第36話 近づくということ
侯爵家のエッグベネディクトは、基本形以外に、いろいろなソースをシェフが工夫する。
今日はオランデーズソースを使っている。レモンのほのかな香気が、朝食の場まで鮮烈にしてくれる気がした。
――侯爵様にも、同じ皿が用意されているのね。
後でリディアに、こっそり尋ねると、侯爵様の注文が「同じものが食べたい」となったらしい。
二人で囲む朝食のテーブルで、同じものを食べられる幸せは、エレーナの心を、確実に温かくしていた。
だからこそ、なのだろう。清新な朝食風景は、静かでありながら、和やかさを伴った空気だった。
相変わらず、侯爵の言葉は少ない。だが、温かい眼差しをエレーナは受け止めていたし、訥々とした会話の中にも、優しさが垣間見えている。
それは、長年侯爵家に仕えてきた者が見ればわかる程度に、機嫌の良さを示す姿であった。
どこかで、その様子を見ていたのだろうか。珍しく、朝一番の執務に取りかかる前に、マルセルがやって来た。
「お館様。昨日は、ご馳走になりました」
届けさせたクグロフのことを言っているのであろう。しかし、と侯爵は内心で首を捻っている。
それをわざわざ、朝一番で言いに来るものだろうかと。
「大奥様手ずからのクグロフが、この世で最上のものかと思っておりましたが、昨日のものは格別でございましたな」
マルセルが実直な家臣の表情を崩している。それは「好々爺」と表現すべき顔だった。
「確かに、昨日のクグロフはなかなかのものであったが」
「失礼ながら……」
「?」
「お坊ちゃまにとっては、特に美味であったかと愚考いたしてございます」
長らく忘れていた、子ども時代の呼び方であった。
いったい、何を? と問い返そうとしたときには、マルセルの表情は「図書管理者」の実直なものへと戻っていた。
してみると、何かを言いたいのだろうか?
「奥様はますます、勉学に前向きになられていらっしゃるご様子。本日は朝食後に、次の本をお出しする約束をしておりましたので。これにて失礼いたします」
侯爵に「何も問わせない」と言わんばかりの口上で、マルセルは、さっさと引き上げてしまった。
あの表情、あの呼び方。
いったい何を問わんとしているのか、答えが見つからなかった。
その答えは意外なところに、見つかった。
朝の執務が一段落したところに、リディアが顔を覗かせたのだ。
「失礼します」
「何かあったか?」
エレーナ付の侍女が、自分を訪ねてきたのだ。何か困った問題が発生したに違いない。
声は落ち着いていたが、いささか、鋭い目となったのは、問題を見極めたいという内心の発露だったのだろう。
しかし、リディアは意外なことを言ってきた。
「お館様の、お仕事の様子をうかがいに参りました」
「どういうことだ」
「奥様が、侯爵様のお時間に昼食を合わせたいとのことです」
「いや、仕事の時間はどうしてもずれる。オレに合わせる必要などないと言ってくれ」
「なるほど。では、奥様に『オレに合わせる必要はないとおっしゃっていました』とお伝えいたしましょうか?」
ふと侯爵は気が付いた。
侍女の微笑と言われる「主を諫めるときの笑顔」をリディアは作っていた。
「いや、それはだな」
マルセルの次は、リディア。いったい、今日は何事があるのかと、視線を机に落とした。
「クグロフを持ち帰ることをねだられた時は、笑顔でいらっしゃいました」
「それは、その程度のこと。彼女が初めて、したいことを言ってくれたのだ。そのくらい…… そのくらい?」
リディアは、そこで別の微笑を浮かべていた。
「後ほど、仕事のご都合をセドリックから聞いておきます。それと」
その時のリディアは、笑顔を消した代わりに、昨日クグロフの店で見せた、生温かい表情である。
「『オレに合わせる必要はない』は、お伝えしなくても?」
即断即決を旨とし、何事も迷いなく執務をこなす侯爵が、答えに躊躇した一瞬である。
「……伝えなくて良い。いつも彼女が食べている時間に、必ず合わせる」
今度はリディアが、一瞬黙る番であった。瞬きを二つするだけの時間を取ってから「申し上げます」と、少しだけ口角を上げて許可を求める。
眼差しで許しを得たリディアは、口を開いた。
「お館様。家臣の身ではございますが、女として申し上げたきことがございます」
「あ、うん。許す。教えてくれ」
「むしろ、お館様に合わせたい。それが奥様のご意志かと存じます」
「合わせたい、か……」
「僭越な言葉、心からお詫びいたします。くれぐれも」
その後、侯爵に発言させれば、きっと家臣に対するものではない言葉になるのを知っているかのように、リディアはさっさと下がっていったのであった。
一人、執務室で窓を見るカシアン侯爵は、呟くしかない。
「オレからも、近づけということなのだろうな」
戦場で気後れしたことなど、断じて、一度もなかった。だが、昼食に向かうときに、どんな顔を作れるのか、はなはだ心許ない気分となったのである。




