第7話 白い花のある食卓
食堂へ向かう廊下は、静まり返っていた。
履き慣れないヒールのある靴は、美しいけれど足元が心許ない。
まるで、歩きにくさを知っているかのように、執事の男性とリディアは、私の歩調に合わせて、ゆっくりと先導してくれる。
足音を吸い込むような厚い絨毯。
壁には絵画が掛けられているが、どれも落ち着いた色合いで、主張が強すぎない。
邸の設えは、どこもゆとりがあった。広い。そして、無駄がない。
『ここは、見せつけるための屋敷ではないのだわ』
住む人間を落ち着いて迎え入れるための家。
そんな印象を受けた。
扉が開かれ、食堂に足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。
天井は高く、長い食卓が中央に据えられている。
灯された照明は柔らかく、夜の静けさを壊さない。
花?
食卓の中央に、小さな白い花が生けられていた。
凛とした白。
派手ではないのに、どこか目を離せない。
『綺麗。確かに落ち着いているけど、テーブルに飾るのはどうかしら?』
とっさに、何か意味があると思った。
でも、理由はわからない。ただ、胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
懐かしいような、切ないような、名前のつかない感覚。
「こちらへどうぞ」
案内され、席に着く。
ほどなくして、扉が開いた。
カシアン侯爵が入ってくる。
昼間よりも、どこか緊張が抜けているようにも見える。
けれど完全にくつろいでいるわけでもない。
視線が、わずかに泳いでいるようにも見えた侯爵様。
『まさかね』
堂々たる偉丈夫が、自分の邸で何を緊張するというのだろう。
その目はゆっくり私に向けられると――一瞬、止まった。
何か言おうとして言葉が出て来なかった。
彼は小さく咳払いをして、視線を逸らした。
「とても……似合っている」
それだけ。
短くて、ぶっきらぼうで。
けれど、誤魔化しのない声だった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「ありがとうございます」
そう答えると、侯爵はわずかに頷いた。
食事が始まる。
料理はどれも美しく、香りも穏やかだった。
何より驚いたのは、料理が異様なまでに少量ずつサーブされていることだった。
確かに、コースとなる多彩な品々をすべて食べるため、こういう席での一皿は、少なめとなる。
それにしても、本当に少量だった。しかも、どれも食べやすい形に整えられていたことに、驚いてしまった。
幼い頃に習ったテーブルマナーの知識をフル動員して、粗相がないようにと思った私が拍子抜けするほど。
どれも一口サイズで取りやすいお皿になっていた。
『良かった。これなら食べきれるかもしれない』
長い間、正規のテーブルマナーなど必要とせず「空腹が当たり前」の生活をしていた私は、一度に食べられる量は少ない。
こんな風に、少しずつでなければ、きっと食べきれなかったはずだ。
それに、こんな風に食べやすい形でサーブされていなければ、食べ方一つでも気になっていた。
侯爵様は、前菜のお皿が引かれた後、穏やかな声で尋ねてきた。
「食べづらくはないか?」
「いえ。大丈夫です」
「そうか」
それだけの会話。
けれど、不思議と心が落ち着いていく。
ほんの少量。侯爵様でなくとも、男性が食べるにはきっと足りないはず。
しかし、私の食べるペースに合わせるように、気品ある動きで食べ続ける侯爵様だ。
メインのお皿が引かれた時、ようやく私も少しだけゆとりが生まれた。ふと、また白い花に視線が向く。
「……その花」
思わず、口に出ていた。
侯爵様は一瞬、言葉を探すように視線を伏せる。
「テーブルにはあまり飾られない花かもしれないが、あえて私が命じた」
「侯爵様がですか」
自ら、テーブルの花を指定するなんて。
「ああ」
それ以上、説明はなかった。
けれど、その声音には、どこか大切なものを扱う慎重さが滲んでいた。
『ただの飾りじゃないんだわ』
そう感じるには、十分だった。
食事が終わり、席を立つ。
廊下を戻る途中、侯爵が足を止めた。
「今夜は」
一瞬、言葉が途切れる。
私は、無意識に身構えていた。
けれど、彼は視線を逸らしたまま、低く続けた。
「今日は、休め」
「……はい」
「長旅だった。慣れぬ環境で無理をする必要はない」
それは、命令ではなく。
言い訳のようにも聞こえた。
「ありがとう、ございます」
侯爵は、わずかに頷いただけで、そのまま歩き出した。
来たときと同じようにリディアと執事に先導されて部屋に戻った。
「今夜は、ゆっくりお休みくださいませ」
声を落として、続ける。
「ここでは、誰も、奥様を責めません」
その言葉に、喉の奥が詰まった。
「ありがとう」
それだけで、精一杯だった。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
今日一日で、あまりにも多くのことがあった。
怖かったはずなのに。
不安だったはずなのに。
胸の奥に残っているのは、奇妙なほど静かで、確かな温もりだった。
白い花が、脳裏に浮かぶ。
『ここでなら』
まだ言葉にならない思いを抱えたまま、
私は、静かに目を閉じた。




