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身代わりで嫁いだ死神侯爵に、異常なほど溺愛されています ~虐げられ令嬢は最恐英雄の唯一の花嫁でした~  作者: 新川さとし


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第44話 ただ、信頼を返す

 夜の執務室で「愛している」という言葉を胸の内に置いたまま、侯爵は翌朝、いつも通りに机に向かっていた。


 眠れていないわけではないが、眠りは浅かった。目を閉じるたびに思い浮かぶのは、あの細い手の温度と、ミハルの震える声だ。


 あの細い手を握ったのは衝動だった。

 握り返されたのは、信頼だった……のだろう。


 その事実は、侯爵の胸を静かに熱くしている。


 机の上には、領内の春祭りで生まれたあれこれの報告書。商会からの礼状に嘆願書。領内の各詰め所からの報告書など、様々だった。


 いずれも、今の時期の「いつもの仕事」だ。けれども、今日は、そこに一通の重々しい意味を持つ封筒が混じっていた。


 封蝋は国軍総司令である公爵家が、重要な指令に使う時のものである。


 侯爵は封を切り、文面を最後まで読み切ってから、机に置いた。


 和平協定後、不穏な気配が収まらぬ国境地帯――前線を視察せよという指令だ。


【カシアン侯爵が前線を視察する】


 名目は「視察」であっても、派遣されるのがカシアン侯爵であれば、別の意味を持つ。


 その異名である「死神」が敵味方に知れ渡っているためだ。


「死神、国境に現る」


 その事実を公表すれば、それだけで「抑止力」となる。

 同時に「火種」となり得るのは、侯爵自身が知り抜いていることだった。


 和平協定を結んだ後とは言え、境界付近の森にはゲリラが残っているし、まだ、敗残兵も隠れ住んでいる。戦乱の英雄が現れるとしたら、その存在そのものが敵を容易に引きつけてしまうはずだ。


 ある程度の戦いは間違いないが、和平がなった以上、国境に大規模な部隊派遣はできない。


 場合によっては、いや、ほぼ確実に困難な闘いが待っているだろう――だからこそ「死神」の出番だ、ということでもある。


 行かねばならない。


 領主としての義務ではなく、この国で平和に暮らす多くの民に対する義務だ。「机の上で安全を語る者に、貴族たる資格はない」というのは、父からも、祖父からも言い聞かされたこと。


 だが同時に、心に決めた。


 戻ってきたら……


 ――言う。


 決めた言葉を、正面から差し出そう。


 覚悟を決めた侯爵は呼び鈴を鳴らした。


 すぐにマルセルが入ってくると、黙って一礼した。


「国境地帯視察の命が下った。二ヶ月ほど邸を空ける」


 マルセルの眉がほんのわずかに動いた。即座に実務へと切り替わる目だ。


「承りました」

 

 言葉にせずとも「留守中のあれこれは、お任せください」という意志を、目で伝えてくるマルセルである。


 しかし、わずかに「ご指示を」と目で願っている。指示すべきことは、ただ一つである。


「表立っての警備は、通常通り。ただし……」

「畏まりました」


 影の警備を増やせという指示を、察知するのは当然である。

 しかし、ここでマルセルは驚かされることになる。


「万が一もないように頼む」


 無言で一礼しつつも「ここまで」と思った。エレーナへの警備に念を押すだなんて。


 マルセルは、ただ、黙って頭を下げることで、返事とした。


 侯爵は一拍置いた。


「伝えるのは、私からだ。昼食後にする」

「新作のデザートをご用意いたしましょう」


 これは、食事のテーブルで、そのまま話した方が良いですという上申である。


「そうだな。そうしてくれ」


 侯爵の気持ちへの見事な忖度である。


 これから戦場に赴くことをエレーナに伝えたくない、と侯爵が思うだろうと、予想したのである。


 だから「新作のデザートを食べながら」と言う形で、留守を自然に話題にする時間を作るという上申だった。


――必要以上に、心配を掛けるべきではない。


 それをマルセルは理解し、黙って頭を下げて出ていった。


 昼食の席では、いつも通りの食事が並んだ。


 それでも、空気は僅かに違った。


 侯爵がいつもより、少しだけ食べるペースが速かった。


 エレーナは、何かが伝えられるのだと気づいている。けれど待つことができたのは、信頼と、そして、幼い時の教育の結果である。


 少し前までの彼女なら、言葉にしなくても「何かあったのですか」と不安に飲まれていたかもしれない。今は違う。相手が言葉にするまで、信じて待てる。


 だからこそ、デザートを前にして、侯爵が重い口を開く前に、エレーナが先に微笑んだのだろう。


「昨日、ミハルが言っていました。こんなことなら、もらったゴーフルをちゃんと味わっておけば良かったって」


 ミハルらしい言い方のマネ。場が、わずかにほどけた。侯爵はわずかに口元を緩めた。


「……あれは、そうだな。勘違いさせてしまったのだろう。もう一度、手配するように言っておく」

「ありがとうございます…… でも、彼女の、あの言い方が、可愛かったです」


 エレーナがそう言うと、侯爵の肩の力がほんの少し抜けた。

 

 それを自身のキッカケにして話を本題へ運ぶ。


「オレは二ヶ月ほど、邸を空ける」


 微笑みが消えた。注意深く、しかし、言葉を選ばずにエレーナは尋ねた。


「国境地帯へ行かれるのですね?」

「和平成立後の視察をせよとの命令だが……」


 正直に答えつつ「なぜ、国境の前線へ行くとわかったのか」が頭に点滅し、わずかな非難の目を、そばに控えるマルセルに送る。


しかし、マルセルの目は、微妙な驚きを示すのみ。


 まだ、誰にも言ってないという反応――当然だ。


 その逡巡に、エレーナはすぐさま頭を下げた。


「すみません。差し出がましいことを申しました」

「いや。君には聞く権利がある。ただ、なぜ国境へ行くと思ったか聞いても?」


 エレーナは、少しだけ答えをためらう。


 実はヒントはいくらでもあった……


 侯爵様の肩の動きが、いつもよりも少しだけ硬くなっていたこと。眼差しに影があったこと。そして、この話題を言いよどんでいたこと。


 エレーナはいくつもの理由を上げてみせる代わりに、一つだけ「信頼」を投げ返すことを選んだ。


「侯爵様は、ウソを私におっしゃいたくないのだと思っております」

「確かに。それは事実だが……」


 それだけで、見抜けるものではないはずだ。疑問のまま、見つめる侯爵に、エレーナは、微笑んでみせる。


「2ヶ月もの間、お仕事に行かれるのなら、必ず、どんな仕事なのか、どこへ行くのか、言える範囲で教えてくれると思いました。でも、ただ、家を空けるとだけ。となると、軍人である侯爵様なら、私に言いたくない場所……危険のある国境地帯へと思ったのです」


 侯爵は目を見開いていた。


――驚かされてばかりだ。


 保護しているひな鳥だと思っていたのは、(ほう)であった。


 遠い異国で「伝説の瑞鳥」とされる鳥を、目の前の愛しい人に重ねざるを得なかった。


 それほどの驚きである。


 後ろに控えるマルセルは冷静さを顔に貼り付けつつも、その驚きは隠しようもない。


 まして、リディアに至っては、愕然とした表情を隠せない。


 何年も仕えてきた自分が考えもしなかったことを「奥様」が簡単に洞察して見せたことへの驚き――それも「尊敬」という驚きを噛みしめていたのである。


 そして、侯爵は、最初の驚きが治まる胸の内で「自分をそれだけ信頼してくれたのか」という嬉しさにヒタヒタと満たされていたのである。

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