第42話 伯爵家の「娘」
応接室の空気は、ひとまず落ち着きを取り戻していた。
先ほどまで身構えていたミハルは、出された紅茶にようやく手を伸ばし、恐る恐る口をつけている。
ミレイユは椅子に腰掛けたまま、周囲を観察する癖のある視線で、護衛や調度品の配置を一通り確認し終えたところだった。
エレーナは、二人の向かいに座っていた。
高位貴族の女性として躾けられたとおり、リラックスして見える座り方なのに、背筋が伸びている。
しかし、その表情も、雰囲気もミハルが知っていた、あの「監視対象」とは全然違っていた。
――気品ってこういうことを言うんだ。
それは「ニセモノ令嬢」のクラリスにはついぞ見たことがないもので、自分が「お嬢」と呼んだのは、これだったか、と納得がいった姿だ。
ミレイユは、ミレイユで、幼馴染みの様子が一変したのを驚いたし、興味深く見ていた。
「急に呼び立ててしまったわね。ごめんなさい」
エレーナは、そう前置きしてミハルを見た。
「いや、アタシなんか、あの、えっと、あのぉ」
狼狽えるミハルに優しく微笑みかける。
「いいの。言葉なんて。だってお友達でしょ? だから、ミレイユのところにいるって聞いて、どうしても、会いたかったの」
ミハルが、びくりと肩を揺らす。
「い、いや、あの……そのせつは、どうにも、申し訳なく……」
言葉を探す様子に、エレーナは小さく首を振った。
「叱るつもりなんて、なんにもないわ。それに、あなたは、主人に言われた通りのことをしただけでしょ? 私に、辛く当たったこともなかった」
その一言で、ミハルの目が大きく見開かれた。
「でも、アタシが、いや、私が、逃げ出したのは申し訳ねぇと」
即座に、エレーナが首を振った。
「あなたが逃げたのは当然よ。続く方がどうかしているわ。あの家に長くいた人、いなかったでしょ?」
ミレイユが、そっと息を吐いた。
「たしかに、お嬢様だった方? には、申し訳ねぇけど、あそこはヒドかったぁ」
そこでミレイユにヒジで腕を突つかれて、慌てて「あ、でも、お貴族様ですし」と、何とかフォローしようとするが、言葉が続かない。
見かねて、ミレイユが言葉を挟んだ。
「すみません。私たち、田舎育ちで。ミハルの家は、弟妹が多くて。貧しくて基礎学校も半分しか行かれなかったんです」
どの町にもある読み書きを教える「基礎学校」だが、お金はかかる。平民でも、通えない子は珍しくない。
本来、読み書きも満足にできないと、メイドとして貴族の家に上がるのも無理だ。だから「伯爵家」が、基礎学校も出てないメイドを雇わなければいけなかった、というのはちょっとしたスキャンダルだった。
しかし、そんな事情など「身をもって」承知しているエレーナである。
「大丈夫よ。だって、同じ部屋で三日も過ごした中だものね」
「そ、そうだよ! アタシ達の仲じゃないか!」
本来、相手の懐に入るために、言葉を崩すのはミレイユの得意技だが、さすがに「アタシ達の仲」にはヒヤッとする。
こんな言葉を「侯爵家の奥方様」に使ったら、その場で取り押さえられても、不思議はないのだ。
しかし、エレーナの横に座る侯爵様は、少しも不愉快そうな顔をしなかった。その視線が妻の、楽しげな表情に向けられているせいだろうと、ミレイユは、察した。
――どうやら、侯爵様のご機嫌は、奥様次第ってわけね。
侯爵様にとっては、身分がどうこうというよりも「妻が不快に思うかどうか」が大事らしい。
そんな観察をしている時にエレーナの柔らかな声が響いた。
「ねえ、ミハル」
「何? あっ、は、はい!」
「大丈夫。硬くならないで。ただ、あなたにとって、あの家がどうだったのか。あなたの言葉で教えて欲しいの」
チラッと見たのは「怖そうな」侯爵様の顔だ。
それがわかったのだろう。横で控えていたリディアが「お館様。お言葉を」と小さく、添えた。
エレーナが自分の方を見たのを確かめてから、侯爵は静かに言った。
