第38話 春を迎えて
街に近づくにつれて、音が変わった。
馬車の車輪が石畳を叩く響きの奥に、笑い声や呼びかけ、どこからか、微かな音楽までもが聞こえてくる。
冬の間は控えめだった人々の気配は、春を迎える喜びとなって、陽気な賑わいという形で溢れていた。
前回と同じところで馬車が止まる。
「祭の最中だ。人出が多い」
侯爵の声は落ち着いていたが、いつもより周囲を見る視線が多かった。
前回と同じ四人の護衛が、馬の手綱を取って降りる。目立たせない配置だが、隙はない。エレーナは、その様子を見て「この前と同じですね」と言いかけた。
何か、違う気がする……
エレーナは、そこで口をつぐんだ。
侯爵が何も伝えてないということは、知らぬフリをしていて良いということだと信じたからだ。
侯爵様のエスコートで馬車から降り立った瞬間から、街の空気が違った。
視線が、音が、人の流れが揺らめいている。
露店が並び、色とりどりの布が風に踊る。焼き菓子の甘い匂い、香草を煮る匂い、どこかで鳴る笛の音。
まだ、温かいとは言えないのに、人々は冬用の重たい外套を脱ぎ、身軽な装いで歩いている。
人々が心躍らせる姿だった。
「すごい……」
思わず漏れた声に、侯爵が横を見る。
「どこの街でも行われる春を迎える祭だが、領都だけに、大勢が集まる」
春を迎える――喜び。
その言葉を聞いて、真っ先に見たのは、侯爵様だったことに、気付いてしまった。
侯爵はエレーナの視線の意味に気付かぬのだろう。そっと左のヒジを差し出してきた。
そっと、そこに右手を載せると、エレーナに気遣いながら歩き始めた。
人の流れが変わるたび、半歩前に出て自然と庇う仕草になっている。
その間も、視線はエレーナと街の姿を往復するのに忙しい。
視察、という名目だった。
露店の配置、通路の幅、人の滞りやすい場所。侯爵は時折足を止め、商人に短く声をかける。堅苦しさはないが、誰もが一瞬、背筋を伸ばす。
声をかけられた人も、掛けられなかった人々も、あるいは窓越しに侯爵夫妻の姿に注目していた。
その様子を、エレーナは一緒に歩きながら見ていた。
みんな、嬉しそう。
活気に溢れていた……
誰かが笑い、誰かが値切り、誰かが呼び止める。冬の間、内に閉じていたものが、外へ向かって動き出した姿だった。
「こうして、領民たちは、長い冬とのケジメを付けているのだ」
「楽しそうです」
そんな会話を、何度かしたときだった。
少し先で、尖った空気を感じた。
露店の一つで、言い争う声。
男の怒鳴り声と、若い女性の声が争っている…… いや、どちらかといえば、女性にやり込められた男が、怒鳴っている感じだ。
人だかりができ、通路が塞がれ始めた。
侯爵が、ふっと視線を動かした。
同時に、人影が一つ、言い争う渦の中に滑り込んでいく。
エレーナは、はっとして目を凝らした。
今、誰かが動いた?
けれど、四人の護衛は全員、視界にいる。
大声はいきなり止まった。
何を言っているのかは聞こえなかったが、確実に空気が変わった。
「……あれ?」
人だかりが、自然とほどけていく。
さっきまで荒れていた男は、口をへの字に曲げて、恥ずかしさを誤魔化すように店先の品物を並び直していく。
一方で、さきほど、整然と、しかしキッパリとした声を上げていた女性のツカツカと去って行く後ろ姿は颯爽としていた。
周囲の人々は「もう終わったのか」と興味を失ったように散っていった。
侯爵は、そちらを見もしない。しかし、さりげなく立ち止まっていた。
ただ一度、何もないはずの通路の影へ、短く視線を送っただけだ。
エレーナの胸が、遅れてドキドキした。
「今のは?」
小さく尋ねると、侯爵は歩き出しながら答えた。
「問題は解決した」
それだけ。
だが、エレーナは気づいてしまった。
やはり四人の護衛だけではない。見えない場所に、もっと多くの人がいる。
視線の先、建物の影、人の流れの切れ目。
さりげなく立ち位置を変える人影が、いくつもある。
「前回より」
言葉を探す。
「思っていたよりも大勢の人が……」
侯爵は、肯いた。
「私のためでしょうか?」
「祭は人が多い。浮かれる者も、気が大きくなる者もいる。派手なケンカになる前に抑える方が、上手く行く」
言い訳じみている侯爵の言葉だ。エレーナは、息を整えながら頷くしかない。
私は、思っていた以上に、大切に守られている。
風に当たることを許された上で、安全とバランスを侯爵様が誠実に守ろうとしてくれているのだと受け止めた。
しかし、侯爵はエレーナに伝えてないことがあった。
影にいた者たちから、既に報告は上がっている。
「最近さ、アルヴェイン侯爵家のことを、やたら聞いて回ってる人がいるらしい」
「王都にいる、かなり高位の貴族の手の者らしい」
「関心を寄せているのは、侯爵が妻とどんな関係かということ」
そんな情報を複数から聞いている。だから、それを知った上での護衛であるのだ。
侯爵は何も言わない。しかし、その暖かな眼差しがわずかに変化しているのをエレーナは気づいた。
冬の名残は、もうない。
冷たさを恐れる理由も、今はない。
街は動き、人は笑い、守りは影にある。
春を迎える、というのは――
こうして外に出て、戻ってこられる場所があることなのだと、エレーナは静かに理解していた。




