第8話 静かな朝
厚手のカーテンの間から、朝日が――と言うには、だいぶ日が高い――差し込んでいた。
とっさに「怒鳴られる!」と、身体を起こした。義母が先に起きでもしたら、背中をどれだけ叩かれるか、身に染みている。
その時、私が包まれているのが柔らかく、軽い布団と上質のパジャマであることで、ハッとさせられた。
すぐには状況を理解できなかった。
それでも、今までとは違うのだという事実だけが、胸に残った。
温かなベッドの上で、次第に意識が戻ってくると、次に感じたのが「静けさ」だった。
伯爵家では、皆が寝静まっている静けさだった。
誰よりも早く起きて、誰よりも仕事を早く始めて、そして昨夜の残り物をかき込まなくてはいけない。
生きるために、身につけたクセだ。
気配がわかる。今、この瞬間も、このお屋敷の中で誰かが動いている。
けれど……
なんて静かなの。
怒鳴り声も、扉を叩く音も聞こえない。
朝の支度を急かされる気配すら、どこにもない。
しばらく、キャノピー・ベッドに柔らかく垂らされたドレープの模様だけを眺めたまま、動けずにいた。
柔らかな光に浮きあがる見慣れない部屋。
『私、このお部屋にいて良いんだよね?』
昨夜のことを、少しずつ思い出す。
食事。白い花。
「今日は、休め」と言われた声。
ベッドから身を起こすと、身体が驚くほど軽かった。
疲れが残っていないわけではない。それでも、胸の奥が、少しだけ楽だった。
恐る恐る、床に足を下ろす。
冷たいはずの石床は、このお部屋では分厚い絨毯に覆われている。
足先が優しく受け止められた。
自然に目覚めるまで、誰も起こしに来ない。
子どもの時の記憶にあった気がする。でも、遠い夢の話。
「ここにいて、いいんだよね?」
なぜか不安で、声を出さずにいられなかった。
声を出した途端、不安は、ハッキリとした形となる。
何かを忘れている気がする。
やるべき仕事があるはず。
叱られる前に、動かなくちゃ!
それは、身を守るために染みついた考え方だった。
とっさに、着替えを探してベッドから完全に降りたった。
ぼやぼやしていたらダメ。
――そう思った瞬間だった。
控えめなノック音がした。
ドキンとしながら、私は「はい」と返事をした。
「失礼いたします」
リディアの声。扉が静かに開いた。
昨日の変わらぬ、柔らかな態度で一礼する。
「気配がしましたものですから。このまま、お目覚めになりますか? それともお水などを召し上がりますか?」
「は、はい…… あの! もう起きようかと思って!」
だから、怒らないで、と言う言葉を辛うじて飲み込んだ。
けれども、リディアは、ゆっくりと近づきながら笑顔を見せてきた。
「おはようございます、奥様」
その呼び方に、心臓が小さく跳ねた。
「おはよう、ございます、今、今、起きたんです!」
思わず、言葉のあとに続けそうになる。
『遅くなってすみません』
けれど、口に出る前に、リディアが柔らかく首を振った。
「こちらでは、お時間はすべて奥様のものです。どうぞ、お急ぎなさらずに」
それは、諭すでもなく、命じるでもない声だった。私は、黙って頷くしかなかった。
「まだ、お疲れが取れてないようでしたら、何か召し上がって、もう一度お休みいただいても。それとも、起きた方が落ち着かれるようでしたら、お着替えをお手伝いいたします」
緩やかな選択だった。
急かされることも、決めつけられることもない。
けれど、とてもではないけれども、ここでベッドに戻るなんて、不安すぎる。
「着替えを……」
何とかそれだけを声に出せた。
「かしこまりました」
何人ものメイドさんたちが動いていた。
カーテンがレースのものとなり、顔を洗うお湯が用意された。
そして、トルソーに着せたモーニングドレスが運び込まれた。
「奥様のお好みを教えていただけますか?」
とっさに、リディアの気遣いがわかった。
ドレス選びに慣れていない私のために、似合いそうな、そして私がゆったり着られそうなものを、選びやすいようにしてくれたのね。
リディアは三色のドレスを淡々と説明してくれた。色の意味や、ドレスごとのデザインのポイントを。
手短だけど丁寧で、決して選択を急がせてこない。
ゆったりと、私に選ぶ時間を取ってくれているのが伝わってきた。
私は、清楚、清純を意味するペールブルーを選んだ。
「なんて素敵な色を選ばれたのでしょう。奥様のイメージにピッタリですわ」
私にだってわかる。多分、他の色を選んでも「素敵です」って言ってくれた。でも、それが心にもないお世辞ではなく、心から、私を褒めてくれていることだけは伝わってくる。
なんだか、心がぽかぽかした。
着替えが終わると、メイドたちの空気がふっと和らいだ。
それが私への肯定だと、なぜか分かった。
この邸の人たちは、何一つ、私を責めない。温かく、私を褒めてくれるんだ。
そんなふうに、思ってしまった。
そして、ようやく動いた私の頭は、再び心臓をドキリとさせた。
「あの、たぶん、もう、遅い時間ですよね? 私は今日何をしたら」
そこまで、一気に喋ったとき、リディアが、笑顔で首を振ったのに気付いた。
「本日のご予定は、特にございません」
「……え?」
「お館様のご指示です。まずは、こちらの暮らしに慣れていただきたいと」
理由を述べる口調は、あくまでやわらかい。
けれど、その内容は、私には理解しがたいものだった。
予定が、ない?
