第58話 もう一つの戦い
執務室の扉が閉まった瞬間、空気が切り替わった。
戦場から戻った高位貴族にとって、不在の間の「戦い」を聞くのが最初の仕事だ。
カシアンは執務椅子に腰を下ろし、エレーナのいた時とは一変した厳しい表情となった。
「報告を受けよう」
短い言葉は、怒りではなく、自分の気持ちを引き締めるため。
執務机には、詳細な報告書はある。だが「トピックス」を聞く方が、最短時間で、問題の優先事項を決められるのである。
「ご報告いたします。詳細はおまとめしておりますので、後ほどご確認を。通常通り、収入、支出からご確認なさいますか?」
恭しく一礼したマルセルが、わざわざ、尋ねたのは、侯爵の視線を見たからだ。
明らかに、窓の外――中庭の方向へ向いていた。
「いや…… 先に聞こう」
これまで「妻」のことは、建前上、義務として受ける報告がすむまで待てていたが、開き直ったらしい。
低い声で、率直に聞いてきた。
「あの、庭の子どもたちは、何者だ」
間を置かない返答。
「奥様が保護なさったホームの子どもたちにございます」
侯爵の眉が、わずかに動き、戸惑いを示した。
「保護?」
「はい。具体的に申し上げれば、戦地へ向かわれた兵士が残した子どもたち、ならびに身寄りを失った子どもたちです」
沈黙。
予想だにしていない答えだった。
「……邸で仕事をさせているのか?」
「住まわせてはおりませんが、毎日、一定の子どもたちが来ます。侯爵邸にて、各種の仕事を学びます。先ほどの子どもたちは庭師の仕事を覚えたいグループです」
「そんなに、いろいろと?」
「はい。残念ながら、メイドを務めるまでは無理ですが、掃除や馬番、武具の手入れなど、各種の下働きをしております」
「確かホームは、遠かったはずだが?」
「修道院があったのは覚えていらっしゃいますか?」
「邸と街の、ちょうど真ん中だったな」
「はい。例の旧修道院の内装を整え、子どもたちの新しい『ホーム』として運用しております」
「なぜ邸に?」
「街中で働かせる以上、範を示す必要から、この邸でも受け入れるべきだとおっしゃいましたので」
誰が言ったのかは省略されているが、マルセルの声に、一切のためらいは感じられなかった。
淡々と、事実を答えているのがハッキリしている。
しかし、その内容は、けっして軽くない。
「一律で、賃金も支払われております」
カシアンは椅子の背に深く寄りかかった。
「それを決めたのも……」
マルセルは答えなかった。それが全てである。
「予算の変更はどうなっている?」
「こちらでございます」
差し出した書類の表紙を見て、訝しんだ。
「これは、妻のものではないか」
侯爵夫人の歳費は、侯爵と言えども介入できない部分がある。
「奥様にはご了解いただいております」
「いや、そうではなく、なぜ、それが妻の支出になっているのか?」
「夫人としての歳費からであれば、お帰りを待たずに実行できると、奥様自らがお決めになったことです」
スッと差し出されたのは、侯爵家の本予算の書類だ。
「もしも、そのおつもりがございましたら、しおりの挟んである部分の転用で、奥様の歳費へ戻入が可能です。セドリック殿が、見積もり、計算を行っております。私も拝見しましたが、問題ないかと」
「なぜ、急いだ?」
自分が頼られてないのだと、カシアン侯爵としては、内心の動揺は大きい。
「奥様は、あくまでもご自分が出す計算をなさいました」
「しかし、だな」
「不文律でございます」
マルセルは、実に嬉しそうに目を細めた。
「確かに、夫として口を挟まないのはわかっているが」
侯爵夫人に与えた歳費の使い道だ。干渉しないことが夫の度量である、という不文律くらいは知っている。
「念のため申し上げた方が、よろしゅうございますか?」
それは「自分たち家臣には奥方に異を唱える権限はない」という言葉であるが、その目には――ご夫婦で会話を、と書いてある。
カシアンは黙り込んでしまうしかない。ため息のように大きく息を吐いた後、話題を変えた。
「中庭の向こう側に、我が邸の者ではない女たちがいたようだ」
「戦で夫を喪った寡婦の方々です」
