第75話 思い出へのお返し
エレーナの部屋を見るように、と告げてくれた侍女だ。
とっさに、詫びるべきかとも思った。あるいは「ありがとう」と言うべきか。
もしも侍女の言葉が無くて、家に戻っていれば、エレーナの部屋を見ようとしなかったかもしれない。
――それほどに、自分は愚かだった。
だが、詫びるにしても感謝するにしても、目の前の「侍女の笑顔」は、どちらも望んでいないことは明らかだった。
だから、伯爵は、単刀直入に用件を切り出すしかない。
「娘に会わせてほしい」
「何のために」
「娘の部屋を見た」
冷たい微笑は瞬きをしただけ。無言のうちに「それが何か?」と告げていた。
「自分が愚かだった」
「はい」
愚かであることを、侍女にすら否定してもらえない。謙遜にすらならない。
「娘は、ずっと、あの部屋に……」
返事もせず、澄んだ碧い目がジッと見つめている。それは「お前が答えを知っているだろう」という厳然たる返事である。
「私は謝りたいのだ」
何も答えぬ侍女の細い身体全体から「遅すぎる」と言われている気がして、怯んだ。だが、それでも、ここは下がるべきではないと自分に言い聞かせる。
「私が愚かだった。娘に会って謝りたい」
凍てつく氷の表情の侍女に、伯爵は真摯に頭を下げて頼んだ。
「一言でいい。謝らせてほしいんだ」
リディアと名乗った侍女は、しばらく黙っていたが、やがて、静かな声で答えた。拒絶でも受諾でもなく、確認の言葉だ。
「娘だった人に会いたいとおっしゃるのでしょうか?」
また、その言葉。
さっきとは違い、違和感ではなく「グサリ」と突き刺さるナイフであることを知ってしまった。けれども、愚かな父親として、詫びねばならない。
「父親として、娘に謝らなければならない」
その瞬間、確かに、侍女は冷笑というカタチで頬を引き攣らせた。そして、また、氷の表情に戻ると口角をわずかに上げた、侍女の微笑を浮かべた答え。
「もう、必要はございません」
「必要はない? いや、父親として、謝るのは当然だ」
「閣下には、もう娘などいらっしゃいませんので」
ピシャリと撥ね付けられた。さすがに、伯爵にも怒気が涌き起こる。
「ふざけるな。私はエレーナの父親だ。はやく出してもらおう」
一歩詰め寄るが、リディアという名の侍女は、背筋を伸ばしたまま冷然と見つめ返している。自分よりも小さいはずの侍女の身体が、途轍もなく巨大な氷壁に見えて、伯爵をそれ以上近づけなかった。
「あなたの娘は、もはや存在しないとお答えしました」
「エレーナが、ここにいるはずだ!」
伯爵の声は、抗議のはずだ。しかし、なぜか、それは悲鳴にも似たような声となってしまう。
その瞬間、リディアはクスっと笑ったのだ。それは「断罪」の声色だった。
唖然とする伯爵に「まだ、お分かりにならないとは」と冷笑が返ってきた。
「いったい、それは」
「我が主、エレーナ様と閣下の親子関係は、すでに解消されております」
「なんだと?」
何を言っているんだ、と伯爵は思った。あるいは、自分の聞き間違いではないかと思おうとした。
しかし、リディアは、表情を変えてないまま、ダメを押すように言った。
「親子関係は、解消されておりますと申し上げました」
「バカな。親子関係の解消など、できるわけがない」
アウレリア王国において、それは事実だった。貴族家の「血筋」とは貴族制度の根幹に関わること。婚姻や養子ならまだしも、生きている家族同士が「関係を解消する」など前代未聞。
仮に、あるとしたら、国王による特別な承認が必要なはずだ。
――官僚としての伯爵は、それを熟知している。
しかし、冷然とした笑みを浮かべながら、リディアは、丁寧な言葉で説明した。
「我が主ご夫妻より国王陛下に、かねてより願い出ておりました。この度の『特別なご褒美』としてご許可いただいきました」
「特別な褒美で親子関係を解消だと?」
ありえない、ありえない、ありえない、ありえない。そんなことはありえない!
ヴァルツ伯爵は、官僚として法制度については、誰よりも詳しいと言う自負がある。
「死別以外で親子関係を解消した話など、王国史の中ですら、ないのだぞ」
しかし、侍女は「閣下も、ご自身の耳でお確かめになったはずです」と、にべもない。
「なんのことだ。そんなことはひと言も聞いてないぞ」
「昨日の夜会で、陛下が宣言なさっていらっしゃいます」
昨夜の夜会?
国王の言葉が、脳裏に蘇る。
――さすが、セシリア・エーデルシュタインの娘であると、予も嬉しく思った。
目を見開いた。
満場の貴族達の前で、自分はエレーナの父親であることを否定されていた……
伯爵は、言葉を喪った。
そのショックを十分に見極めるだけの間を取ってから、リディアは、一枚の封筒を差し出した。
「エレーナ様からです」
「これは?」
その目が、中身を見ろと告げている。
手紙とすら言えない一枚のメモが入っていた。会計士の名前。そして「伯爵家の裏帳簿を持っている」と短い言葉が添えられている。
「エレーナ様は、家計を任されておりました」
あの年齢で? とっさに、何歳と思い出せない自分を呪う余裕すらなかった。
「そんな重責を担えるはずがない。エレーナはリセにだって行ってないのだぞ」
エレーナは「リセにも行きたがらない怠惰で、不出来な娘」と報告されていた。それが伯爵家の会計を任されるなど、あり得ないと思った。
「我が主が、どれほどの才を持ち、どれほど優れた方なのか。恐れ多くも、両陛下がお認めになっていらっしゃることです」
ガクリと、膝から崩れ落ちそうになるところを、辛うじて押しとどめたのは、最後の矜持だ。
「エレーナは、不出来な……」
首を振りながら、最後の自問自答にすがる伯爵と、それを冷たく見下すリディア。
しかし、自分に問いかけるまでもなく知っていた。
伯爵家の家計を回すなど、けっして「不出来で怠惰な娘」にはできないこと――自分が信じた「報告」は、信じてはならぬものであった。
オデットの娘の部屋の様子が頭に浮かび、そして、あのガランとした、あの部屋が浮かんだ。
全ての歯車が噛み合った。
伯爵は、全てが理解できてしまったのだ。
もう、どんな言葉も浮かばなかった。
その肩をガクリと落とし、背を丸めた。
しかし、侍女はさらに追い打ちを掛けてきた。いや、初めから予定されている言葉だったのだろう。
「家計を任されたと言っても、ごっそりと消える予算を前提にしてのこと。実際には、その会計士が金銭のやりとりを操っていたそうです」
オデットの実家の会計士だという人物が管理している裏帳簿を見れば、伯爵家の金が、どこへ流れたのかわかるのだという。
その説明を半ば聞き流しながら、伯爵は、涙にかすむ目で、メモの一番下を見ている。
美しい文字で記されていた。
「幼い頃の思い出への、最後のお返しです」
伯爵は、しばらく、その文字を見つめていた。
やがて、メモを丁寧に封筒に戻すと、もう一度だけ侯爵邸を見上げた。
だが、もう、何も言わなかった――言えなかったのである。
馬車に乗った伯爵はポツリと言った。
「……戻る」
静かに走り出した馬車の中で、伯爵は、膝の上で拳を握りしめた。
自分が壊してしまったものの重さを噛みしめながら。




