第60話 蒼月
こんなに温かかったんだ。
リディアもマルセルも、セドリックも…… この邸で働く人は、みんな優しい。
働きに来るホームの子どもたちや、寡婦のみなさんなんて、熱を込めた視線を送ってくれる。
でも、今日感じた温かさは、どこか別のものに思える。
侯爵様がお帰りになった晩、久し振りに夕食を共にできた。
以前にも増して、無骨で、寡黙な侯爵様だったし、息を吐くのも硬いものを感じてる。
でも、それが私への冷たさとか、悪意だとか、そういうものとは全く違っているのを私は知っている
だから、侯爵様が言葉少なであっても、時々出してくれる言葉を受け止めるだけで、心にふわっとした温かさを感じていた。
私が今までに知っている、どんな気持ちとも違う――胸がポカポカする――のに、なんだか心臓が速く動いてしまう感覚を持て余しそうだ。
だから、すごく嬉しくて、そばにいてくれるだけで心が躍る感じなのに、私も、言葉が出にくくなる。
知らず――侯爵様も、私と同じ気持ちでいてくれたら良いなという、大それた希望を持ちそうになって、慌ててかき消したのは、何回あっただろう。
同じテーブルについて、同じものを食べて、同じ時を過ごす。
そこで、小さな言葉を交わせることを、私は「幸せ」として受け止めて良い。
それが、この邸で覚えたことだ。
今までも、一つ、一つの言葉を選んでくださることは知っていた。でも、今日は一段と、言葉に慎重な気がする。
侯爵様の様子が変だった。
長らくの、大変なお仕事の後は、こんな感じになるのかもしれない。
――明日は、少しでも、お気持ちをほぐせるような何かを探してみようと思いながら、いつものように部屋に下がった。
部屋に下がる挨拶をした時だけ、わずかに、侯爵様の気配が揺らいだのは、なにか、おっしゃりたいことがあったのかもしれない。
思い当たるとしたら、殿下の件だけ。
――第三王子殿下来訪の件は、マルセルではなく、なぜかリディアがお伝えしたという話は聞いていた。
何とか無難にお迎えできたことを、私の口から、改めて話すのは、ご下問が、あるまで控えた方が良いはず。
出過ぎたマネをしたと、さすがに叱られる可能性があったから。
久しぶりに会えた侯爵様のいつもより硬いお姿に「お疲れなのかも」と思っていた。けれども、部屋に戻って座ると、リディアが笑顔で言ってきた。
「お館様が、ぜひとも、お話しなさりたいと。よろしゅうござますか」
侯爵様に呼ばれているなら、良いも何もない。
「もちろんです」
「では、お召し替えを」
「着替え? お話するだけで?」
「はい。侯爵夫人のたしなみと思ってくだされば」
「わかりました」
なぜ、私が着替えを了解するだけで、こんなに嬉しそうなのだろう?。
その表情を見て、悪い話ではないと安心はしたけれども、急がなくて良いのだろうか。なぜか、湯浴みまでしてしまった。
「こんなに、お待たせしていいのかしら?」
リディアには、少しも急ぐつもりが見られない。
「もちろん。構いません。なんだったら、百年くらいお待たせしても、罪にはなりませんわ」
いつにない軽口を出すリディアが、合図すると、衣装部屋からいくつかのトルソーが出てきた。
準備してた?
え? 侯爵様は、いつ「話がある」ってリディアに伝えたんだろう。
私の疑問を笑顔で断るリディアは、少しだけ「悪い顔」になっていた。
知ってる。コレージュで、男の子たちがいたずらを仕掛けているときの顔だ……
「とっても、私的なお話でしょうから、ナイトドレスをお選びになった方がよろしいかと」
私が淡いブルーを主色としたドレスを選んだ。
「さすが、奥様です」
「え?」
「自分の瞳の色のドレスを選ばれるだなんて、お館様もお喜びなさいますわ」
無意識だったのだろうか。初めて私室に呼ばれたのだ。用件はわからなくても、何か大切なお話だろうということくらいは、いくら私でもわかる。
――そういう大事な時に、夫の瞳の色を、無意識で選んだ私。
なんだか、不思議な気がした。
着替えがすめば、いつものメイドたちが現れる。いつになく、ノリノリのメイドたちによって化粧と髪を整えられて、私は初めて訪れる侯爵様の私室の前にいた。
リディアは「奥様をお連れしました」と声を掛けた。
返事がない?
