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身代わりで嫁いだ死神侯爵に、異常なほど溺愛されています ~虐げられ令嬢は最恐英雄の唯一の花嫁でした~  作者: 新川さとし


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第9話 名を呼ばれない白


 部屋に戻った私に、何もすべきことは課されてなかった。


 「ご無理なさらずに」と言われて頷いたものの、じっと椅子に座っているのも、どうにも落ち着かない。


 部屋の窓からは、庭がよく見えた。

 きちんと刈り込まれた芝生と、さまざまな低木が趣味よく配置され、いくつもの花壇には花々が咲き誇っていた。


 あれ? 


 小さな花壇が目に付いた。


 けっして大きくもなく、目立つ装飾があるわけでもない。


 ただ、この窓から見下ろすと、特別な位置に見える花壇だ。


 白い花が咲いていた。


 思い出した。


 ――また、あの白い花。


 昨夜の食卓。


 同じ花だと、なぜかわかる。


 派手さはない。

 主張もしない。

 けれど、目に入ると、視線が自然と吸い寄せられてしまう。


『……不思議』


 私は、花の名前を思い浮かべようとして――途中で、やめた。


 名前を知らないはずがない。けれど、今は、言葉にしたくなかった。


 名前を口にすれば、何かが動いてしまう気がしたから。


 控えめなノック音がして、リディアが入ってくる。


「少し、お散歩なさいますか?」


 その言い方は、提案だった。

 私の意志を尊重してくれる言葉だ。


「……はい」


 答えると、彼女は微笑んだ。


 庭に出ると、朝の空気は澄んでいて、肺の奥まで静かに満たされていく。


 歩く速さは、私に合わせられていた。

 気づけば、それが当たり前になっている。


「こちらの庭は、お館様が大切にしておられます」

「そうなんですか?」

「ええ。とくに、あの一角は」


 リディアの視線の先には、あの白い花の花壇があった。


 私は、何も言わなかった。


 言えなかった、のかもしれない。


 花の前に立つと、胸の奥が、少しだけ締め付けられる。


 懐かしい。でも、過去の記憶とは違う。


 もっと、遠くて。

 もっと、静かな感情。


『……願い』


 そんな言葉が、浮かんでは消えた。


 ふと、リディアが小さく息を整えるのが聞こえた。


「奥様は……」


 言いかけて、彼女は口を閉じた。


「いえ。失礼いたしました」


 それ以上、何も言わない。


 けれど、その沈黙は、気まずいものではなかった。


 むしろ、守られている沈黙だった。


 部屋へ戻る途中、廊下の先で人影が見えた。


 カシアン侯爵閣下だった。


 遠目でも、こちらに気づいたのがわかる。


 足を止め、視線を向けてくる。

 けれど、彼は自分からは近づかない。私が歩いてくるのを穏やかな表情で待っていた。


 厳つい体格。傷だらけの顔。


 街で見かければ「怖い」としか思えないお姿だけど、静かに立つ姿には、威圧しようという意志も、支配しようという気配もなかった。


 リディアは、私を先導しつつも、私が立ち止まろうとするかどうかを見計らっている気がした。


 私は歩みを止めなかった。


 数歩の距離になってから、私は淑女の礼をして「おはようございます」と挨拶した。


「おはよう」


 と答えた、彼は、思ってもみないほど柔らかな声で言った。


「……庭に出たのか」

「はい」


 それだけのやり取り。


 けれど、侯爵の視線が、私の背後――庭の方へ、一瞬だけ流れた。


 そして、ほんのわずかに、表情が柔らいだ。


「……無理はするな」

「はい」


 それで、会話は終わった。


 侯爵は、それ以上、何も言わなかった。

 私も、尋ねなかった。


 白い花の名前も。

 なぜ、そこにあるのかも。


 今は、まだ。


 言葉にするには、早すぎる。


 部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。


 窓の外で、白い花が揺れていた。


 名を呼ばれないまま。

 それでも、確かにそこに在る。


『……ここでなら』


 また、同じ言葉が胸に浮かぶ。


 まだ続きは、ない。


 けれど――

 名を持たない白は、静かに、私の時間を見守っていた。

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