第41話 元気でいれば、また会える
侯爵家から差し回された馬車の中で、二人は言葉を交わしている。
ミハルの言葉だけが、妙に重く、真剣だった。
「ミレイユ、ねぇ、やっぱ、逃げようよぉ。絶対ヤバいって」
「また、それ? あんたの勘違いよ。手紙だって見せたでしょ?」
「いくら字が綺麗だって、心が綺麗だとは限らないじゃん」
城館からの遣いが来て「ご都合の良いときに、遊びに来てほしいとのこと」という、驚天動地の報せが来たのは一週間前。
それ以来、ミハルは「逃げよう」「ヤバい」「殺されるかも」と、冗談抜きで顔色が悪い。
どんな時も、大好物のトロリと蜂蜜を垂らしたガレットがあれば、瞬時に機嫌を直すミハルだ。
それなのに、侯爵家から下賜された「ゴーフル」が喉を通らなかったのだから、重症だ。
それもこれも「奥方様はヴァルツ伯爵家のお嬢様だよ」とミレイユが教えた時から、ずっとである。
「あんなに性格の悪い女だよ? きっと、伯爵サマの家から逃げ出したアタイを見つけたんで、折檻するつもりなんだ」
ミレイユが聞き出した「ヴァルツ伯爵家の娘」は、自分が知っている女性とは、別人にしか思えないほどに、違った。
「機嫌が悪いと、ちょっとしたことで鞭を振るう」
「給仕の仕方が悪くて、淹れ立て紅茶を顔に掛けられた」
「朝の起こし方が悪い、と三日間食事抜きになる」
「すぐに怒り出すから、逃げ遅れると大変」
その他、あれもこれもどれも、全て「貴族家の娘」とはイメージがかけ離れている。
そんな「娘」のたった一つだけ良いコトがあった、とミハルは、乾いた声で笑いながら言った。
「食べ方が、お貴族様っぽくないから、あれなら、お貴族様もウチらと似ているんだって、安心できたよ」
そこまで話すと、少しだけ首を捻ってから、ミハルは付け足した。
「一度、伯爵家で罪人のメイドの監視役をしたんだけど、アッチの方がよっぽどお貴族様みたいだったよ。お貴族様の家って不思議なんだねぇ」
ミハルが、気楽に話せたのは、ただその話だけ。あとは横暴、暴虐な「お嬢様」と、安い給料で我慢できず、すぐに逃げ出した。
もちろん、紹介状を書いてもらうどころではなかった。
「命の方が大切だからね」
そこまで言わせる「お嬢様」には驚くが、ミレイユの知っている「侯爵家の可憐で、上品、知的な奥様」のイメージと全く結びつかないのだ。
「ひょっとしたら、伯爵家には、娘が二人いたとか?」
当然の推理だが、すぐさま、自分自身で否定できる。
男爵家の娘だけに、貴族名鑑を覚えているのは当たり前。記憶に寄れば、ヴァルツ伯爵家の娘は一人だけだった。
ところが、ミハルの記憶では「そんな名前聞いたことがないよ」である。
といっても、実際、三ヶ月ほどだとは言え、実際に生活をしたミハルの言葉を頭から否定するわけにもいかない。かといって、侯爵家からの「遊びに来て」を断れるわけがない。
かくして、顔色を青くするどころか、紙のように白くして、足元すらおぼつかないミハルを支えながら、案内されたのは、侯爵家の気品ある応接室である。
テーブルには、見たこともないようなお菓子と、香気だけで「飲んだことない!」という高級そうな紅茶がおかれている。
もちろん、奥方様が現れる前に、手を付ける無礼などするわけがない。
――このまま時間が経てば、あの紅茶も冷める。火傷までしなくて済むかも。
ミハルの目は、お菓子よりも、湯気の立つ紅茶に釘付けられたままだった。
緊張の面持ちで、待っていると、小さなノックがした後、現れたのは、品の良い男性である。
その背中を通り抜ける騎士達。
ゴクリ、と息を呑むミハルは、自分達を捕まえるのだと覚悟した。
だが、三人の騎士は、軽く頭を下げると、壁際に、生真面目な顔で立っただけ。
貴人の面会ではよくある「護衛」ということ。
さすがに、ミレイユは『そりゃ、侯爵様だものね』と当たり前のことと受け止めて、ミハルに「大丈夫。普通だから」と小声で言い聞かせた。
幼馴染みは、今にも腰を浮かせて逃げようとしているのに気付いたからだ……
「奥様が、いらっしゃいます」
慌てて二人は立ち上がって、カーテシー。
男性が恭しい動作で、開いたままのドアに一礼した瞬間、現れた簡素なドレス姿。
「ようこそ」
足取りも優雅に入ってくと現れた女性は、鈴を転がすような声で「よくきてくだっさいました」と続けた。
その瞬間だった。
ミハルの反応は早かった。
「お嬢! 何してるの、こんなとこで!」
全員がギョッとしてミハルの方を見たが、本人は、目を丸くしたまま、部屋を見回している。
――逃げ道を探してる?
幼馴染みだけに、ミレイユはすぐさま理解したが、護衛たちは、動かないまでも、警戒の目。
しかし、ミレイユは「お久しぶりです、奥様」と、挨拶を先にしたのだ。
「久し振りね。それに、ミハル! あなたが言った『元気なら、また会える』って、ホントだったわね」
「え?」
エレーナとミレイユを交互に、何度も見比べるようにして、ミハルは言った。
「えっと…… お嬢が、奥様? え? え? え?」
クスッと笑ったエレーナは「そうよ。お嫁に行くって言ったでしょ」と、イタズラな顔で笑ったのである。
すぐ後ろで、介入するタイミングを失った侯爵様は、なんとも気まずい表情で、見つめるだけだった。
しかし……
ミハル自身はまだ知らない。自分の言葉が、どれほど重い意味を持つ証言なのかを。




