第53話 もしも、あの時
リュシアンの気持ちは、落ち込むばかり。
助けに行ったはずの想い人は、信じられないほどに「貴族の奥方」として輝くばかりの存在感であった。
「こんなはずじゃなかった」
落ち込むリュシアンを王宮で待っていたのは「至急、母のところへ」とだけ書かれた王妃側近からのメモだ。
焦った。
「なぜ、『母』なのだ」
リセに入学して以来、極々ウチワの集まり――年に数回あるかないか――の時だけ「母子」となる。
週に数度、食事を共にする時すら「王妃と王子」の関係を崩さない徹底ぶりだ。
それなのに「王妃」ではなく「母」と書かれているのは、なぜなのか。
ともかく、旅装を解く暇があらばこそ。王妃宮へと足早に出向けば、待ち構えた女官の冷え冷えとした表情が、全てを物語っている気がした。
リュシアンの心臓は、急速に動きを速めている。
怒る顔どころか、怒りの感情を込めた声すら聞いたことの無い母親が、王妃宮全体に行き渡らせる気配は、明確だった。
――激怒
その言葉を頭に描くリュシアンは、中庭に座る母へと案内された。
「おかえりなさい」
我が子の顔を見ないまま、そう言った母。テーブルには、既に茶が用意されていた。
一目で、冷たくなっていることがわかって、ドキンとした。
母が、普通に紅茶を飲んでいることから見て、リュシアンの席に置かれたものだけが冷えている。
あえて、であろう。
母親が、そうやって待遇して見せたことはめったにないだけに、リュシアンの肝も冷えてしまう。
「ただいま、戻りました」
座ることを無言で示した上で、開口一番「ホッとしました。せめてものことではありますが」とポツンと言った。
予想とは違い、王妃の言葉が、ひどく寂しげに聞こえて、リュシアンは、さらに疑問を深めた。何に「ホッとした」のかは不明だが、ともかく、最初に口にすべきは、これである。
「申し訳ありませんでした」
勝手に公務を変更し、相談もせずに長期の不在をしたのだ。責められるのは仕方ないとは思っていた。まず、謝ることが必要だろう。
だが、リュシアンは頭を下げつつも、母の対応のちぐはぐさに、言い知れぬ違和感を覚えていた。
王妃は、遠い目をして、一口、紅茶を飲んだ後で言った。
「あなたは、自分のしたことを理解しているのかしら?」
これもまた、サラリと宙に向けて出した言葉だ。
「公の立場でありながら、自分勝手な行動を取ってしまいました」
その瞬間、王妃は一度目を落とし、そして今度はハッキリとリュシアンの目を見つめて来た。
「あなたから見たアルヴェイン侯爵夫人がどうだったかは、聞かないわ」
「私が見るまでもなく、立派なご領主の奥方でした。どうやら、エレーナは、私の助けなど必要なかった」
あえて、それを口にしたのは、母が何かを誤解しているのかと思ったからだ。自分は、元同級生を救いにいっただけなのだと、強調する。
しかし、その言葉を王妃は聞いてないかのように――まるで独り言のような口調で言葉が続けられた。
「まだ、幼かったもの。あなたは覚えてないでしょう。そうね…… きっとエレーナも覚えてないわ」
テーブルに置かれた花を見つめながら「母」の言葉はゆっくりと続いている。
「私とセシリアは親友だった」
「はい。お目にかかった記憶はございませんが」
「あなたたちが会ったのは、お互い3歳になる前ですものね。覚えてないのは仕方ないの」
「お互いに?」
母は、親友の話をしているのでは無いのか? いったい何の話をしているのかとリュシアンは戸惑う。
「王妃の立場となっても、親友に会うだけよ。しかも、それが、同じ年頃の子どもを持つ母親で『セシリア・エーデルシュタイン』の名を持った娘であればなおさら、不思議はないわ」
「エーデルシュタイン家と言えば……」
国の中央とは一線を画した一族は、権力を持たない名家として知られている。
「だから、ひょっとしたら、あなたにも、微かにエレーナの記憶があって、それで、こんなことをしたのかも知れないわね」