けれども、それが当然であるかのように、私に笑顔を振り向けるリディア。
「どうぞ」
そう言って、そっと扉を開いた。
お館様がいた。
立ったまま、窓の外を見ている。
外は、すっかり暗くなっているのに、何を見ていらっしゃるのだろう。
私の背中で静かに扉が閉まって、私たち二人だけのお部屋。
「お呼びでしょうか」
振り向かない。
窓の前に立つ侯爵様の大きな影が、月明かりの中に浮かんでいた。
外を見ていた。
静かな光が、庭を淡く照らしているのがわかる。返事をしてくれない侯爵様だけど、不思議と――本当に不思議だけど「怒っている」とは、思えなかった。
ただ、待っている気がした。
私はゆっくりと侯爵様に並んで月を見上げた。
碧く光る月は、夜空を薄らと染めている。
静かな時が流れていた。どちらも喋ってないのに、気まずさを感じない。
むしろ、ずっとこうしていたい。
そんな時間だった。
お館様が、ふと低い声を出した。
「こうして、月を見ていた」
独り言のようでいて、それは私への言葉なんだと伝わってくる。たぶん、戦場でのことか、今回の視察の時のことなんだろう。
大切な話をしようとしている――私は、ホンの少しだけ、侯爵様の方に近寄った。
「……あの時も」
それ以上は言わなかった。
けれど、私は分かってしまった。
あの詩のことだ。
お館様が戦場で口ずさんでくださった、あの詩のこと。
でも、それを言葉に出した瞬間、全てが嘘になる気がして、私は、ただ黙って肯いただけ。
それで伝わると思った。
ただ、同じ月を見上げながら。
「エレーナ」
胸が小さく跳ねる。
その名前は、今まで誰に何回、呼ばれたのかもわからない。けれども、今、この瞬間、侯爵様に呼ばれ名前には、特別な意味がある。
そう思えた。
私は侯爵様を見上げた。
侯爵様は、ただ月を見ている。
私は、次の言葉を待たなくっちゃいけない。全身で、侯爵様の言葉を待とうとした。
どこかで、時計の音だけが聞こえている。
――ここで退くな。
カシアンは、そう自分に言い聞かせた。
戦場でも政治でも、数えきれぬ決断をし、迷ったことなど、断じてない。
だが、今は違う。
それでも。
ここで言わなければ、いけない。この人のために――違う。自分が自分であるために。
決めていたのだから。
ゆっくりと息を吸った。
あの白い花を照らしていた月の光に力をもらって、今、言おう。
「私は不器用だ」
訥々と。でも、止まらない。
「上手い言葉は……ない」
侯爵様の言葉を、私は黙って聞いていた。でも、その一言一言が、私の心を満たしていく気がした。
だから、私は、幸せな「待つ」を受け止めていたんだと思う。
「だが……」
お館様は、そこで初めてこちらを見た。
真っ直ぐな目だった。
「エレーナ」
また、名前を呼ばれた。
どうしたの? 私の心臓、走り出してる。
ギュッと手を胸に当てて押さえた。
「私は」
静かな声だった。
「君を愛している」
世界が、止まった。
風も、音も、全てが消えて、月の光に包まれてる、私たち。
言葉の意味を理解するまで、ほんの一瞬だったはずなのに。
胸の奥で、何かがほどける。
ずっと固く縛られていたものが、ゆっくりと解けていく。私の胸にあった気持ちが、やっとわかった。
視界が滲んだ。
「……はい」
声が震えた。
「私も」
声がかすれそう。でも、今だけで良い。私の声よ、あと一言だけ、頑張るの。
「愛してます」
涙が、頬を伝った。
お館様は、振り仰ぐ動きで月を見上げた。
言葉は要らなかった。
私も、あと半歩だけ近寄って、月を見上げた。
二人で見上げる、蒼い月。
この月は、世界で一番、美しかった。




