第74話 汚された思い出
この時の伯爵の姿を見た者がいるとしたら、正気を疑ったはずだ。
古びた、汚い、幼児用のコップを大事そうに両手で抱えたまま、格式のある貴族服を纏った紳士が、ポロポロと涙を落としているのだから。
「セシリア、セシリア…… すまなかった。セシリア」
愛する人を喪った悲しみに打ちひしがれて全てを捨ててしまった。セシリアと自分とのつながりである大切な宝石――エレーナの存在をないがしろにしてしまった愚かさ。
それは怒りの前に生まれた、深い悲しみであった。
しかし、その感情に飲み込まれたのは、束の間であった。
ハンケチで涙を拭った後の伯爵の顔は忿怒によって、変貌していたのである。
「オデットと、その娘を連れてきなさい。今すぐ」
静かだが、ゾッとするほどの冷たい声であった。
「はいっ!」
奥様の鞭は怖いが、目の前の男の静かな目の方が怖かった。
脱兎のごとく、走り出したのである。
伯爵は、わざとメイド階段をたどって二階へと戻った。
「クラリス様! 旦那様がお呼びです!」
部屋で騒々しいやりとりのあと、バタバタと階下へと向かった二人。
それをそっとやり過ごして、今出ていった部屋を、カチャリと覗いてみた。
目が潰れるかと思うほど、毒々しいあれこれ…… 新奇のアクセサリーだの、色違いの似たようなドレスに、溢れるほどの家具。
ため息をつく。
考えるまでもない。自分が家に帰らないばかりに、我が家に何が起きたのかは明らかだった。
かくして、ヴァルツ伯爵が、再び、あの暗い部屋へと戻ったのと、母子が連れ立って現れたのは同時だった。
最初は甘えた声を出していた娘も、冷然とした伯爵の態度に思うところがあったのだろう。しまいには「お母様に言われたとおりにしただけ」という意味のことをギャアギャアとわめき立てる。
一方で、ひたすら「違います、違います。誤解でございます」と頭を下げ続けるオデットが、頭を下げ疲れた一瞬に、冷静な言葉を挟み込む。
「エレーナを、この部屋に入れたのは、お前だな?」
「そ、それは、あのぉ、こんな部屋になるとは知らなくて……」
「このコップに見覚えは?」
覗き込むように見定めるオデット。その横から覗き込んだクラリスが「使用人が使ってた汚いコップに何かあるんですかぁ」と、こともなげにした瞬間、全てはどうでも良くなった。
怒って見せること自体、いや、目の前にいる存在に言葉を使うこと自体が虚しくなったのだ。
百万遍の怒鳴り声よりも、伯爵にとっての最終通告を突きつけるだけにした。
「お前たちは、セシリアの思い出を汚した」
それで十分と思えた。
直ちに、邸から立ち退くことを突きつけた。手荷物も何も一切許さない。
腕を掴んで玄関まで引きずるように連れて行き、放り出すように戸を閉め、自らの手で鍵を掛けた。
何かわめいていたが、そんなことは知ったことではない。
伯爵は振り向きもしなかった。
残っている使用人たちを、さっきのメイドに集めさせた。
「四人だけか」
さすがに驚いた。だが、どうせ誰もいない家だ。四人でも多いのかもしれない。
「留守にしていたな。私がこの家の主だ」
それだけの言葉に、誰も返事をしなかったが、皆が深く頭を下げた。
まず、現状を調べ、家政を立て直すべきだ。理性はそう告げている。しかし、心が、それを許さない。
セシリアの宝物を、疎かにしていたという事実は、何よりも重かった。
「エレーナ」
思わず口をついて出た名前。会話をしたのはいつだっただろう――記憶になかった。
「……すまない」
その言葉は、果たして、エレーナに向けてのものだったのか、亡き妻へのものだったのか、伯爵本人にもわからない。
伯爵はコップを両掌で包み込むように持ちながら、たった一人の男――先ほど見かけた、みすぼらしい身なりの男――に命じた。
「馬車を用意しろ」
「どちらへ?」
「アルヴェイン侯爵邸だ」
しかし、その男は「申し訳ありません」と頭を下げる。
「何がだ?」
「馭者が辞めてしまって、馬車を動かせねぇです」
それから、呼びに行かせた辻馬車に乗るまで、暫く待つことになった。その時間を利用して邸の中を歩き回る。
「君がいた時は、全てが生き生きと整っていたのに」
セシリアがいてくれる我が家が自分の居場所だった。職務はきちんと果たしたが、全ての用件をできる限り早く仕上げて、帰ることに血道を上げた。
家にいる時間は、自分にとって幸せを体現してくれた。
温かく、静かで、落ち着いた――笑顔に満ちた家だった。
けれども、今ある、ここは、いったいなんだ。つま先で、趣味の悪い応接イスをコツンと蹴飛ばす。
自分は、この家に何年戻っていなかったのか。そして、その間に、セシリアの家が踏みにじられていた……
後悔という言葉を使いたくない。だが、それ以外の言葉が浮かばないのも事実だった。
やがて馬車が到着し、一言も発せずに乗り込んだ。
「侯爵邸へ」
馬車は静かに動き出し、ほどなくして、到着する。
プレートも掲げてないただの辻馬車だ。けれども、門番は直ちに門を開けてくれた。
まるで、待ち構えているかのように――いや、実際に、伯爵の到着はわかっていたのだろう。
馬車廻しに停めると、すぐさま、大勢の者がテキパキと迎え入れる態勢を整えた。
ステップから降りると、そこには、先ほど会った、あの侍女が待ち構えていた。
「お早い到着でいらっしゃいますね」
冷え冷えとした空気を隠しもしない侍女の言葉に、伯爵は返す言葉が見つからなかった。




