第40話 信じるということ
午後の執務室に差し込む光は、すっかり春めいたものになっていた。
侯爵は影の者からの報告書に目を通している。
内容は簡潔だった。
ミレイユ・フォン・リーベルト。男爵家三女。現在は領内の商会にて見習いとして勤務。評判は良好。金銭面の不正なし。揉め事に関わることはあるが、発端は常に相手側。解決は理にかなっており、周囲の信頼も厚い。監視中の不審な行動は見受けられない。
ここまでは、前回と同じ。何度、どの角度から調べても、不審な点は見つからない。
ペラペラペラと、すっかり分厚くなった報告書の最後に「それ」があった。
同居人についての、王都まで行っての調査だ。
慣れた「家」の調査だとは言え、距離の分だけ時間がかかった。
平民のミハル。
先日までヴァルツ伯爵家にて使用人として勤務した娘である。
ミレイユの同郷の娘であり、関係性は「幼馴染み」
伯爵家メイドをやめた後、頼ってくるのは不思議では無い。
だが、それが「仕組まれたもの」であったら?
頼ってくるのは自然だと思えるだけに、間諜としては、上出来な部類だろう。
そのため、こちらで「本人がなんと言っているか」と言うこと以上に、ヴァルツ伯爵家周辺の調査が大事だった。
現在はミレイユの借りている部屋に一時的に身を寄せているが、問題行動なし。
伯爵家メイドを辞めたのは給金が安く、仕事が大変だから。
ここ数年、絵に描いたように同じ理由が付いている。
不審な点は見受けられない。
何よりも……
侯爵は書類を閉じ、しばし視線を机の上に落とした。
情報として、これ以上のものは出て来ない。
となると、これ以上探って、余計な影を落とす方がマイナスとなるだろう。
エレーナの手元に届いていた手紙のことも、当然、関連して考えてはいる。
どうやらミハルは、ヴァルツ伯爵家で「最後に友だちになった女の子」のことを何も知らされてない。
これも事実。
エレーナから手紙については、折々に聞いていたが、内容は、街の様子のことばかりだった。
春祭りの片付け、新しい菓子屋の話。市場の賑わい、出回り始めた野菜のこと。
どれも他愛のない内容だった。
侯爵家に取り入ろう、見返りを求めようとする気配は感じない。
――すくなくともミレイユは問題はない。ならば、同居人のミハルも、と判断するのは簡単だった。
だが、それ以上に大切なのは、その判断をどう扱うか、だ。
侯爵は椅子から立ち上がり、執務室を出た。
午後の読書の時間のはずだと、足を向ける。
静かな図書室の一角で、エレーナが姿勢正しく机に向かっていた。開かれているのは王国史ではなく、古典の詩集らしい。
エレーナらしい、と心の中で微笑む侯爵である。
「侯爵様」
声を掛けるまでもなかった。彼女はすぐに気付いたのだ。
パッと立ち上がった姿に、驚いた感じはない。
微笑みを浮かべ、侯爵のところに、自然と脚が動くのが愛しかった。
しかし、と侯爵はエレーナに不信を与えぬように努めて、表情を保った。
そこに鈴を転がすような声が凛として響いた。
「もう、お仕事はよろしいのですか?」
「一段落した。少し、話がある」
そこに、とエレーナを誘って、手近な椅子に腰を下ろした。
微笑みと共に、自分を見る目に確かな「信頼」が宿っているのが、侯爵にとって嬉しかった。
「手紙のやりとりは、続いているのか?」
「はい。ミレイユが、2日に一度は必ず。ありがとうございます」
普通は手紙には届ける手間賃がかかる。
侯爵の手配で、街にある詰め所に渡すだけで、必ず届けてくれることになっていた。
もちろん、エレーナが手紙を出すときは、リディアに頼むなり、他の侍女に頼んでも、すぐに使者を出してくれる。
申し訳ないとは思ったが「これも、大事なコトだ」と、むしろ気を使わぬようにと厳重に言い含められている。
「いや、あなたに楽しみができるのは良いコトだ。それに、簡単に出られない分、こうして手紙で知るのも大事なコトだ」
「そう言っていただけると。はい、街の様子をいろいろと教えてくれるのが、とっても楽しくて」
そこに、一切の迷いを感じない。素直な答えだった。
「街のいろいろな動きがあるんだなって。初めて知ったこともいっぱいあります。本だけだと、わからなかったことがばかりです」
侯爵は頷いた。
「それは良かった。ところで、ミハルという名を覚えているか」
一瞬だけ、エレーナの目が大きくなる。
だが、驚きよりも先に、感情が浮かんだ。
「はい。前にお話ししたとおり、最後の数日は、あの子がそばにいてくれました。友だち……になれたと思ってます」
言葉を選び、そして、はっきりと言った。
「会えたら、嬉しいです」
その時、侯爵は「自分の用件を正しく理解しているのか」と驚いたのをおもてには出さなかった。
まさしく、侯爵が聞きたいのは「それ」である。
エレーナは、侯爵がわざわざ、この文脈で「ミハル」の名前を出したのなら、会いたいか、という質問であろうことは容易に理解できたのである。
侯爵は、感心しつつも、聞きたいことはわかった。その一言で十分だったのだ。
「わかった。こちらで手配する」
「ありがとうございます。お任せします」
その言葉は、委ねるものだった。侯爵を信頼し、自分にとって、最大限に「嬉しいことにしてくれる」という信頼だ。
侯爵は立ち上がり、扉へ向かいながら思う。
あらゆるものから囲ってしまうのは、守っているように見えても、それは「監禁」と同じである。
守ることは、縛ることではないのだから。
任せられると判断したなら、任せる。
相手の意志を尊重する。
それが、侯爵の、そしてエレーナ自身もできるようになったことであった。
それこそが「信頼」と言う言葉になると、二人は気付いていたのだろう。
廊下を進みながら、侯爵は静かに次の指示を組み立てる。
会わせるべき場と順序を整える。
春は、もう始まっている。
芽吹くものを、踏み潰さぬように。
それが、今の自分の役目だと、はっきりわかっていた。




