第69話 王妃の夜会
壇上へと続く大扉から王妃が静々と現れた。
大きな拍手の中で、人々は、自然発生的に「ほぅ~」とため息をついた。
美しさもさることながら、紫に近い深い青――王室の青をあしらったドレス姿だったからだ。
王妃様主催の夜会は「非公式」扱いだけに、この場にロイヤルブルーが登場することはめったにない。
人々は察した。
――この場を公式の場と心得よ。
しかし、意図を察したからこそ、人々は訝しんだ。
王国の英雄であるアルヴェイン侯爵の果たした使命は、それほどに重いのだろうかと。
笑顔の王妃は、正面中央で、最初の声を上げた。よく通る、澄んだ声であった。
「みなさん、ごきげんよう」
タイミングもピタリと合う、一斉のカーテシーと忠誠の礼とが、衣擦れの音をザワリと響かせる。
王妃は、全員の姿勢を戻すことを目で促した後、型どおりの言葉で始めた。
「本日は温かいご臨席に深く感謝いたします。今宵、皆さまとこの場を共にできることを心より嬉しく思います。」
そこから、王宮に咲き始めたマリーゴールドの話にサラリと触れ、王都の民が安寧に暮らせるのも諸氏の努力によるものだ、と述べた後で、王妃の言葉が切られた。
「さて、ノブレス・オブリージュを心がけるのは、我々の責務ですが、いざ、自分が安楽にいると、民のために命を掛ける決意は、ともすると鈍りがちとなるのは、常に心しなければなりません」
王族のアルカイックスマイルではない、心からの笑みを浮かべた王妃は、一歩右へと動いた。
「美しく、賢く、そして民を思う素晴らしい妻を得たばかりなのに、二月もの危険な任務を果たされた、敬うべき方をご紹介できることを、心から嬉しく思います」
楽団が、軽やかな曲を静かに奏で始めた。
式典官が声を張り上げた。
「諸賢よ! アウレリアの白き花々が咲き誇るを見るがごとく、傾注されたし。我が国が誇る英雄カシアン・アルヴェイン侯爵閣下と、その麗しき新妻エレーナ侯爵夫人、ご入場である!」」
再び、舞台上の大扉が重々しく開かれると、巨躯の侯爵と、その左手に、そっと右手を乗せた、可憐なとしか形容できない妻が、静かに現れたのである。
一斉に、どよめき、そして万雷の拍手が鳴り響いた。
その瞬間、わずかに身を硬くした妻をいたわるように、顔を傾けた侯爵。
初々しい妻と、それをいたわる夫、という仕草だ。拍手の中でも、会場の至る所から聞こえた。「おぉ」と「まぁ」と「はぁ」という感嘆と憧れの声。
人々は、一目で、王国に誕生したカップルに魅了されたのは当然であっただろう。
拍手が静まるのを待って、王妃はゆっくりと二人を壇上の中央に寄せ、共に並んだ。
会場を見渡す王妃コルネリアの瞳には、柔らかな光が宿っている。
「カシアン・アルヴェイン侯爵」
その名を呼ぶ声は、優しく、そして誇らしげであった。
「王国は、あなたの忠誠と勇気を忘れることはありません。危険な任務であることは、誰もが承知しておりました。それでも、あなたは一言の躊躇もなく、それを引き受けた」
会場の貴族たちが静かに頷く。
王妃は続けた。
「そして、見事に務めを果たし、同行した兵も全て無事に連れ帰った。王国の民を代表して、心より感謝いたします」
再び拍手が起こる。
だが王妃は、その拍手を静かに手で制した。
そして、今度はエレーナへと視線を向けると、慈母の笑みを浮かべて呼んだ。
「そして、エレーナ」
王妃が、あえて名だけを呼んだ。その効果は劇的であった。
この場には、王都でも社交会において、それなりの立場を持つ者が多かった。その意味を直ちに理解した。
すなわち――エレーナは、王妃様の娘同然であると宣言されたということ。
人びとの驚愕の目を、笑顔で流しながら「そうですね」と人びとに応えるのを忘れない王妃。
「みなさまもご存じの通り、若くして身罷られた古い友人がおります。今宵だけ、友の名を呼ぶことをご寛恕くださいな」
王妃主催の非公式な夜会である。
――なるほど。家名にも気を使ってくださるのか。
名誉となる場面では、家門に触れるのも当然であるため、人びとは、素直に受け入れた。
「セシリア・エーデルシュタイン」
親友の名を、天に向かって呼びかける王妃。
「あなたがあの日、王宮に連れてきた、あんなにか弱い幼子が、これほどまで、素晴らしい方に育ったわ」
貴族達は思い出していた。
目の前の侯爵夫人が、かつて王妃の隣で笑っていた親友、エーデルシュタイン公爵令嬢の娘であることを。
「ありがとう」
天上にいる友に、感謝の言葉を捧げた後、エレーナの肩にそっと触れてから、澄んだ声を響かせた。
「貴族の妻であるということは、ただ夫を支えるということではありません。時に、愛する人を危険な地へ送り出す覚悟を持つことでもあります」
会場の空気が、微妙に変わる。特に、ご婦人方は、わずかに目を閉じたのである。
「あなたは、まだ新妻でありながら、その覚悟を持った。二月ものあいだ、夫の無事を祈りながら、領地を守り、民を守った」
王妃は微笑んだ。
「その心の強さは、誇るべきものです」
エレーナは深くカーテシーをした。
会場のあちこちから、静かな感嘆の声が漏れる。
人々が「次」を待った、その時だった。
王妃が口を閉じ、一つ頷いて見せたことを、人びとは目にした。
そして楽団の音楽が、すっと止まり、会場に沈黙が生まれた。




