第45話 託す
エレーナが深々と頭を下げる姿を後にして、侯爵は邸を後にした。
侯爵であっても、軍務に就く以上、馬車は使わない。ただし、視察名目だけあって、乗るのは公式行事用の白馬である。
付き従うのは、気心の知れた部下たち二十四騎。いずれも戦場を共に越えてきた「一騎当千」の顔なじみだった。
思いを振り切るかのように、侯爵は馬速を速歩に上げる。
それでも、公爵家の正門を抜けるその瞬間まで、エレーナは手を振っていた。
最後に一度だけ、振り返った。
白いドレスの裾を風に揺らしながら、背筋を伸ばして立つ姿。
ただ、見送っている。
――あれでいい。
そう、自分に言い聞かせるようにして、侯爵は前を向いた。
*
邸の中では、すでに空気が切り替わっていた。
侯爵不在の期間――二ヶ月は、けっして短くはない。
日常的な仕事はマルセルが万事、遺漏なく進めていくし、その相談役としてセドリックもいる。
今回は、比較的長く、領地に居てくれた領主は、前倒しで仕事を進めていたため、中長期的な案件もほぼ、決済済みである。
しかし……
それなりの街を幾つも抱え、城館や騎士・兵士たちの人数を抱える領地には、日々、決めねばならないことは多数生まれてくるものだ。
侯爵は、エレーナに言い残していった。
「君が判断して良い」
本来、貴族家の女主人と言えば、内向きの予算を握ることになる。侯爵家でも、それは同じ。
しかも、領主が長期不在の場合は表の予算も権限を持つだけに「妻」の経済的な能力は、そのまま貴族家の浮沈に直結することすらある。
侯爵家ともなると、公・私両面で、莫大な予算であった。
今回は、予算については侯爵が差配してあるから、日々の執行について報告を受ければ良い。
一方、個人の予算は、完全にエレーナが自由に使って良いものとして権限を丸ごと渡された。
さすがのマルセルも顔をしかめたが「本来の奥様の権限」である以上、黙って受け入れるのも当然であった。
侯爵は、丸二日掛けて、引き継ぎをした。おそらく、初めは侯爵自身が、賭けの部分があると、セドリックすら読んだ。
あるいは「万が一の場合は、全額喪っても問題なし」と考えていた節すらうかがえたのだから、仕方がないのである。
ところが「いざ、実務に」となると、誰もが刮目することになった。
「すごく、多いのですね」
「すまないが、感想はそれだけか?」
「はい。これでは伯爵家の全予算よりもケタが多いです」
「ん? 君は伯爵家の予算を任されていた?」
「予算は父が立てていました。けれども伯爵家の帳簿は私が付けておりました」
「君が?」
オデットは、商人の娘だけに、商売に用いる計算程度はできた。ところが、実際の貴族家の場合、家内のことに関してだけでも、その差配はヒドく複雑で面倒なのだ。
オデットは、それを「丸投げ」したのである。
それは驚きと言える類いの話ではない。コレージュに通っている時から、させられていたというのだから、もはや「呆れる」話である。
「父は宮廷貴族でしたので、予算規模は、それこそ、ちょっと裕福な商家と違いはありませんので……」
よって、エレーナは「伯爵家の予算」を切り回してきた経験を持っていた、というのが真相であった。
しかし、初めて「侯爵家のケタ違いの予算」の帳簿を見せられた時、エレーナは、さすがに頭がクラクラしそうになったという話である。
「侯爵様。私用の予算内なら、自由に使って良いのですね?」
「構わない。足りないようならマルセルに言え。領内の商人で行き届かないようなら、王都から好きなだけ商人を呼び寄せれば良い」
冷静な表情をいっこうに変えないが、言葉は「ここぞとばかり」にエレーナに、好きなモノを買えと言いたげな様子だ。
「ありがとうございます。王都の商人に用はないのですが、騎士様を少しお借りしても?」
「かまわない。マルセルに言って、いつでも、何人でも使ってくれ」
「ありがとうございます」
そんな会話をした侯爵が不在となった。
エレーナは動き出そうとしていた。
夕食後に、マルセルに初めて頼んだのは、外出であった。
「マルセル」
「はい。奥様」
「明日は、街に行きたいです」
「どちらに? 商人でしたら、何人でも呼びますが?」
「いいえ。私が行きたいところがあります。あ、途中でミレイユたちを乗せていきますので、その手配もお願いします」
翌日、念のためセドリックは自分が付いていくことを選んだのだ――心から、自分の決断を褒めることになるとは、この時、思っていなかった。




