第71話 予定不調和
夜会の翌朝。
ヴァルツ伯爵は、いつもの時刻に起き、いつものように執務室へと入った。
「今朝は、王宮全体がたるんでいるな」
食堂に行っても、注文しておいた朝食は用意されていなかった。できあがるまで、じっと待つ。
そもそも、水差しの水も補充されてないし、朝一番に届けられるはずの洗面用の湯も、いつまで待っても届かない。
ありえない。
なんたる時間の無駄遣い。
通りかかった王宮メイドを捕まえて、厳重に注意しておいたが、頭を下げられただけだった。
移動の時間を含め、思わぬ時間を取ってしまった。
――食事くらいなら我慢もできる。だが、さすがに、これは我慢ならん。
遅くなった分、部下たちは、すでに揃っていた。
それは良い。
だが、本来は、朝一番に決済すべき書類を提出するはずなのに、誰も用意していなかった。
未決、と書かれた空っぽの箱を見ると、奥歯をギッと噛みしめてしまった。
なんたること。全く整ってないではないか。
苛立たしく思いながらも席に着く。部下たちは誰も目を合わせてこない。
しかし、座った途端、部下たちは次々に書類を持って来た。
ふむ。私がいないことで、手順が狂ったのだな。
それなら、こちらが遅れたという事情もある。部下を責めるだけではなく、寛容の心も上司の持つべきもの。
不機嫌さを押し隠して、書類を受け取った。
ん?
「これは、何だね」
「諸事情がありまして。しばらくの休暇をいただきたく、お願いいたします」
書類の形式は整っていた。緊急の仕事は、目下のところ存在しない。書式の整った休暇の申請は、認めるしかなかった。
「わかった」
サインをして「既決」の箱に入れた瞬間、部下たちが先を争うようにやってきた。
「休暇を申請いたします!」
「全員かね?」
部下たちは一斉にコクコクと頷く。
なんたること……
深く息を吐く。こうなってくると、最初の「許可」をしてしまったことが恨めしくなる。
書式の整った休暇申請を「先に出した者」だけ認めるわけにもいかない。だが、部下全員に休暇を出すわけにもいかない。
「少し考えさせてくれ」
部下たちは、休暇を引っ込める気は無いらしい。しかし、その時、一番古手の者が、おずおずと申し出た。
「具申いたします」
「なんだ?」
「いっそ、伯爵閣下が休暇をお取りいただき、残りを我々で考えるのはいかがでしょうか?」
「それは、いったい、どういうことかね?」
まるで自分が邪魔だと言いたいみたいではないか。伯爵は理解できなかった。
「いえ、どういうことかとおっしゃいましても、その……」
不思議な申し出に困惑しているところに、連絡用の下吏がノックをして入って来た。
「今、手が離せないのだ。後にせよ」
しかし、下吏の必死の形相を読み取ったのだろう。部下の一人が気を利かせて、一通の封書を受け取った。
「奥様より大至急とのことだそうです」
「うむ」
たとえ、契約しただけの「家庭管理者」に過ぎなくても。立場は正式な「伯爵夫人」である。下級役人にとって、それを断れるはずがない、ということくらいは理解をした。
黙って受け取った封筒の封を切り、ざっと目を通す。
短い手紙には「使用人たちが辞職を申し出ております」との走り書き。
ほんのわずか、眉が動いた。
「この程度のことが、大至急だと?」
不機嫌に不機嫌を重ねたヴァルツ伯爵は、さらに目を進めた。
コックが辞職。洗濯係が辞職。ハウスメイドも全員辞職。
短い文面の中に、辞めた者達の職種が書かれている。
「確かに一度に、これだけ辞めるのは問題ではあるが……」
辞めた者達の名前を数えると十四人にもなる。
そのため、家政が回らないと書いてある。
――大げさすぎる。
伯爵家で働く者は、五十をくだらないはず。十四人も辞めれば、確かに困るだろう。だが、それが「緊急」のはずがない。
不機嫌と言う言葉の前に「不可解」が加わった。
ヴァルツ伯爵は、手紙を机に置いて、部下たちを見回す。
「諸君、私が本日休暇を取ったら、残りで、仕事を回せるかね?」
驚くべきことに、全員が、なぜかホッとした顔で「はい」と返事をした。
この返事にも「不可解」と思いつつ、ヴァルツ伯爵は、何年ぶりかで休暇を取り、家路についたのである。
なお、最初に休暇申請をした者も含めて、全員が、いつものように執務に就いたことを、伯爵は最後まで知らなかった。




