第59話 叱る
主の還った執務室に立ち尽くすリディアは、言葉を喪った。
目の前にいるのは英雄だ。
戦場においては「死神」の異名が鳴り響き、領地にあっては英明の名をほしいままにする、決断力に富んだ男。
――のはずだ。
それなのに、とリディアは、困惑するより先に、笑みを漏らさぬよう堪えるのに必死だった。
ついつい、不敬な感想を思い浮かべずにいられない。
――初めて好きになった女の子を前にした、コレージュに通う少年ね。
それにしても、なんと腹黒い男か、と思う。
マルセルという男である。
頭脳も、気働きも超一流。長年にわたる、謹厳実直な勤務ぶりで、誰からも信頼されている家令は、こういう時に、自分は逃げてしまった。しかも「困難なお役目」を押しつけた上で、だ。
リディアは、マルセルから「お館様から火急の用件」と言われて、飛んできた。
2ヶ月にわたる、困難な使命を果たして帰ったばかりの主から「火急の用件」と言われれば、奥方の専属侍女として「悪いこと」をあれこれと想像するのは当然である。
すわ、変事が起きたか、と執務室に速歩で――でも、こういう時の嗜みとして、少しも焦りが見えないように――たどり着くまで、生きた心地もしなかったのに。
確かに「変事」だった。
執務室に入った瞬間から「やられた」と一目でわかった。
なるほど、言葉では「火急だ」と言いつつ、態度が、どこか緩んでいた。「こういうわけであったのか」と、納得するリディアだった。
とはいえ、専属で仕える大切な主にとっても大切なことである。
間違っても冗談などは言えないし、まして自分は逃げられない、と心を引き締めようとした。
しかし、なんと答えるべきか迷うリディアを見て、お館様は、ますます、小さくなっている。
顔をギュッと押さえ、机に突っ伏す姿だ。
何とかしてあげたくなる――お仕えする全ての者の一致した気持ちだろう。
「お館様」
「んっ、な、なんだ」
突っ伏したままのくぐもった声。
こうなったら「爆弾」を先に使うべきだろう。セドリックからは、やんわりとたしなめられていたが、むしろ、このタイミングが一番だと判断した。
エレーナと過ごす時間が長い――従って「理解している」という自負が、それを選ばせたのだ。
「既にお聞き及びかと存じますが」
ピクンと腕が震えた。
どうやら、聞いてはいるらしい。
「お館様がお留守の間に、リュシアン殿下が遊びにいらっしゃいました」
突っ伏したままのお館様のワナワナとする動きが止まった。
「なんと?」
「いろいろと名目を付けていらっしゃいましたが…… 私の率直な感想を申し上げる失礼をお許しくださいますか?」
顔を上げると、一転して「領主の顔」になっているあたりは、やはり英明なお方なのだ。
「許す。むしろ、率直な意見を聞きたい」
「はい。王子殿下は、コレージュでのよしみを取り戻し、交友を深めたかったのではないかと存じます」
「エレーナは、私の妻だが……」
いくぶん、硬くなった声を聞いた瞬間、リディアは「勝った」と思っている。頑なに、妻の名を言葉にすることを拒んでいたお館様が、さらりと、名を出したのだ。
「はい」
人生で、主のこのような表情は二度と見られないだろう。少しだけリディアは「楽しんだ」のである。
我慢できなかったのか、侯爵は「それで」と、先を促す。
このお顔を拝見できたのは、一生の宝だろうと思いつつも「あと、ホンの少しだけ」と思った。
「それは、もう」
そこで言葉を切ったリディアは、主の「限界」を、正しく察知して、正解を口にする。
「お見事な、お姿でございました」
「どういうことだ」
今度こそ、リディアは、口角をクッと上げてみせる。
「どなたにお確かめいただいてもよろしいのですが、奥様は、見事に侯爵夫人として対応なさっていらっしゃいました。それは、もう、お見事です」
「なんと……」
一瞬、言葉を切った侯爵は、こらえきれなかった言葉を出してきた。
「懐かしさなど」
「全く」
「親しそうには?」
「けっして」
「笑みは?」
「社交のみ」
「何か約束は?」
「なにも」
「王都へ、とは?」
「取り付く島もお見せになりません」
複雑な、それでいて、どこかに「ホッと」した表情を見せる侯爵に、リディアは念のためと、言葉を足した。
「社交に則った挨拶と、侯爵領の説明はなさいましたが、それだけ。殿下は、すっかり肩を落としてお帰りになったのは、確かです」
「それは……」
それでも、まだ言葉を探そうとする主に向けて、リディアは心を決めた。
「お館様。これは、奥様付侍女の特権として、いつもながら、僭越なことを申し上げます」
許可を取る気すら見せないリディアである。
「わかった。聞く」
「こういう時は、優しく妻を褒めるものだ」
「あぁ、もちろんだ。誠意を見せて褒めるぞ」
勢い込む主の姿に、リディアは笑みを消して言葉を停めた。
「ん?」
「などとお考えではございませんね」
「ダメなのか?」
「どうやら、私、子や孫にまで自慢すべきことができそうでございますね」
にこりと笑みを浮かべて見せたリディアは、侯爵が口をどう動かそうかを悩むスキすら与えずに、一転して、姿勢を変えた。
背筋を伸ばし、引き締めた顔で、まさに「叱りつけた」のである。
「いい加減になさいませ」
いたずらした子どもにピシャリと叱りつける母の趣であった。
「なんと?」
目を見開く侯爵。
「留守を守った…… いえ、見事な花を領地に咲かせた新妻に、夫が言うべきは、たった一つでございます」
ゆっくりと瞬きをするカシアン侯爵に、リディアは、ダメを押すように言った。
「夕食後、奥様を私室の方にご案内してもよろしゅうございますか?」
それは、プライベートで、読書や考え事に使う部屋の一つだ。
さらに二度、ゆっくりとした瞬きをした後で、カシアン侯爵は「頼む」と言ったのである。
後々、そのやりとりを聞いたセドリックは、ゆっくりと肯くのみであったと、リディアは、日記に書いている。




