第57話 知らない景色
視察という戦場から帰った身体だ。もう安全な場所だと頭では理解していても、身体が無意識に「違い」を探してしまう。
ほんの小さな異変を見つけるかどうかで命の――部下たちの命までもが奪われるのだ。空を飛ぶ鳥の様子、風に乗る匂い、そして、ほんの小さな物音をも五感が拾い上げていく。
何の違いも無い――だが、決定的に何かが違う。
領都に入ってからの違いの理由がわからないことで、どこかしら、ふわっとしたものが生まれている。
けれども、それが、けっして不快なものではないことが、逆に不安だった。
ただ一つ、心から安心したものがあった。
「お帰りなさいませ」
その一言が、心を震わせる。
「ただいま戻った。留守をご苦労だった」
「侯爵様こそ。お役目、お疲れ様でした」
形式を踏まえた、貴族家当主の帰宅のやりとりだ。
しかし、そこに、さらに言葉が載せられた。
「アルバ・ノビリスとともに、お帰りをお待ちしておりました」
ドキンとした。
心の奥に何かがあふれだそうとした――慌てて押しとどめねばならぬ、それが貴族の嗜みだと、危うく押しとどめる。
だからこそ、あの日、初めて迎え入れた時のように、ぶっきらぼうな言葉しか出なかった。
「あぁ。待たせた」
そのやりとりを間近で見守る人々が、どんな温度でそれを見ていたのか、見回すゆとりなど無かったのである。
しかし、生み出された「熱」を、すぐになんとかするわけにはいかない。
形式がある。立場がある。周囲には、部下も家臣もいるのである。
――いくら、まわりが、笑ってしまいそうなほど、歯がゆいと思ったとしても、それは侯爵の知らぬことであったとしても。
馬を降り、最後の報告を短く受けると、部下に指示を出して、次はマルセル。
軍務から邸内の当主へ、切り替えるための数分。
ロランが部下たちを率いて客棟へと向かうと、すぐにマルセルに先導されて執務室へ。
内政という戦場に戻ってきた。
頭を切り替えようとしたときだった。
廊下の窓から見えてしまった。
中庭。
白い花壇――見覚えのある場所のはずなのに、そこだけ景色が違う。
『花壇が広がった? いや、縁取りも何やら新調したのか?』
微妙な変化ではあるが、明らかに違っている。
そのそばにいるのはジョン。しかし一人ではない。
その周りに、背の低い影が幾つも。
子ども?
侯爵邸に子どもがいるはずがない。まして、庭に入れるなどありえない。
カシアンの胸の奥で、警戒が一段上がった。
いったい、何をしている……
窓に一歩近づいて、耳をそばだてた。
「急ぐなよ。花は、いくらでも待ってくれる。だが、ケガをしたら世話ができねぇ。だからケガだけはするな。そして、じっくりと、正しい世話を心がけるんだ」
「もう! おじちゃん、いっつも、同じことばかり」
「オレたちだって、ちゃんと食わせてもらってるから、力だって付いてきているんだ。心配要らないって」
「そうそう。おじちゃんは、そこで指示してくれれば、後はオレたちがヤルって」
荒っぽい口調だが、子どもたちは、むしろ親しみを持っているのがありありとわかる。
部隊で、部下たちとのやりとりは、ちょうどこんな感じだ。
そして、軽口を叩いているように見えて、どの子どもも真剣に指示を守ろうとしているのが伝わってきた。
「ねえ、この花壇、いっつも大切にしているけど、今日は特別なんだね」
「今日は、お館様がお帰りになったからだ」
「そりゃ、庭が綺麗にするのは分かるけど、この花壇だけ、特別なんだろ?」
「ねぇ、なんでここが特別なの?」
背の高い少年の後ろから、一番チビが問うた。
おそらく、その質問は「タブー」だったのかもしれない。他の少年たちが、ハッと気まずい顔になった。
ジョンは「そうだなぁ。もう、教えても良いか」と半ば独り言を声に出してから、少年達を見渡した。
「奥様が大事にされていらっしゃるからだ」
子どもたちの動きが、ぴたりと揃った。
ふざけた気配が一切消え、背筋が伸びる。
「奥様?」
「そうだ。この花壇の花は奥様の花。お館様が特別にあつらえた花壇だから……」
ジョンは言い切らなかった。
代わりに、土をそっと撫でた。
「奥様を、そして、お館様をも悲しませることになる」
子どもたちが、目を輝かせて頷く姿が、ここからでもハッキリと分かった。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。同時に、別の違和感が刺さる。
あの子どもたちは、誰だ?
マルセルに尋ねようとした瞬間、庭の端に小さく、女たちが見えた。
洗濯物だろうか。山のように抱えて、しかし楽しそうに歩いている。
ランドリーメイドにしては、お仕着せを着ていない。
そして、公爵家に仕える者独特の雰囲気を持っていない。まるで「特別に手伝いに来ている」という風情の女たち。
そこまで考えたところで、マルセルが小声で言った。
「新しき風にございます」
「風?」
「はい。この領地に巻き起こされた薫風と申しましょうか」
――いったいなんだ?
そのまま目を逸らせずにいると、ジョンがふと顔を上げた。
侯爵に気づき、固まる。
次の瞬間、ジョンは膝をついた。
「お館様……!」
子どもたちが一斉に、遅れて頭を下げた。見よう見まねなのだろう。してみると、この邸に来て、それほど時間が経ってないのかもしれない。
しかし、全身に「感謝」という気持ちが見えている――あの、街中の民と同じように。
カシアンは、ただ短く告げた。
「邪魔をした。続けてくれ」
「はっ。ありがたく」
そして、子どもたちが顔を上げた瞬間「わっ!」と歓声を上げてから、またしても、頭をペコリと下げたのだ。
子どもたちの視線の先を辿れば、そこには、付いてきたエレーナがいた。
ニコニコと、子どもたちに手を振ってみせる姿は、これが初めてではないと物語っている。
してみると、子どもたちの、いや街中の民も、エレーナと関係があると言うことなのだろうか?
茫然と、自分の「妻」を見つめながら、心に浮かぶ言葉。
――いったい、オレのいない間に、君は何をした。
それを今、問いかけるのは、なぜかためらわれた。
だからこそ言った。
「どうやら子どもたちは、君に声をかけて欲しいらしいな」
その言葉を予想していたのかどうか、はわからない。しかし、その言葉を受け止めるだけの「つもり」はあったらしい。
「けれども、今は、お帰りになった侯爵様が優先ですから」
「いや。私は先に報告を受けよう。終わったら、呼びに行く」
少しだけ首を傾けてから、笑顔を返してきた。
「わかりました。では、後ほど。お声がかかるのをお待ち申し上げております」
その後――
執務室で、マルセルが報告に入ることになる。
その時、カシアンはようやく理解するのだ。
あの庭に立っていた子どもたちが、ただの「手伝い」ではなかったことを。
そして、我が妻――エレーナが、この領地に根を下ろし始めていることを。
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