるのは、よくない気がした。盗み聞きは趣味じゃない。...聞いたけど。

カウンターの横を通る。足音をなるべく小さく。新田は友だちの方を向いていて、僕には気づかない。扉を開けると、廊下のざわめきが一気に戻ってくる。さっきまでの静寂が、遠い場所のものみたいだ。教室へ向かいながら、窓の外を見る。雲は薄く、空は高い。誰かの「好き」は、案外あっさり口に出る。でも、その裏にはきっと、言葉にならない時間がある。

教室の扉の前で、一度立ち止まる。

何も知らない顔で、席に戻るだけだ。


僕は取っ手に手をかける。さっき聞いた名前を、心の奥に静かにしまい込んだ。



20XX/12/21 (Thu)


〜立花結衣〜



――結衣らしい早さで、少しだけ動いてみればいい。


あの言葉は、静かな灯りみたいに胸の奥に残っている。急がなくていい。でも、止まったままでいてはいけない。

昼休み。チャイムの余韻が廊下に溶けて、人の流れがゆっくりと形を変えていく。私は友だちと別れて、ひとりで廊下を歩いていた。窓から入る光が白くて、春が近い匂いがする。

曲がり角の向こうに、見慣れた後ろ姿を見つけた。心臓が、わかりやすく跳ねる。数メートル先。声をかけようと思えば、かけられる距離。


――どうする?


前の私なら、そのまま通り過ぎていたと思う。

でも今日は、ほんの少しだけ。


「新田くん」

自分の声が、思ったよりも静かに響いた。

彼が振り向く。少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑う。

「お、結衣。どうした?」

その“どうした?”が、特別に聞こえるのは、きっと私のせいだ。

「今、移動中?」

「うん。教室戻るとこ」

廊下の端に自然と並ぶ。人の流れが私たちを追い越していく。一歩、呼吸を整える。

「この前、話せて嬉しかったなって」

言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなる。新田くんは少し目を丸くして、それから照れたように視線を逸らした。

「……俺も」

短い。でも、ちゃんと届く。

「結衣といるとさ、落ち着くんだよな」

「え?」

「なんか、ちゃんと色々話聞いてくれるし」

まっすぐな言葉に、息が詰まりそうになる。私は特別なことなんてしていない。ただ、彼の言葉を受け取っているだけ。でも、それがいいと言ってくれる。

「ありがとう」

声が少しだけ小さくなる。廊下の窓から差す光が、彼の横顔を照らす。いつもの明るい雰囲気とは少し違う、やわらかい表情。私たちは他愛もない雑談を続けた。


「また話そーぜ」

さらっと言うのに、目は少しだけ本気だ。胸が、きゅっとなる。

「うん。私ももっと話したい」

言えた。ほんの少しだけ、踏み出せた。

一瞬、視線が絡む。長くはない。でも、確かに何かが通った気がする。

「じゃあ、次の授業やばいから戻るわ」

「うん、またね」

彼が手を軽く上げて去っていく。背中を見送りながら、私はその場に立ち尽くす。

大きなことは何も起きていない。告白も、約束もない。でも、ちゃんと一歩。


私らしい早さで。


窓ガラスに映る自分の顔は、少しだけ赤い。それでも、どこか嬉しそうだった。

怖さは消えていない。けれど、怖いままでも進めることを、今日知った。



20XX/12/25 (Mon)


〜遠山楓理〜



今日はクリスマス!

朝からずっと、なんか世界がキラキラして見える。


だって、私が動く日だもん!


昨日の夜、プレゼントをベッドの上に並べて、どれが一番かわいいか本気で選んだ。サンタ帽かぶってるやつもよかったけど、やっぱり王道かなって思って、ちょっと上目づかいで笑ってるやつにした。あれは正直、破壊力あると思う!ん?なにを渡すのかって?そんなのもちろん私の写真!


透明の袋に入れて、赤いリボンもつけた。

完璧。センス良すぎ。


学校は冬休み前で午前中だけ。廊下もなんとなく浮かれてる感じがする。

私は机に肘つきながら、新田くんが来るのを待った。


……来た!

「おはよー!」

ちょっと大きめの声で呼ぶ。気づかれないわけないけど、ちゃんと振り向いてほしいし!

「お、おう。おはよ」

なんかちょっと戸惑ってる顔。かわいい。

「ねえ、今日クリスマスだよ?」

「知ってるわ」

「だよねー! だからさ、はい、これ!」

私はバッグからプレゼントを取り出して、ぱっと差し出した。リボンが揺れる。いい感じ。

「……え、なに?」

「クリスマスプレゼント!」

「え、まじで? 俺に?」

「他に誰がいるの!」

当たり前じゃん、って顔をして見せる。だって、私からもらえるって相当ラッキーだと思うし。

新田はちょっと周りを見てから、恐る恐る受け取った。

「開けていい?」

「今すぐ!」

ここ重要だから!袋を開けて、中身を見た瞬間、新田の動きが止まった。

「……え?」

「どう? いい写真でしょ!」

つやつやの紙に印刷された、最高にかわいい私。自分で言うけど、本当に盛れてる。

「これ……遠山の写真?」

「うん!」

胸を張る。

「世界に一枚だよ! 超レア!」

「いや、写真なら何枚でもあるだろ」

「同じのはないの!」

私はちょっと身を乗り出す。

「クリスマスだし、特別感大事じゃん? 私の写真とか、普通もらえないよ?」

新田はなんとも言えない顔をしてる。たぶん、照れてる。

「……どうすんの、これ」

「部屋に飾るに決まってるでしょ!」


即答^^当然でしょ!

