第62話 夢の続きの先
朝食を終えても、なんだか部屋を出るのが惜しかった。そして、シアンは、私を離すものかと考えているのがヒシと伝わってくる。
同じ部屋で、同じ時間を過ごしているだけなのに、昨日までとはまるで違う。
それが不思議で、少しだけくすぐったい。
ずっとベッドで過ごすのも悪くないとは思った。目が覚めているのに、シアンの腕の中にいると、夢を見ているみたいだ。
でも、ただ腕の中にいるよりも、シアンとふたりで何かをしたかった。
そっと首を傾けて「そろそろ起きませんか?」と、小さな声。
駄々っ子のように「いやだ」と首を振っては、キュッと抱きしめてくる。
そんな繰り返して、いつの間にかお昼になっていた。
長い視察から帰ってきたばかりの侯爵様だ。仕事が溜まっていて、当然のこと。
マルセルも、きっと困っているだろう。私は、仕方なく――本当は、すごく嬉しい――約束を申し出る。
「今日からは、こちらで寝ます」
シアンの瞳が輝いた。
「でも、昼間も私が独占してしまうと、来にくくなりますから」
輝いた瞳が、瞬時に、ショボン、としてしまって、切なくなるけど、嬉しいって思っている私がいた。
「わかった。レナが、そう言うなら」
そこから、二人は身なりを整える。寝室は、ドア続きで私の部屋に戻れることを、昨夜、初めて知ってしまった。
廊下とは別のドアがあることは知っていたけど「その先は」を考えたことがなかった自分が、恥ずかしい。
考えてみれば「妻」の部屋と夫婦の寝室が続き部屋なのは、当たり前の造りなのだから。
――つくづく、私には「妻」の自覚が足りなかったんだわ。
いろいろな意味で、今日から、何かが始まる、そんな気持ちになれた気がした。
部屋に戻れば、リディアたちが、湯浴みから着替え、化粧まで、あれこれと世話を焼いてくれる。
私室に行った時、シアンは、すっかり身支度を整えて手紙を読んでいた。
マルセルが横に控えていた。いつもの謹厳実直な姿のまま、恭しく、私に頭を下げてきた。
その表情には、昨日、見せなかった、ホンワカした雰囲気がある――と思えた。
そして、立ち上がったシアン。
広い肩幅と、背筋がピンと伸びた貴族服姿は、どこからどう見ても、有能で毅然とした貴族家当主にしか見えない。
それなのに、さっきまで私の隣で「いやだ」と駄々をこねた人と同じ人だと思うと、胸が少しだけ熱くなる。
「どうした」
声をかけられて、慌てて視線を逸らした。
「いえ……なんでもありません」
嘘だった。
たぶん、顔に全部出ていたと思う。
シアンは何も言わなかったけれど、ほんの少しだけ目元を緩めていた。
それだけで、私の胸がまた騒がしくなる。
そのすぐ横の椅子が引かれて、私は、軽く会釈して座る。
なんだか、とても自然に思える自分が嬉しい。
――でも、ここは二人きりの空間ではないわ。
そう思ったのを見計らっているように「旦那様」の固い声がした。
「今日は忙しくなるらしい」
かすかだけど不機嫌な気配。
「そうなのですか?」
「ああ」
「仕事が溜まっていましたものね」
「そんなものは、どうでもいい。全ては後回しだと、マルセルに言ってあった。手紙も取り次ぐなと言ってあったのだが」
ジロッとマルセルに視線を向けるけれども、恭しいお辞儀で、それを逃がしてる。
それを見定めてから、私の方を向いた。
「さすがに、これは見ないわけにはいかなかった」
「何かありましたか?」
「やはり、来た」
問いかけると、旦那様は書状を軽く振ってみせながら、もう一つの手が私の手をそっと握ってきた。
温かかった。
「王都からだ」
胸が、少しだけ跳ねる。
王都。
その言葉を聞くだけで、昔の記憶が胸の奥に触れる。けれど、もう、恐ろしいとは思わなかった。私の手は、旦那様の大きな手で包まれているのだから。
何も怖くなんかない。
「王妃殿下からの書状だ」
「王妃様から?」
「ああ」
旦那様は一度だけ頷くと、もう一度書状に目を落とした。
「なんと書かれているのか、うかがっても?」
少しだけ身を乗り出して尋ねると、旦那様は視線を上げた。
その目が、私を真っ直ぐに捉える。
「王都へ来い、だ」
あまりにも簡潔な言葉だった。
「え?」
「形式上は、視察の礼と、結婚を祝福したいということ」
シアンは書状を机の上に置いた。
「おそらく、前者が形式、後者が手段だろう」
少しだけ間を置く。
私は、一呼吸を置いてから、控えめに言った。
「私を見たい、ということでしょうか?」
「さすがだ。それがわかるとは」
「旦那様が、ヒントをくださったからです」
王都は、私にとって決して楽しい思い出はない。けれども、王妃様からの誘いであれば、少し意味が違う。
幼い頃の記憶では「母の優しい友人」という相手でもあるのだから。
「行くか?」
問いかける声は、優しい。けれども、一番大きな意味は「心配」という言葉だった。
私はほんの少しだけ考えた。
そして、答えはすぐに見つかった。
「行きます」
そう言うと、旦那様の手がわずかに強く私の手を握った。
「そうか」
短い言葉。
けれど、その声には満足が混じっていた。
「安心しろ」
「はい」
「君は、オレの妻だ」
ゆっくりと言葉を置く。
「オレが必ず隣にいる。好きなように立てばいい」
それだけだった。
それだけなのに、胸の奥が温かくなる。
王都に戻ることを思うと、ほんの少しだけ不安はある。
けれど、もう昔とは違う。私は一人ではないのだ。




