第39話 邂逅
祭の熱は、街の奥へ行くほど濃くなっていた。
露店の呼び声が重なり、香りが入り混じる。人の流れは一様ではなく、立ち止まり、また動き出す。エレーナは、先ほどよりも少しだけ侯爵の腕に近い位置を歩いていた。
それは意識したというよりも、人の気配が増えた分、自然と距離が縮んだせいだった。
通りの角を曲がったところで、強い声が聞こえた。
「ちょっと! 支払いは昨日までの約束でしょ。それを平気な顔をして」
「だから! 今日の売り上げから払う、つってんだろ!」
「その仕入れ分の支払いはどうするのよ」
「うるせぇ女だな、全く!」
「払うものを払わないなら煩くもなるわ。ガキの使いで来たんじゃないんだからね」
張りのある声が響いて、周囲の雑音を押しのけていた。
エレーナは足を止める。
露店の前で、若い男と一人の女性が向き合っている。男は声を荒げ、女性は一歩も引いていない。いや、引かないどころか、指で露店の札を叩き、理路整然と何かを告げている。
「約束が、一つ違って、ほおかむりしようっていうんでしょ? それなら、今、あんたが言ってる『明日の支払い』だってわからないじゃないの」
「あ~ もう! あぁ言えば、こういう、口の減らねぇ女だ」
女は、街の娘にしては髪が長いが、その髪をキリッとまとめ上げ、けっして服装だって悪くない。
口調は強いが、それなりの商売に関わっている人間に見える。
「うるせぇって言ってるんだろうが!」
男が拳を振り上げた瞬間だった。
「そこで、やめておけ」
低い声が、割って入った。
背筋の伸びた男が、露店の影から姿を現したのだ。
登場した男は名乗らなかった。しかし、立っている姿勢と威圧する視線だけで、腕を振り上げた男には十分だった。
振り上げた腕は、しおしおと、垂れ下がった。
周囲の空気が、一気に落ち着いた。
「今日は、祭だ。揉め事は、こちらで預かる」
「預かるって言っても、うちはいただくものをいただかないと、帰れないんですよ」
「わかった。こちらが責任を持って支払わせよう。確か、お前は、ベリーズ商会の者だな?」
女は、そこで一気にトーンが下がった。
「あぁ。わかりました。ご領主様のところが責任を持ってくださるというなら、ちゃんと商会長にも伝えられるし」
それで決着がついた。
露店の主は深く頭を下げるしかない。同時に、登場した男は「これで解散だ」と言わんばかりの仕草をすると、人の輪は、すぐに別の賑わいへと流れていった。
その場に残ったのは、件の女性だけだった。
「ありがとうございました」
女は護衛に頭を下げると、見つめているエレーナに気付いた。
視線が合う。
驚きが一瞬、女の顔を走り、次いで、興味が湧いたのだろう。
「奥方様?」
問いではあるが、確信が混じっている。
エレーナは、ほんの少し戸惑ってから、頷いた。
「はい」
女は、ぱっと表情を明るくした。
「やっぱり! 噂どおりだわ。あ、ごめんなさい。名乗りもせずに」
一歩、距離を詰めてくる。商人特有というよりも、おそらくは、この女性の人懐こさが発揮されたのだろう。
「ミレイユ・フォン・リーベルト。リーベルト男爵家の三女です。今は、ベリーズ商会の商いを手伝っています」
侯爵が、静かに視線を向ける。
名に、聞き覚えがあった。
「リーベルト家か。それが商会の見習いを?」
「はい。失礼しました。ご領主様」
言葉は軽いが、礼は欠かさない。
エレーナは、その様子を見て、どうやら侯爵様を過度に恐れているわけではないと気づいた。ひょっとしたら、大きな商会で、ある程度は知っているのかもしれない。
エレーナは、少し興味が湧いた。
「先ほどの方は?」
「いつもの揉め事です。春の祭に合わせて、仕入れるだけ仕入れて、支払いはできる限り逃げ回る。姑息なやり口をする露天商が多くて。催促して廻ってるんです」
ミレイユは肩をすくめた。
「でも、今日は運が良かった。城館の方が早かったから。いっつも、こんな風なら、どれだけ楽なんだろ」
ケラケラと笑って見せるミレイユだ。
一歩遅れて『やはり』とエレーナの胸が、小さく跳ねる。侯爵の配下が、陰に日向に、今日だけは周りに大勢いるのだろう。
ミレイユは、笑いを収めてから、小さく肩をすくめて見せた。
「あ、今のは、聞かなかったことにしてください。けっして、城館の方々を軽く見ているわけではないので」
笑って誤魔化すが、目は誤魔化していない。おそらくは本音。
後ろの侯爵に向かって、さりげなく「もっと見回りを増やせ」と言っているのだろうと、察する程度にはエレーナも頭が回る。
侯爵は、何も言わなかった。ただ「聞き置こう」とだけ呟くように言った。
「まぁ、ご領主様、なんて素敵な! あ、違いますよ? 奥方様、素晴らしいご領主様という意味ですからね」
エレーナは「相手を男性と見て、声をかけているわけではない」という意味に気付かず、キョトンとするばかり。
「祭は、これからが本番です」
ミレイユは、エレーナを見て言った。
「もしよければ、奥の広場も見ていってください。春一番の踊りが始まるので」
その言葉に、エレーナの目が、わずかに揺れる。
「踊り?」
「ええ。見るだけでも、楽しいですよ」
侯爵を見る。そこにあるのは「許可を求める」というより、気持ちを伝える視線なのが、今の二人の関係なのだろう。
「時間はある」
短く答える。
ミレイユは、にっと笑った。
「決まりですね」
そう言って、先に歩き出した。その後をゆっくりと追う二人。
人生が、楽しくて楽しくて仕方ないと言いたげな背中だな、と何となく思ったことを、後で侯爵様に言ってみよう。
そんなことを考えながら、市場の奥へと進んだのだった。
――王都にて――
第三王子リュシアン・アウレリアは、窓辺に立っていた。
「アルヴェイン侯爵家は、領都に悪い噂がなかったって?」
目の前にひざまずく男に、確認のような声をかけている。臣下に気を使う必要を、一切感じてこなかった人間の声だった。
「はっ。前回も申し上げましたとおり、領内での評判は極めて良好です。夫婦での視察が、最近は増えたとのことです」
「夫婦で、か」
視線を外へ向けたまま、王子は小さく息を吐いた。
記憶にあるのは、コレージュの図書室で静かに本を読む、同い年の少女。
あるいは、男女を問わず、級友に取り囲まれ、花のように笑顔をほころばせる姿だ。
近づけなかった理由は、いくつもあった。
――立場も、環境も、そして、あの途中からヤッて来た邪魔者のせいだ。だが、何よりも、自分が男として目覚めるのが、あまりに遅かった。
「リセで、立て直せると思っていましたが、まさか、でしたからねぇ」
男の前ではあるが、それは返事を一切期待しない、それどころか、男の存在すら忘れた、独り言そのものだった。
「どうやら、遅かったようですね」
報告役は、王子の独り言に言葉を挟む無礼などしない。
王子は、再び、男の存在を思い出したように視線をさげた。
「構いません。今は噂を集めるだけでいい。まずは、知ることが大事ですからね」
視線が、遠くへ向かう。
春は、もう動き出している。
それが、どこへ向かうのかを知るのは。もう少し、先でいい。