「妻がそなたを求めている限り、私を気にする必要はない」
自分はエレーナを守るだけだという立場の表明である。
でも、ミハルには、そのあたりの機微はわからない。ミレイユは、そっと「大丈夫。奥様が話してっていってるから」とささやいた。
ミハルは、視線を彷徨わせたあと、意を決したように口を開いた。
「すごく怖かった」
声は小さいが、その一言が素直に出たらしい。
「毎日、お嬢様の…… あれ? えっと、お嬢がお嬢様で。あの家にはお嬢様が一人だって……」
混乱するミハルに、エレーナは「いいの。あの家のお嬢様は、どうだったの?」と優しく言った。
「は、はい。あの家のお嬢様は機嫌がクルクル変わって。さっきまで笑ってたのに、いきなり怒鳴られて。鞭が振るわれて。何か失敗したら怒られるのはわかるだけど、何もなくても怒鳴ってきて……」
エレーナは、ただ頷く。
「鞭も普通に。たまに、今日は軽い方かなって思うくらい」
ミレイユの指が、膝の上で強く握られる。
「火傷もありました。私は手だけだったけど、紅茶を顔にかけられた子もいて」
ミハルは、そこで一度、言葉を切った。しかしミレイユの目は、その瞬間「奥様」がそっとドレスに隠れた腕を押さえる仕草をしたことにドキリとする。
いや、侯爵様が、何とも言えない目で、ジッと、自分の妻の仕草を見ているのが恐ろしかった。
侯爵様自身の様子は全く変わらないのに……
「だから、ヴァルツ伯爵家のお嬢様が、こちらの奥様だと聞いて…… 殺されるかもしれないから、二人で逃げようってずっと言ってくらい……です」
沈黙が落ちる。
その沈黙を、エレーナが穏やかな声で沈黙を破った。
「もう、わかると思うけど。あなたが見ていた『お嬢様』は、ヴァルツ伯爵の娘ではないわ」
ミハルが、顔を上げる。
「元平民の義母が、連れてきた自分の娘を『この家の娘です』って言ってたの。本人もそのつもりだったみたいね」
「じゃあ、お嬢が、本物の、お嬢様で?」
ニコッとしたエレーナの顔を見る二人の口は、半ば開いたままだった。
「じゃあ、ミハルがヒドい目に遭った娘って……」
そこで、言葉を切ったのは、あまりにも重大なことだと、ミレイユは即座に気付いたからだ。
普通の解釈で言えば親子で「平民の娘を貴族の娘だと偽った」といいう大罪である。
しかし、ヴァルツ伯爵家と言えば歴とした貴族家なのに、本当にそんなことがあるのだろうか?
「じゃあ、あのお嬢様はニセ、痛い!」
ミレイユが、ギュッと脚を踏んだのだ。ミハルが「何」を言うつもりなのか気付いたからだ。
男爵家の娘であるだけに、ミレイユは、三春がその先を言うと、重大な「告発」になりかねないと読んだためだ。
「痛い、痛いよ、ミレイユ。アンタ、足グセが悪いんじゃ亡いの? なんで足を踏むんだよ! ……え?」
さすがに、全員の空気が「言うなよ」となっていることに気付いたミハルである。
ミハルは理解した。んんっと、ノドの奥で何かを飲み込んでから、エレーナに救いを求めるように言った。
「だから、だれも、お嬢の名前を言わなかったんだ」
「ええ。そうね」
エレーナは肯いた。
「私の名前は、家の中で、誰も呼ばないようにしていたから」
その言葉に、ミレイユの表情がわずかに歪む。
侯爵は、その場で初めて口を開いた。
「一つ、確認させてほしい」
低く、静かな声だった。
「君は、彼女――エレーナを、一度でも暴力を振るう側として見たことがあるか」
ミハルは、即座に首を横に振った。
「ありません。そりゃ、あの家の中で、話をする余裕なんてなかったですけど……」
言い淀みながらも、はっきり言った。
「女主人に他の子が殴られた時、他の子をかばってました」
エレーナは、少しだけ目を伏せた。
「ふむ」
侯爵が一つ頷いてから、エレーナに向けて言った。
「君は、そんな時でも強かったのだな」
「いえ。私はそんな……」
その時、侯爵の手が初めてエレーナの手をキュッと握ったのである。




