13.兄との対話
用意された部屋は、静けさに満ちていた。
余計な装飾はなく、整えられた空間。
そこに、兄は先に座していた。
「来たか」
穏やかな声である。
「はい」
私は静かに応じ、正面に座る。
しばしの沈黙。
(……測られているな)
この空気は、大学寮でのものとよく似ている。
だが、より近い。逃げ場のない距離である。
やがて、兄が口を開いた。
「大学寮はどうだ」
「学ぶには良い場にございます」
簡潔に答える。
兄は小さく頷いた。
「そうであろうな」
それだけ言い、こちらをじっと見る。
視線が鋭い。
ただの再会ではない。
何かを確かめに来ている。
(……やはり、聞いているか)
私のことを。
大学寮での振る舞い、評価。
それらが、すでに家にも伝わっているのであろう。
「少し、聞いた」
兄が静かに言う。
「名が上がっているそうだな」
(やはりな)
私は一瞬だけ考え、答える。
「過分な評価にございます」
無難な言葉である。
だが、兄は首を横に振った。
「そういう話ではない」
はっきりとした否定であった。
「そなた、自らを抑えているであろう」
(……こちらもか)
あの少年と同じことを言う。
だが、兄のそれは、より確信に近い。
血の繋がりゆえか。
「なぜだ」
短く、問う。
逃げ場はない。
私は少しだけ視線を落とし、そして答えた。
「波を立てぬためにございます」
偽りではない。
だが、本音のすべてでもない。
兄はそれを聞き、わずかに目を細めた。
「……なるほど」
理解したのか、あるいは見透かしたのか。
そのどちらかであろう。
「だがな」
兄の声が、わずかに重くなる。
「この家に生まれた以上、それでは足りぬ」
(来たな)
そう思う。
「我らは、学をもって立つ」
静かながら、強い言葉である。
「才を隠すことは、すなわち家を弱くすることにも繋がる」
(家、か)
個ではなく、家。
それが、この時代の理である。
理解はしている。
だが――
(だからといって、無闇に出るのは愚かだ)
そうも思う。
私は静かに口を開いた。
「出過ぎれば、疎まれましょう」
簡潔に。
兄は頷く。
「その通りだ」
即答であった。
「だが、出なければ、埋もれる」
(極端だな)
そう感じる。
だが、それもまた事実である。
しばし、沈黙。
やがて、兄が言った。
「試そう」
短い言葉であった。
(……やはり来たか)
そう思う。
「難しいことではない」
そう言い、兄は一つの書を差し出した。
古き文である。
内容は……政治に関する一節。
(なるほど)
単なる読解ではない。
考えを問うものだ。
私は一度目を通し、静かに考える。
(どこまで出す)
兄の前である。
ここで過度に抑える意味は薄い。
だが、すべてをさらけ出す必要もない。
(ならば)
私は口を開いた。
「この文は、理想を説いておりますが――」
言葉を選びながら、続ける。
「実際には、そのまま適用することは難しいかと」
現実を見る。
そこから論を組み立てる。
理想と現実の乖離。
その中で、どう折り合いをつけるか。
簡潔に、だが筋を通して述べる。
話し終え、沈黙が落ちる。
兄はしばしこちらを見ていたが――
やがて、わずかに息を吐いた。
「……やはりな」
小さく呟く。
「見えている」
その一言で十分であった。
(評価、か)
そう受け取る。
兄は続けた。
「そなたは、ただ優れているのではない」
視線が、まっすぐにこちらを射抜く。
「考え方が違う」
(……それは)
前世の記憶によるものだろう。
だが、それを口にすることはない。
「買いかぶりにございます」
そう返す。
兄は小さく笑った。
「謙遜ではないな、それは」
見透かされている。
だが、それでよい。
「一つだけ言っておく」
兄の声が、静かに響く。
「抑えること自体は悪くない」
(意外だな)
そう思う。
「だがな」
続く言葉に、わずかに力がこもる。
「ここぞという時には、出せ」
(……なるほど)
完全に否定はしない。
だが、使うべき場は選べ、と。
それは――
(理にかなっているな)
私は静かに頷いた。
「心得ました」
短く答える。
兄はそれを見て、満足したように頷いた。
「よい」
その一言で、場は終わった。
部屋を辞し、廊下を歩く。
(兄上か……)
ただの家族ではない。
一つの指標であり、壁でもある。
そして――
(悪くない)
そう思った。
自らを測る相手として。
無難に生きる。
その道は変わらぬ。
だが――
(使うべき時には、使う)
そう、少しだけ考えを改めた。
それが、この対話の収穫であった。




