第43話 胸の奥に置いた決意
夜の執務室は、昼とは別の静けさをまとっていた。
灯りは最低限。机の上に置かれた書類は、すでに読む必要のないものばかりだ。侯爵は椅子に深く腰掛けたまま、しばらく身動きもせず、ただ一点を見つめていた。
ミハルの言葉が、頭から離れない。
鞭、火傷、気分による叱責。
だが、最も大事なことがある。
名前すら奪われ、貴族令嬢という「存在」を脅かされたこと。
報告書では、ずっと前から把握していた内容だった。証言を積み重ね「事実」として、冷静に処理してきたはずの情報である。
だが――
紙の上で知ることと、生の証言を、直接、自分が聞くことは、全く違っていた。
生きた人間の声の感情――怯え、震え、迷い、恐怖――を伴った「体験」は、聞くものの感情をも揺さぶったのである。
「オデット、そしてクラリス……」
低く、誰にも聞かれぬ声で名を呼ぶ。
その名を口にした瞬間、胸の奥に、はっきりとした重さが生まれた。
「区切りを付ける」
逃げ道を一つずつ塞ぎ、犯してきた罪を明らかにする。そこに「娘だから」や、あるいは「女だから」という容赦は必要ない。むしろ、触れてはならない領域を侵した者として厳しく処置するべきだろう。
――確実にしとめる。
それは、侯爵が戦場で幾度も行ってきたやり方だった。
だが、その重たい思考の底に、ふと、別の光が差し込む。
エレーナ。
血と泥と死の匂いの中にいた人間に、再び、祖国の花を一緒に見ることを信じた、あの詩を書いた人。
あの詩を読んで、どれほど救われたか。
ただ一人の男として、生き延びる理由を与えられたと思えたのだから。
そして、ミハルの口からもたらされた、あの状況の中で「他を庇っていた」と言う事実。
「……崇高だな」
思わず漏れた言葉。
自分を守る人が一人もいない中で、他人を庇うその気高さは、何よりも尊い。
あの境遇で、あの優しさを失わずにいたこと。
自分を恨まず、世界を呪わず、それでも人を助けようとした気持ち。
それは、強さだった。
そして――
そんな崇高な人を守りたい、という言葉では足りない感情とともに、思わず、握ってしまった、あの細い手が、熱い想いと共に蘇ってきた。
その時、戸口で、軽いノックがした。
「失礼いたします」
入ってきたのは、リディアだった。
「まだ、お仕事を?」
「いや……考え事だ」
そう答えると、リディアは一礼して、少しだけ距離を詰めた。
「今日の件ですが、お部屋に戻られた後も奥様は落ち着いておいででした」
「そうか」
「はい。けれど……」
一瞬、言葉を選んでから「僭越ながら、申し上げます」と頭を下げてきた。
心を込めて、何かを伝えたいという目。
リディア――妻の専属侍女――が伝えたいことがあるのだとしたら、それを自分は聞くべきだ。
そんな時、プライドや、理屈よりも、相手の真摯な心を受け入れることは、戦場暮らしが長い侯爵にとっては当然だった。
「聞かせてくれ」
リディアは、思ってもみないほど、ハッキリとした笑顔になって、静かに告げた。
「奥様が、落ち着かれるのはとても良いことだと存じますが…… お館様は、落ち着いていてよろしいのでしょうか?」
「どういうことだ?」
侯爵の言葉は、本気で「意味がわからない」というトーンを持っている。
そこで、こっそりとため息をついてから、リディアは、覚悟を決めたように深く息を吸ってから言った。
「そろそろ、はっきりなさってはいかがでしょうか」
「何を、だ」
「お気持ちです」
短い沈黙。しかし、侯爵にあるのは怒りではなく戸惑いであると、リディアは見抜いている。
「守ることと、愛することは、同じではありません。奥様はもう、守られるだけの方ではないように、私には見えます」
侯爵は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥にあるものに、ようやく、名前を与える。
――愛しい。
守るべき対象としてではない。
一人の人として、共に在りたいと願う気持ちだ。
「……そうか」
それだけ言って、侯爵は目を伏せた。
だが、もう否定はできなかった。
この感情を、曖昧なまま抱え続けることは、エレーナに対して、誠実ではないだろう。
それを侯爵が胸の内で言葉にしたのをリディアは正確に見抜いたのである。
それ以上何も言わず、深く一礼して下がっていった。
一人残された執務室で、侯爵は静かに決める。
エレーナには、伝えねばならない。
誰かに奪われる前に。
誰かに試される前に。
自分の意志を。
――愛している。
その言葉を、いつ、どう口にするか。
それだけを考えながら、侯爵は、夜の灯りを落とした。




