第73話 幸せな幻
馬車は、ヴァルツ伯爵邸の前で止まった。馭者が「旦那様」と声をかけてきた。
「なんだ?」
「門が開きません」
「なんだと」
窓の外を見て眉を寄せた。門が閉まったまま。門番は見当たらなかった。
「一体全体どうしたもんでしょう」
御者が首をかしげる。
「開けてくれ」
チップを渡して頼むしかないが、怒りと言うよりも、困惑が頭を占めていた。
伯爵家の門が、無人であるなど、考えられなかった。
馬車はゆっくりと敷地へ入り、馬車廻しへ向かう。
しかし――
誰も出てこなかった。
伯爵は、つい先ほど訪れた侯爵邸のキビキビとした使用人たちを思い出さずにはいられない。
我が家にはフットマンも、従僕も侍女も、誰一人見当たらなかった。
伯爵はしばらく待ったが、やはり、誰も出て来ない。馭者にステップを出してもらい、自分で扉を開けて降りるしかなかった。
二歩、三歩と踏み出したとき、屋敷の影から、みすぼらしい男がふらりと現れて、胡乱な目を向けてきた。
「誰だ、お前」
伯爵は思わず眉をひそめた。
「私が誰かだと?」
男はじろじろと伯爵を見て、吐き捨てるように声を出した。
「また貴族かよ。借金の取り立てなら、もう何もねぇぞ」
伯爵は一瞬、言葉を失ったが、さすがに声を張り上げずにはいられなかった。
「私はアルベルト・ヴァルツ伯爵、この家の主人だ!」
男は目を見開くと「ヤベッ」と声を上げて、屋敷の裏へと逃げていった。
伯爵は、男の消えていったあたりを見たまま、呆然と立ち尽くすのみ。
「何だ、あれは」
理解できない。しかし、誰も出てこない以上、自分で入るしかないのは明白。
玄関の扉を押し開けたが、妙に静かだった。
奥の廊下の方に、所在なげな人影が見えた。
「誰だ?」
歩み寄ると、メイドだった。
もう若くない年に見える。
「旦那様……」
相手は、自分がわかるらしい。
この顔はどこかで見覚えがあるぞと、記憶を探る。
そうか。思い出した。
仕事は遅く、気も利かない。物忘れも激しい上に病弱。年中熱を出していたメイドだ。家の中に目が行かない自分ですら、かつて「あのメイドはさすがに」と追い出そうとしたことがあった。
しかし、セシリアは言った。
「うちを追い出したら、雇ってくれるところはないでしょう。気の毒です。それに、正直者ですから」
そんなことで置いておくのかとは思ったが、家内のことは、妻に差配を任せている。セシリアが庇う以上、そこに口を出すべきではない。
だから、それ以来口出しをしていない、というよりも、すっかり存在を忘れていた。
そのメイドだった。
「いったい、何をやっている」
メイドはびくりと肩を震わせた。
「もうしわけありません。何をどうしたらいいのか、わからなくて」
相変わらず、役に立たないメイドであるらしい。しかし、そんなことにこだわっている場合ではないと思えた。
なにしろ、玄関が開いたというのに、誰一人対応に出て来ないのだ。むしろ不気味ですらある状態の我が邸。
「誰もいないのか?」
「いえ、そんなことはないですが……」
さらにゴニョゴニョと答えようとしていたが、最後まで聞く余裕はなかった。
異様な状態にある邸を見てしまった以上、エレーナの部屋を見るのが先だった。
「話は後で聞く」
言い捨てると階段を駆け上った。さすがに「娘の部屋」は覚えている。
右に曲がって奥。
ゆっくりと本が読めるように、と一階に客が来ても響かない、静かな場所を選んだ。そこに、落ち着いた煉瓦色のドアを取り付けさせたのはセシリアだった。
あった。
記憶よりも、くすんだ色になっているが、間違いない。
いったい何がある?
ドアノブも、子どもが手を掛けやすいようにと、滑らかなカーブを持たせた特製の……
ん? ドアノブが変だ。
あの日、嬉しそうにセシリアが開けて見せた記憶とは違う、安っぽいノブ。
むしろ、伯爵家に、こんな粗悪なノブがなぜ存在するのかというレベルだが、そんなことを詮索するよりも中を見る方が先。
ガチャ
「……なんだこれは?」
唖然、と言う言葉はこの時のためにあったのだろう。
そこは物置だった。
箱、箱、箱。いくつかの棚に、雑に置かれているのは見慣れない飾り物。高価な物であるらしいが、伯爵が見ても趣味が悪い。
様々な物が雑然と積み上げられ、片側には数々のドレスがぎっしりと下げられていた。
「エレーナがこんなものを」
自分の娘がこんなに趣味が悪かったとは、と唖然とする。しかし、その前に、この部屋には生活感が全くないのが気になった。
何となくほこりっぽさもある。
おそらく、ここは物置に違いない。
「そこは、お嬢様のお部屋ではありません」
さっきのメイドが付いて来たらしい。
「何だ、この荷物は」
「それは、クラリス様のお荷物です」
「クラリス?」
先日、職場にやって来た、不埒な娘の名が、なぜ、ここで出てくるのか、サッパリ理解できない。
しかも「様」付けだと?
意味はわからぬが、それよりも「じゃあ、娘の部屋はどこなのだ」が頭に浮かんだ。
「エレーナの部屋へ連れていけ」
メイドの顔色が真っ白になった。
「それは……」
「さっさと連れて行け」
伯爵の声が冷たく響くと、オドオドした姿で背を向けた。
「……こちらです」
着いていくと、メイド階段を降り始める。
使用人だけが使う動線だ。
「おい、この先はお前たちの部屋しかないだろう」
別の場所に連れて行くつもりか。相変わらず使えないメイドだと腹を立てたが、悲しげにこちらを見上げてきた。
「お嬢様がお過ごしになった部屋ですよね?」
「そう言っている。エレーナの部屋だ。わかるな?」
使えないメイドが、何を誤解しているのだ。
「お嬢様のお部屋は、こちらが正しいです」
「こんな場所に、娘の部屋があるはずがない」
半ば怒鳴るようにしても、メイドは、黙って奥へと進んだ。
やがて、立ち止まったのは、何の変哲も無い、いや、最下級のメイドを置くような場所だ。
「こんなところに、いったい。私はエレーナの部屋と言ったはずだぞ」
しかし、メイドは黙って首を振って見せた。
「本当に、ここがエレーナの部屋なのか?」
ギュッと目をつぶってから、メイドが頭を下げる。
いったい、何の間違いなのだと思いながら、伯爵は扉を開けた。
そして、眉をひそめた。
「……これは何だ」
人が過ごす部屋とは思えないほどに狭い。そこに粗末な板敷きの寝台。奥には、小さな机が一つ。
「バカな。こんなところで暮らせるはずが……」
ドアのそばには木製の粗悪な洗面器。乾ききった底には、ぼろきれのように擦り切れたタオル。
一歩、二歩と入った時、机の上にあったモノが目に入った。
古びた、小さな、小さなコップだ。
「これは……」
幼児用のコップ。
縁が欠け、表面の絵もほとんど剥げ落ちている。
だが、見覚えがある――
エレーナが、やっとコップで水を飲むことを覚えた時のこと。
「ほら、この子は、もう、コップでお水が飲めるんですよ。ああ、エレーナってば、ほんとうに、じょうずでちゅねぇ~」
笑顔のセシリアが宝物のように娘を膝に抱きかかえていた。
エレーナが危なっかしくコップを持っているのを、心から嬉しそうに支えている、幸せだった記憶。
――あのコップだった。