「机の上とか、ベッドの横とかさ。毎日見れるよ?」

「いや、親に見られたら気まずいわ」

「大丈夫だって! “友だちから”って言えばいいじゃん!」

私はにこっと笑う。完璧なフォロー。新田は写真と私を交互に見る。うん、絶対うれしいやつ。

「ありがと……?」

語尾がちょっと上がってる。動揺してる証拠。

「どういたしまして!」

私は満足してうなずいた。クリスマスに、私の写真をもらう男子。絶対あとでじわじわくるやつ。

「ちゃんと大事にしてよ?」

「……善処します」

「なにそれ!」

笑いながら肩を軽く叩く。教室の窓の外で、冬の光が白く光ってる。なんかもう、イベント成功って感じ!

「じゃ、またあとで感想聞くから!」

「え、感想いんの?」

「いる!」

当たり前。私は自分の席に戻りながら、心の中でガッツポーズした。きっと今ごろ、新田の頭の中は私でいっぱい。


クリスマス、大優勝!



20XX/12/25 (Mon)


〜新田陽翔〜


...俺の頭の中は、遠山でいっぱいだった。

家に帰って、部屋のドアを閉めた瞬間、どっと疲れが出た。

制服のままベッドに倒れ込む。天井を見上げると、昼間の出来事がゆっくり再生される。


――クリスマスプレゼント!


赤いリボン。やたら自信満々な顔。……やめよう。思い出すだけで情報量が多い。

机の上に置きっぱなしにしていた袋が視界に入る。透明。中身、見える。

「はあ……」

誰もいないのに、ため息が出た。

一応、もらったものだ。もう一回ちゃんと確認しとくか、と思って袋を手に取る。

リボンをほどく。中から出てくる、つやつやの写真。


 ――遠山楓理。ドアップ。


「……いや、まじかよ」

思わず声が漏れる。ちょっと上目づかい、謎のキメ顔。しかもポーズが妙に自信満々。

⋯いや、自信満々なのはいつもか。

写真を少し離して見る。もう一回近づけて見る。

「…なんで自分の写真なんだよ……」

普通、クッキーとかさ。せめてちょっとした雑貨とか。なんで自分をラッピングするんだ。

ベッドに座り直して、写真をじっと見つめる。


……じわじわくる。

というか、じわじわ引く。


「飾るに決まってるでしょ!」って言ってたよな。

いや、どこにだよ。


机の上に立ててみる。数秒見つめる。

「無理だろ」


 即却下。


引き出しを開けて入れようとして、手が止まる。なんか、雑に扱うとあとで面倒くさそうだな。あいつ、感想聞くとか言ってたし。


スマホが震える。


画面を見ると、浅倉から。

a――今ひま?

なんだよ、タイミング良すぎだろ。俺は写真を机に伏せて、ベッドに転がりながら返信する。

n――まあ。どうした

すぐ既読がつく。

a――今日、なんか面白いことあった?

なんだそれ。意味深。俺は机の写真をちらっと見る。

n――……まあ、変なプレゼントはもらった

送ってから、やっぱ言わなきゃよかったかもって思う。

即レス。

a――誰から?

お前探偵かよ。

数秒迷ってから、打つ。

n――遠山


既読。そして、しばらく沈黙。


a――なるほど

その一言で全部察してる感じやめろ。

a――内容は聞かないでおく

優しさかよ。俺は思わず笑ってしまう。まあ言うんだが。

n――写真

既読。


……長い。


スマホを顔の上に落としそうになる。


a――え、本人の?

n――うん

a――すごいな

それだけかよ。でもなんか、笑ってるのが想像できる。

a――どうすんの

俺は天井を見つめる。どうすんの、ってこっちが聞きたい。

n――飾れって言われた

a――飾るのか?

即答できない自分が悔しい。写真をもう一度見る。キラキラしてる。自信満々。


……いや、無理だろ。


n――いや、さすがに

送信。浅倉からは少し間を置いて、

a――まあ、トラブル起こすなよ

とだけ来た。

「人をなんだと思ってんだよ……」

スマホを置く。

静かになった部屋で、写真と二人きり。改めて思う。


距離感どうなってんだ。


悪いやつじゃない。たぶん本気で善意。むしろ好意。

だからこそ、反応に困る。

写真を封筒に戻して、机の一番下の引き出しに入れる。さらにその上に教科書を置く。

「……ここならセーフだろ」

飾らない。でも捨てない。それが一番平和だ。…いや平和か?

ベッドに倒れ込みながら、ふと別の顔が浮かぶ。

廊下で、少し緊張したように笑っていた立花。ああいう好きは、静かだ。押しつけてこない。

今日のクリスマスは、なんか濃すぎた。

天井を見つめて、ひとりごとみたいに呟く。


「……写真はないわ」


部屋の電気が、やけに眩しく感じた。





〜後編に続く〜

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