第61話 スズランの朝
すごく恥ずかしいけど、嬉しさの方が大きかった。
心も、身体もポカポカと満ち足りている気がする。私が今まで知らなかった朝だ。
誰かと一緒に眠ることなんて考えたこともなかったのに、こんなに心地良い朝を迎えられた。
お日様は、とっくに高くなっているらしい。
それなのに、二人きりで、ゆったりした朝を迎えられるなんて、贅沢な幸せを味わっているのだと思う。
「起きていたか」
ドキン
侯爵様の声が、こんなに甘く聞こえるなんて。恥ずかしくて、顔を見られなかった。
「おはようございます」
だから、私は窓の方を向いたままの挨拶。大丈夫。こんなことでは、侯爵様は怒らないから。
「おはよう。だが、できれば」
そこで声が急に小さくなった。
「え?」
振り返った途端に柔らかく抱きしめられる。
ずるい。ワザと、私を振り向かせる作戦だった。
頬に優しいキスをして「大事ないか?」と甘い声。私は胸の中で、少しだけ首を振る。
女性として、ここでは、絶対に肯いてはいけないことだから。
けれども、私のことを正確に見抜いてくれる。
「今日は一日、こうしていよう」
「でも、侯爵様は、お腹が減っていらっしゃいませんか」
「ん? こうしゃく、さま?」
声だけでわかる。今の表情が。きっと、左の頬をそっと動かして、ひっそりと笑顔を作っているはず。
「う~ いじわるです」
「何と言われたもこれだけは譲れない」
「旦那様」
「それは、人前用だったな」
昨夜、約束させられた……したこと。考えてみると、こうして呼ぶのは、昨夜の何十倍も恥ずかしいかも知れない。
だけど、ここは頑張るところ。筋肉質の胸に顔を押しつけながら、やっと声を出した。
「し…… シァン」
「オレだけのレナ。ちゃんと呼んで? 呼んでくれないと朝食が食べられないなぁ」
侯爵様に、私の動かし方をすっかり覚えられてしまった気がする。
私が、ちゃんと呼ばないと、朝食を食べない宣言というわけだ。
仕方ないの。旦那様にひもじい想いをさせるわけにも行かないもの。
頑張れ、私。
「シアン」
「合格」
侯爵様の大きな手が、頬に添えられる。
「昨日、あれだけ呼んだのに、今さら恥ずかしがるのか」
すっと身体を引いたかと思うと「ご褒美だよ」と額にキスをしてきた。
一つひとつが、甘やかすぎるけど、名前を呼べたら、ご褒美のキス?
「なあに、レナに名前を呼ばせることに成功した、オレへの褒美だ、心配するな」
なんだか、あれだけ無骨だ、不器用だとおっしゃっていた侯爵様はどこに行ってしまったのだろう。
「今日は、ここで朝食を摂ろう」
「え?」
「嫌かな?」
ベッドで一緒の姿は恥ずかしいけど、既にシーツを変えてもらった立場だし、今さらかも。
私が小さく肯くと、シアンが小さな呼び鈴を振った。ほどなく「お呼びですか」とドア越しにリディアの声。
「今朝は、ここで食べる」
「かしこまりました」
硬い返事の後「奥様、すぐに持って参りますので」と、ドアを開けないまま私に声をかけてくれたのは「部屋に入って良いですか?」という問いかけでもある。
普通なら「良いわ」のひと言なのだろう。でも、今朝だけは恥ずかしさが勝ってしまった。
「リディアが用意してくださるの?」
「もちろんです。奥様付侍女の特権でございますので、他に譲るつもりなどございません」
「わかりました。お願いね」
「今暫く、お待ちくださいませ」
それから五分と経たずにノックの音。
お館様の「入れ」を無視するかのように、リディアの声が聞こえた。
「奥様、ご用意いたします。ご許可を」
どうやら、リディアは、私にだけ気を使います、という姿勢を崩す気は無いらしい。そして、それを旦那様が――シアンが、けっして不快に思わないことを知っていた。
そこから、大きなクッションを背中に当て、ベッドテーブルを用意して、とずいぶんと大げさな支度になってしまったのに、終始笑顔。
そして、持ちこまれたのは銀の蓋が被せられた銀のトレイ。
そして、最後に用意されたのはサイドテーブルに置かれた一輪挿し。
「リュミエール・エーデルの時期が過ぎましたので」
そう言っていた。
それは「幸せの象徴」とされる白い花――スズランだった。
そうして、リディアは、深々と頭を下げた。
でも、最後まで私を甘やかすつもりなのか、シアンの顔を見て、笑顔で言った。
「今朝だけは、食事が済みました盆を廊下に出すのは、お館様の務めですわ」
「わかった」
「ご理解を賜って光栄です」
恭しさの中に、心からの笑顔が見えていた。