「母上は、エレーナのことをご存知だったのでしょうか?」
その口調には、知らず非難の匂いが乗っているが、王妃は知らぬ顔で、首を横に振った。
「国の中枢にいて、重要な問題に取り組む父親が『娘は病気です』と言えば、それを疑うことなんてできないわ」
「調べれば……」
「難しくないわね。だけど、王妃という立場が家臣の家の事情を調べたということ自体、後で問題となる」
いったん間を取った王妃は、不思議と悲しそうな目でリュシアンを見た。
「あなたを責めるつもりではないけれど…… 覚えているかしら? ヴァルツ伯爵のお嬢様を、お見舞いしてあげたらと、何度か頼んだことがあったわね」
「ヴァルツ伯爵のお嬢さん?」
一瞬、リセで見かけた、顔だけはそれなりに良いが、品性と知性に欠ける娘――名前は思い出せない――のことを考えた。
しかし、すぐに「あっ!」と小さな声を上げてしまった。
明確に覚えている。あの頃の「ヴァルツ伯爵家から通う娘」をリセで何度も見ていた。わざとらしく、目の前でチョロチョロするのが、腹立たしかった。
だから、あんな娘が病気でも、見舞いになどいく気にはなれなかった。「きっと、お元気だと思います」などと言って、婉曲に断ったはずだ。
まさか、エレーナのことだったなんて……
その瞬間、リュシアンは「母上が、ちゃんとエレーナと言ってくれれば」と考えかけて、なぜ、名前を出さなかったのか、すぐに気付いてしまった。
王妃が特定の少女の名前を出して「見舞いを」と言えば、その瞬間から、王家の公平性を疑われることになりかねない。
おそらく、ギリギリの――それもかなり踏み込んだ言葉として「ヴァルツ伯爵家のお嬢さん」という言い方をしたのだろう。
それに、とリュシアンは考える。
わざわざ、王妃が「見舞ってほしい」と頼んだのだ。少しだけでも意味を考えれば、すぐに「様子を探れ」と言われていることに気付くべきだった。
ゴクリと、息を飲み込んだ後、リュシアンは、素直に頭を下げる。
「申し訳ありません」
「いいえ。きちんと調べさせなかった私が悪いの。だから、お見舞いの件で、あなたを責めるつもりはないわ」
王妃は、リュシアンが言葉を挟む間も与えず続けた。
「あの時なら、たとえウワサになったとしても、母は公爵家の血筋で、私の親友。父は優秀な官僚。しかも、あなたと同い年ですもの」
感情を押し殺した目で、息子を見つめながら「お似合いね」と、言葉を落とした。
「婚約者にと?」
「正直に言えば、セシリアが元気な時に話題にしたことはあるわ。でも、あなたたちがその気になるまでは黙って見守りましょうという話になったの。それにね」
「それに?」
「エーデルシュタイン家では、というよりも――エレーナのお祖母様が、あなたとの婚約は反対なさっていらっしゃったの」
「それは、なぜでしょう? 王家との婚姻は、どの貴族家でも求めるものだと思っておりました」
淡々と、王妃は答える。
「エーデルシュタインは権力から身を引いてる。だから、自分の家の損得はまったく考えてないわ」
「それにしても、王家とのつながりを嫌がるのは不可解です」
「違うわ」
気の毒なモノを見る目で、王妃は首を横に振った。
「違う?」
「あなただとダメなの」
「え?」
「この国のため、王太子との婚約なら反対しないと正面から言われたわ。私もセシリアも、あの時は困ったわ」
遠くを見つめる目で、左の頬だけでひっそり笑う母を茫然と見つめるリュシアン。
「でも、あなたに頼んだ頃は、もうお祖母様も亡くなった後だったし、きっと、誰も反対しなかったと思うの」
確かに、リセに上がる頃には、王太子も、すぐ上の兄も婚約済みだった。
「では、あの時、私が見舞いに行っていれば……」
母が、一口、紅茶を飲んだのが、まさしく「その答え」であったのだろう。
自分が、それを捨てたのだと、ふわりと漂う、冷たい香気が告げている気がした。