そこで初めて、侯爵は目を閉じた。
戦場で見送った男たちの顔が浮かぶ。
家族がいる者は、必ずと言って良いほど、子どもの、妻の話をしていた。
この「視察」に出て、初めて、彼らの気持ちがわかった気がした。
戦場から帰れなかった者たちの想いを、改めて考えてしまった。
「残された妻には、国からの見舞金が渡されたはずだ」
「ございます。しかし、物の値段も上がりました。そもそも、見舞金の額では、何年も暮らしていくのは無理でございます」
責める響きではなく、ただ事実だけが置かれる。
「奥様はおっしゃいました」
マルセルの声は、よどみなかった。むしろ、侯爵の知っている姿よりも遥かに「饒舌」と感じるほどだ。
――この男を突き動かしている感情がある。
背筋を伸ばして、次の言葉を待った。
「戦場へ向かった方々が、安心して剣を取れる国でなければならない、と。そのために、今できることからしていく、と」
ゴクリと息を呑む。
「続けてもよろしゅうございますか?」
「続けろ」
「夫が命を懸けている以上、その家族の尊厳は守られるべきだ、ともおっしゃっています」
それは理念ではない。軍人にとっての、絶対条件だった。
国のために、と言う言葉は、まず「家族」が先に来るのを、痛いほどにわかっている。
――そもそも、今回の自分が、そうだったのだから。
守りたい者のために、命を掛ける。
「よって、寡婦たちには働ける環境を与え、仕事を与えます。子どもたちには仕事を与え、賃金を払いますが、読み書きも教えるべきだとおっしゃいました」
「読み書き……」
領都で見た光景が、脳裏に蘇る。
地面に文字を書いていた少年。
「……あれか」
「はい。奥様の歳費から、ホームに派遣している教師の給料を支出しております」
思わず小さく息を吐いた。
点と点が繋がった。
「街の空気は、それであったか……」
それは半ば独り言。
全身に「感謝」を現した人々が、どれだけいたことか。
「だから、だな」
独り言のようだった。
「あんな顔をしている領民を見られたのは」
マルセルは何も答えない。
主が自分で辿り着くのを待っている。
しばらくして、カシアンは低く言った。
「すべて……彼女の判断か」
「はい。そして、さらにご報告することがございます」
「なんだ?」
「確かに、発端は奥様個人の資金が最初です。ところが、今では、別の動きがございます」
「別の動きだと?」
「領内の賛同者の寄進が増えております」
「なんだ、それは」
「現在、大手の商会だけではなく、中堅から、それこそ露店のような店まで。規模に応じて孤児を受け入れ、寡婦を雇い。直接の金銭を差し出す者。食糧を持ちこむ者が広がっております」
そして、マルセルは薄らと笑みを浮かべて「先ほど申し上げた、新しき風、でございます」と頭を下げる。
「我が領内に、風か。全て彼女が巻きおこした、風……」
なるほど、と心のどこかで納得する。
領地が変わる時と言うのは、こういうものだ。
一片の「お触れ」で変わるのではなく、波のように広がる変化は、暮らす人々の心までを変える。
カシアン侯爵が外を見ると、現れた「奥方様」に、子どもたちが全身で「感謝」と「感激」を現していた。
「これが、領内のあちこちで見られるのだな」
「御意」
戦場で数えきれぬ功績を立ててきた。右に出る者などいないと、自他共に認めている。
しかし――
これは違う。
自分のいない間に、妻は、守るのではなく、新しい風を起こしていた……
長い沈黙のあと。
「マルセル」
「はい」
「領主として、そなたに問う」
謹厳な声を響かせる。
「この施策は、領地に益があるか」
「極めて大きな益にございます」
即答だった。
「では、問題ない」
マルセルは、少しだけ首を傾けたが、言葉が続くことを予想して「待ち」の姿勢を崩さない。
「正式に領政として組み込む」
「承知いたしました」
そして、もう一つ、問うべきだと思った。
けれども、それは領主としではなく、一人の男としての問いになるのだろうか。
カシアン侯爵は、そこで言葉に詰まる。
夕日が差し始めた執務室では、ただ、マルセルの穏やかな笑顔が、主の苦悶する表情を包んでいたのである。




