第70話 王国の新しき施策
静寂に人びとが戸惑いを感じる前に、演奏が再開された。
曲調が、先ほどまでの軽やかな旋律から、重厚で、荘厳な調べとなったのである。
会場の空気が、一瞬で張りつめた。
誰もが理解した。
これは――国王陛下、あるいは王太子殿下入場の合図である。全員が背筋をクッと伸ばして目を見開いた。
式典官が、声を張り上げた。
「諸賢よ、謹んで拝聴されたし!」
会場のすべての視線が、大扉へと向かう。
「アウレリア王国の輝ける太陽であらせられる国王陛下、ならびに王国の荒鷲・王太子ルシウス殿下、王太子妃カトリーヌ殿下のご入場である!」
大扉が、ゆっくりと開かれた。
重厚な楽曲の中、国王が姿を現すと同時に、舞台中央から、そっと下がろうとする侯爵夫妻。
そして――可憐な妻を包み込むようにして、押しとどめる王妃の動き。
国王の後ろには、豪奢な金髪を輝かせた王太子ルシウス、そして王太子妃が続いていた。
会場の全員が、一斉に忠誠の礼を取る。
深い沈黙。
やがて国王が侯爵の横に並ぶと、にこやかに侯爵、そして、その妻へと微笑みかけた。
夫妻は、深く礼をし、国王は肯いて返す。次いで、会場に向かって軽く手を上げた。
人々が、一斉に姿勢を戻す。
国王は、まずカシアンに向けて声を上げた。
「カシアン・アルヴェイン侯爵」
低く、よく通る声である。
「危険な任務を遂行し、見事に部下たちをまとめ、全員で帰還したこと、誠に見事である」
会場の空気が引き締まる。
「その勇気と忠誠による活躍は見事。まさに王国の誇りであると思う」
短い言葉だったが、その満足そうな笑顔とともに、重みは十分であった。
人びとは、王の後ろを回り込んだ王太子が、笑顔でカシアン侯爵に握手を求めるシーンに驚愕する。
王は、その姿を二度、三度と頷きながら見つめた。
――次代の王国が、さらに繁栄する。
人びとは、そんな思いで、二人の握手を見つめたのだ。
そして、国王は、視線をエレーナへと移してから、会場を見渡した。
「ここで、さらにめでたきことを諸卿に伝えられるのだと、予は誠に幸福に思う」
国王の最大限の賛辞だ。
しかも、それが向けられるのは……
「エレーナ・アルヴェイン侯爵夫人」
静かに深いカーテシーで受けるエレーナ。
「報告を受けている。そなたは、夫の無事を祈るのみならず、アルヴェイン侯爵領を豊かにしたそうだな。さすが、セシリア・エーデルシュタインの娘であると、予も嬉しく思った」
わずかに戸惑いの表情を浮かべるが「国王の言葉」を否定することは不可能。
「諸卿、そして淑女の諸君。聞いてほしい」
人の良い笑顔を浮かべ、まるで「政治」を感じさせない表情で会場を見渡す国王である。
「エレーナ夫人は領地において、夫を無くした妻、そしてその子どもたちに対して素晴らしい提案をし、また、施策の実施においても、大いに貢献したそうである」
エレーナがハッとした表情を思わず見せた。それによって、会場にいる貴族達は、それが事実であることを確信した。
王太子妃が、そっと寄り添うと、笑顔を向けながら侯爵夫人の両手をギュッと握りしめる姿。
可憐な少女にしか見えない妻が、国王陛下に認められる何かを成し遂げたという事実が、全員に、ヒタヒタと伝わった瞬間だった。
「私が、この場においてクドクドと話していると、ワインが温くなってしまうな」
小さく笑いを誘ってから「ただ、これだけは言っておかねばならぬ」と、表情を引き締めて続けた。
「戦において命を捧げた夫を持つ妻、そして子どもたちを、エレーナ夫人は、慈しむことを考えた。すなわち、子どもを持つ寡婦が就労すること、孤児の保護と教育に関することを考えたのだ」
ざわっと、無言のざわめきで会場が揺れた。
国王は、それを片目で見定めながら続けた。
「その成果は、すでに王宮にも届いている。ひとえに、困窮する人々を救うのみならず、それを取り巻く、領地全体の民の生活を豊かにする優れた施策であると私は思う」
エレーナは、目を見開き、思わず国王へと顔を向けた。
そこに向けた国王の表情は、ひどく優しいものであった。
「予は、その取り組みを高く評価する」
国王は、ゆっくりと会場を見渡した。
「この施策は、アルヴェイン侯爵領だけのものとするには、実に惜しい」
その声には、王としての威厳があった。
「各領においても花開く姿が、近々見られるものと期待している」
特に領地持ちの高位貴族達の顔色が変わった。
ロイヤルブルーを纏った王族が並ぶ夜会である。その場で、国王が「期待する」と明言したのだ。
事実上、アウレリア王国の施策とする、という宣言であると、人びとは受け止めたのである。
――その時、ヴァルツ伯爵は、周囲の気配を見定めて、少々眉を上げた。
心の中で、小さく頷く。
――なるほど。エレーナは陛下に評価されたか。
評価されたのは娘である。官僚としての意識ばかりのヴァルツ伯爵と言えども、父として背筋も伸びようというもの。
しかし、同時に、先ほどの感情も蘇っていた。
――これほどのことなら、もっと早く知らせれば、国王陛下との調整も、もっと上手くできたはずであるものを。
得意と、身内であるがゆえの怒り。その二つが混ざり、伯爵の表情はくるくると、しかし微妙に変わっていた。
その隣に立つ「妻」は、貴族にはあるまじきことに、口をポカリと開けたまま、喘ぐように呼吸をしていた。
伯爵夫妻の見せる姿から、その意味を正確に読み取れた者はいなかった。
しかし、誰もが気付いていたことが一つだけあった。
王妃がエレーナの母の名を呼ぶことは、誰もが当然と思った。だが国王は、その名を何と呼んだのか……
セシリア・エーデルシュタインの娘。
婚姻前の名を、国王が上げた意味に、当の伯爵が気付いたのは、この夜会のもっと後のことであった。




