第63話 咲いた花
私を満足げに見守っていた旦那様は、一瞬マルセルと目を合わせた後で、少しだけ首を傾けて尋ねた。
「王妃宮に仕えるマァサという侍女に心当たりは?」
母と王妃宮に行くと、必ず、横で笑顔を見せてくれたグレーの髪の落ち着いた侍女を思い出した。
母との楽しい思い出の中で、その優しい眼差しと声を、今でも覚えている。
「子どもの頃ですけど、たぶん、知っている方だと思います」
「王妃宮の侍女頭だそうだ。この手紙を持って来た」
「確か、侍女頭を拝命したというのは、聞いたことがありますけれども、マァサが手紙を届けてくれたのですか?」
最初に思ったのは「ありえない」だった。
王妃には大勢がお仕えしている。その王妃宮の侍女達を取り仕切る役目だ。
王妃様が外遊され、長期の不在となっても、王妃宮に混乱がないように手綱を握る存在が侍女頭の務め。
けっして表の政治には口を挟まないけれど、数日の不在でも、王妃宮全体が混乱しかねない、大事なお役目の人。
そんな人が、ただ手紙を届けるためだけに来るなんて。
「おそらく……」
くっと、唇を噛んでから言葉を続けた。
「王妃殿下は、誠意をお見せになったのだろう。王妃宮の侍女頭が渡してくる手紙なら、形式上『あくまでも、内々だ』と見せられるからな」
マルセルが目で旦那様に断ってから、静かな声で申し添えてきた。
「愚考いたしまするに、奥様のご事情に合わせて『自由に使え』ということが含まれるかと存じます」
マルセルの言わんとすることは、すぐに理解できた。
社交をしたことがない、どころかリセにもいかなかった私だ。王都に呼び出されて不安なこと――服装やマナー、常識など――を自由に尋ねれば良い。つまりは教師役として派遣されたということなのだろう。
しかも、子どもの頃、私に会ったことがある人。そう…… 王妃様と仲の良かった友人の娘として、見てくれる人だ。
「私には優しくしてくださった印象しか覚えておりません」
「だから、使者に選ばれたのだろう。王が公式に君を呼び出すという話なら、蹴ることもできるというのに」
「旦那様」
さすがに、それは恐れ多いけれども、旦那様の声は、少しも気負ってないのが、逆に怖い。
――きっと、なんでもない顔をして、本気で断るに違いない。
「王妃殿下が、最大限の敬意を見せている以上、君の意思を尊重するとしよう」
私は「ありがとうございます」と、頭を下げた。
「招待を受けるんだな?」
「はい」
ふぅ、と一つため息をついた旦那様。
「残念ながら…… 返事を書くとしよう」
本当に、残念そうな声を出してから、マルセルを見た。
「出立は一週間後とする」
「御意」
「準備は任せて良いな?」
「はっ。リディアは同行させますか?」
「もちろんだ。何一つ不自由がないように、頼むぞ」
マルセルの恭しい笑顔が私に向けられた後「お任せください、奥様」と頭を下げたのだった。
「その間に、君は、そのマァサと何でも話すと良い。聞いてみて、少しでも必要だと思ったものは、なんでも言ってくれれ、揃えよう」
私は「はい」と返事をしながら、ちょっと気を引き締めた。
この調子だと、うっかりしたことを言ってしまうと、大変なことになりかねないと思えてしまう。
でも、正式な社交について経験も知識も無い私だ。いろいろと必要な物はあるかもしれないと、そのお気持ちがありがたかった。
「では、仕方ない。手紙を書くか」
王妃様へのお返事だから、領主自ら書くのは、当たり前のこと。
「それほど時間はかからないと思う」
「はい」
「それまで、君は」
「横にいてはお邪魔になりますか?」
旦那様の瞳に喜色が浮かんだ。
「そんなわけがない」
「それでは、手紙を届けてくれたマァサに挨拶をしてから、執務室に行って…… そこで、お茶をお入れしてもうよろしいですか」
「マルセル」
旦那様は、私の目を見つめたまま、優秀な家宰の名を呼ぶ。
「はい」
「部屋に行くぞ。すぐさま手紙を書かねば」
「それでは、お茶の用意をして、後で参りますね」
「うむ。待っている」
そして、慌ただしく踏み出してピタリと停まった。
「そうだ……」
「はい」
「手紙など、大して時間はかからない。書き終わったら」
「はい」
「侍女頭との話はさておき、まずは一緒に領内を見て回ろう」
「点検でしょうか?」
良き領主は長期の不在をしたときは、領内を巡検するのは務めとされている。
「いや。この目で、君と一緒に見てみたいんだ。領内に咲き始めた花たちを」
私がしたことを、旦那様が「領主として」確信を持って受け入れてくださったことが、胸に落ちた瞬間だった。
「はい。ぜひとも、お願いします」
午後の日差しを受けた侯爵家の馬車は、民たちの心からの歓迎で受け入れられたことを、私は、きっと忘れないだろう。