何も、しなくていい?
戸惑いを隠せずにいる私を見て、リディアは一瞬だけ考えるような間を置いた。
「ご不安でしたら、後で館内を少しご案内いたしましょうか」
「えぇ……」
そこで、リディアは、笑顔で言った。
「でも、なによりも、ご朝食はいかがでしょうか?」
初めて気付いた。
恥ずかしけれども、猛烈にお腹が減っていたことを。
「すでにご用意がございますが、その前に」
驚いたことに、卵料理を選んでほしいという。ポーチドエッグに、オムレツ、スクランブルエッグにエッグベネディクト。
「どれでもお好みがございましたら、申し付けます」
「どれでも?」
「はい、もちろんです。付け合わせはベーコンやハムもございます。それから……今朝は子羊のソーセージもご用意してあるそうです。シェフが、そう申しておりました」
まさか、それを、私のために?
無言の問いは、無言の笑顔で返される。
そして、そこに触れもせずにリディアは言った。
「お好みが決まるまで、今日から順番にお出しするのもいいかもしれませんわ」
恥ずかしいけれども、私の料理の知識は子どもの頃のまま。伯爵家で出さなかった「エッグベネディクト」がどんなものなのかもわからない。
多分、リディアは、それを分かって言ってくれてるのだろう。
結局、リディアのお勧めをお願いした。
案内された食卓は、昨夜よりもさらに静かだった。
大きなテーブルに、二人分の席。
けれど、向かいの席は空いている。
「侯爵様は……?」
そう尋ねると、リディアは一礼して答えた。
「朝は政務が立て込んでおられます。本日は同席なさらないとのことです」
それを聞いて、胸の奥が少しだけ緩んだ。
ほっとしたのか、残念だったのかは、自分でもわからない。
朝食は、昨夜と同じように、少量ずつ、丁寧に用意されていた。
新鮮なサラダは、温野菜を巧みに組み合わせたもの。
温かい黄金色のスープは一口で、コンソメを丁寧に整えたものだと分かる。
柔らかなパンと何種類も添えられた上質のジャム。
お勧めされたスクランブルエッグに添えられた子羊のソーセージは、私の一口サイズに切ってあった。
すべてが美味しくて、胃に負担をかけない味付けと量。
ただ、静かに時間が流れていた。
『……変なの』
こんなに落ち着いた朝を、私は知らない。
食事を終えるころには、肩の力が、少しだけ抜けていた。
「お口に合いましたでしょうか」
「……はい。とても」
素直に答えると、リディアは小さく微笑んだ。
「それは、何よりでございます」
部屋へ戻る途中、ふと気づく。
歩く速度が、昨日よりも自然になっていることに。
背中を丸めずに歩いていることに。
部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。
ただ、それだけで良い。
そこに座る。
それだけなのに、胸の奥が、じんわりと温かかった。
『……ここでなら』
まだ、続きの言葉は浮かばない。
けれど、確かに思った。
――少しだけ、息をしてもいいのかもしれない。
静かな朝は、そう教えてくれていた。




