第35話 初めての、わがまま
護衛が走っていった。
おそらく、先に店に行ったのだろう。侯爵様が知らんぷりをなさっていたので、エレーナはあえて尋ねない。
そして、いざ店の前まで来ると、もう一人の護衛が、侯爵と視線を交わして、一歩下がった。
いったい何が? と思ったときには、侯爵様自らが扉を開けてくださった。
レディーファースト!
その言葉は、コレージュでも聞かされてきたけれども、男の子たちが理解するのはリセに上がるころ。エレーナには縁のないものだった。
――「レディー」になってから、初めて。
嬉しさと照れくささにエレーナの胸は高鳴ってしまう。とっさに顔に出さないようにと思った。どこまで成功したのかはわからない。
「ありがとう…… ございます」
そう言うのがやっとだった。
菓子屋の扉が開いた瞬間から、お菓子を焼き上げた甘い香りがふわりと流れ出しいる。
目の前には、護衛の人と並んで、店主とおぼしき男性と、店主の妻だろうか? 下働きの人まで総出で緊張の面持ち。
そうか……
ひょっとしたら、大それたお願いをしてしまったのかもしれないと、今さらにエレーナは後悔した。
――いくらご領主様でも、侯爵様がお菓子屋さんに、気軽に来るなんて普通はありえないこと。
店主は、頭を下げたまま、上ずった声を出した。
「ご、ご領主様……!」
言葉が出せなくなった分だけ、さらに礼を深くした。
「顔を上げてくれ。突然ですまないな」
侯爵は落ち着いた声で言った。
「菓子を見せてもらいたいだけだ。構える必要はない」
「は、はい……!」
明らかに全身をしゃちほこばらせた夫を横目に、店主妻が半歩前に来た。
「うちには、貴族の方にお見せできるような菓子はございませんが」
そこで「むしろ自分が」と判断したエレーナが声をかけた。
「こんにちは」
柔らかく、しかし、よく通る声だった。
「いらっしゃいませ。このような小さな店にようこそおいでくださいました。奥様」
深々と頭を下げる
「郷土史で、この街のお菓子のことを読みました。クグロフを見せてくださいますか?」
「貴族の奥様がクグロフをご存知だなんて。田舎の菓子でございますよ?」
「はい。けれども、昔から、こちらでは大切にされてきたお菓子だと書いてありました。それに……」
ここは、喋ってもいい。エレーナは信じた。
「お館様も、子どもの頃お好きだったそうです」
「まぁ!」
目を丸くして、一瞬伸び上がるような仕草の店主妻。
一方で、店主は、一歩引いた分だけ「領主様がお好きだった」という驚きを、少しだけ余裕を持って受け止めた――美しい奥様のはにかむ笑顔を見て、慌てて領主様の顔を見た。
その瞬間、店主だけではなく、リディアも、護衛たちも心から驚いたのである。
笑顔を見せたエレーナを、侯爵様は優しく見守っているどころか、微笑んでいたのである。
ご領主様が笑顔を見せたという驚きが通り抜けると、残ったのは「ご領主夫妻の仲睦まじい姿」である。
奥様が優しく領民に話しかけ、それを微笑ましく受け止める領主の姿。
一気に、店内は緊張から「若夫婦への優しい空気」がふわりと広がったのである。
店主妻は、素早く、その空気を受け止めた。
「こちらです。今お持ちするよりも、店ではこのように飾っていると、お見せした方が良いかと」
店内には、素朴な棚に、焼き菓子の入ったカゴが幾つも並んでいる。
そして、中央に、それがあった。
「この波打った線の小さな山みたいな形がクグロフの決まりみたいなんもんなのです」
近づくエレーナの後ろから侯爵が言葉を被せてきた。
「子どもの頃、曾祖母が作ってくれたのも、同じ形だった」
「まあ、ご領主様の…… なんとまあ」
地元の伝統的な菓子を、領主様が好きだったと言うだけでも驚きだ。それなのに、曾お祖母様が作ったという話には、店主も、店主妻も「ありがたい」と呟くのみ。
そこからクグロフにまつわる話をいくつも聞き、街の人たちがいかに大切にしているかを聞いて、エレーナはすっかり満足顔。
「話はそれで?」
終わったのかと侯爵様が言うと、エレーナは「はい。ありがとうございます」と微笑む。
その笑顔を見た侯爵は「店主」と低い声で言った。
「土産に、あるだけもらおう」
「え! あの、今、この三つだけでして」
「そうか。それで良い。全部、邸に届けろ」
それは、貴族として、ごく自然な判断だった。けれども、エレーナが「あのっ」と声を上げたのである。
エレーナが、オズオズと、しかし、決意をした表情で侯爵を見た。
一瞬、言葉を飲み込みかける。けれど、エレーナは思い切って言った。
「……一つだけ」
視線を上げ、続けた。
「一つだけは、持って帰ってもいいでしょうか」
言い終えてから、わずかに緊張した様子で唇を結ぶ。
侯爵は一拍、間を置いた。
「もちろんだ」
声は、いつもよりわずかに柔らかかった。その瞬間、店主妻は、飛ぶような勢いで、とっておきの包み紙を取りに戻ったのであった。
エレーナの「初めてのわがまま」に、侯爵は、表情を変えぬように努めていたことを誰も気付かなかった――ことになったのは、身分は低くても、年の功であったのであろう。
邸に戻ると、クグロフはすぐにサンルームへと運ばれた。
二人が向き合って座っている。
切り分けようとして、エレーナは反射的にナイフの方へ手を伸ばしかけた。
その前に、侯爵の手が先にナイフを取っていた。
「……あ」
小さな声に、侯爵は視線を上げずに答えた。
「私が切ろう」
刃を入れる位置を確かめるように、ゆっくりと切り始める。
「子どもの頃、いとこたちと遊んだ後に、大お祖母様がよく焼いてくれた」
淡々とした語り口だった。
「皆で分けるから、切るのはいつも私だった。大きな菓子は、誰かが均等に切らねばならない。それが役目だと思っていた」
切り分けられた一切れが、皿に置かれる。
「だから、慣れているのだ」
そう言いながら、次の一切れに刃を入れた。
エレーナは、何も言わずに見ていた。
侯爵様は、子ども時代の思い出を言い訳にして、切ってくださっている――それを信じられたから。
皿を受け取り、一口。
「美味しいです」
その言葉に、侯爵はほんのわずかに口元を緩めた。
窓から差し込む午後の光の中で、紅茶の湯気がゆっくりと立ち上っていた。
エレーナは思う。
街で浴びた視線も、この静かな時間も、どちらも自分の居場所なのだと。
イチャラブの苦手な作者ですが、目一杯甘いシーンを書いたつもりです。
もしも、良かったら、日曜日の晩、切ない物語もいかがでしょうか?
文芸カテゴリーですが「悪女の最後の手紙」
一万字の作品ですが、読み直したくなる逸品に仕上げたつもりです。




