第34話 街に出ると言うこと
馬車の扉が閉まる音は重厚だった。乗る人の安全を第一に考えた造りなのだと感じた。
柔らかな内装の座席に腰を下ろしながら、エレーナは自然と背筋を伸ばす。
『こうして並んで座るなんて恥ずかしいけど』
乗る時に、さりげなく手を貸してくれた侯爵は、当然のようにエレーナの横に座った瞬間の、驚き。
まだ胸がドキドキしている。
けれども、考えてみれば当然だった。
――夫婦なのだから。
向かいには優しい笑顔を浮かべた専属侍女のリディア。侯爵様の向かいには、もう一人のメイドが緊張の面持ちで控えている。
外から、蹄の音が重なって聞こえた。
馬車の外を騎馬が護衛するなんて、まるでお姫様扱い。
侯爵家に迎えられた時のことを思いだした。あの時は、王命で迎える花嫁への敬意だと思ったけれども……
エレーナは、ドキドキを押し隠すようにして言葉にした。
「護衛の方が、多いのですね」
窓に向けての自然に見える話題だ。隣に座る「夫」という存在を見ぬフリをして喋るには、それしか思いつかなかった。
侯爵は、エレーナの視線に被せるように、同じ方向を見ながら、答えた。
「四人だけだ。領内だから、これで十分だと思う。実際、領地内の治安はかなり良い」
馬車は、屋敷の門を抜け、整えられた道を進んでいく。
馬車も、そして道そのものも、きちんと整備されているのだろう。王都で、子どもの頃に乗った伯爵家の馬車よりもはるかに揺れが少ない。
――どちらも、侯爵家の代々の統治がきちんと行われている証拠なんだわ。そして、私は、その家に迎えられた。
妻という立場の柔らかさはわかっていても、この土地を統べる人の横にいるのだということは、甘やかさと同時に緊張を産んでいる。
道ばたの人々は、ごく自然な形で敬意を見せ、馬車に向かって頭を下げて行く。
――それが、侯爵家の紋章ということなのね
緊張を少しでも、自分の中で紛らわせたいから、つい、言わずもがなの護衛のことに話題が戻る。
「少し出かけるだけでも、これほどの人数が付くのですね」
それは、素直な驚きでもあるが、侯爵は、わずかな間を置いて、エレーナに目を合わせた。
「私一人なら、もっと少なくてもいい」
それは、気負いも自慢もなく、説明をしているだけ、といった淡々とした声だった。
「街での用事だけなら、金銭や書類の管理で、秘書代わりが一人いれば足りる」
それは事実なのだろう。
何しろ英雄侯爵なのだから。
侯爵はそこで言葉を切り、エレーナと視線を合わせてきた。
「君が『護衛が多い』と感じたのはわかる。だが、これは最低限だ。守りたいものを守るために、私は何かを惜しむつもりはない」
はっきりとした言い方だった。
言葉にはしてないが「君を守りたい」という断固たる決意が、温かく伝わってくる気がした。
エレーナの胸が、わずかに詰まる。
――最低限。
ふと、昔の記憶がよみがえる。
まだ「ご令嬢」だった頃、母と出かける時ですら、護衛が同乗するのが常だった。もちろん、馬車の中には入れないから、後ろの「フットマンスタンド」に従者と共に立っている。
それで十分だと疑わなかったし、そういうものだとも思っていた。
――違う。
侯爵家の馬車は、今、当然のように外から守られている。人々は、守られている侯爵家の馬車を当然のこととして受け止めている。
それは力の誇示ではなく、義務であり、責任だった。
「侯爵家は、本当に、高位貴族なのですね」
ぽつりと漏れた言葉に、侯爵はわずかに眉を動かす。
「そうだな。それを言うなら、伯爵家も本来は高位貴族の一員ではあるが、侯爵家となると、少々、違ってくる。子どもの頃と見える風景は違って当然だと思ってほしい」
あえて、侯爵が「子どもの頃」という言い方をしたことに、小さな驚き。あえて「今までとは」と言わなかった。
――侯爵様は、全部、ご存知なんだわ。
エレーナは、小さく首を振った。
「なんとなく、今、実感しました」
馬車は、街への道をゆっくりとたどった。
距離はあっけないほど近いらしい。街の気配が濃くなるまで、ほとんど時間を感じてない。
やがて、道行く人々が増え、同時に人の声や、荷車の軋む音、商いの呼び声、そして様々な「暮らしの音」が聞こえてくる。
「着きます」
御者の声とともに、馬車が減速する。
止まると同時にフットマンがキャリッジ・ステップを用意する気配が、小気味良いほどのテンポだ。
「到着いたしました、開きます」
声をかけられてから、一瞬の間を開けて扉が開かれる。
外の空気が流れ込んできた。
侯爵が、スッとステップを踏んで降り立ち、手を差し出してくる。
侯爵の手は「手」ではあるが、同時に信頼であり、温かさなのだと思いながら、エレーナが手を載せる。
ステップに降り立った瞬間、感じたのは視線。そして微かなどよめき。
街の入口に停まった侯爵家の馬車に、人々の視線が集まるのは当然なのだろう。
人々の視線に載せられているのは、敬意と、期待…… 好意だと思えた。
空気が、ふわりと動く。
「……まあ」
「奥方様、お綺麗だよぉ」
「噂どおりだな」
「さすが、ご当主様。お似合いのご夫婦ね」
いくつもの囁き声が、重なり合って聞こえてくる。
当主への遠慮や気遣いはあっても、全ての声に載せられているのは、ただ、まっすぐな賛辞だ。
エレーナは、思わず息を詰めた。
こんなふうに、人の視線を浴びたことはなかった。
温かく、やわらかく、祝福するような眼差し。
侯爵は、何も言わず、半歩前に立つ。守るようでいて、隠さない距離。
まるで「妻」をひけらかすように、胸を張りつつも、大切に隠しておきたいと言わんばかりの背中に見えた。
それだけで、十分だった。
エレーナは、すっと背筋が伸びる。
――私は、ここにいていい。
そう思えた。
「馬車は民の迷惑になるといけないので、ここまでにした。この奥に、君の目的の店があるのだが」
言い訳をする子どものような口調は、エレーナを歩かせることへの、ためらいらしい。
「ありがとうございます。あの、街を見られるのはとっても嬉しいです」
「そ、そうか……」
言葉に詰まった侯爵は、スッと左腕を軽く曲げて差し出してきた。
エレーナが、自然と、ヒジのちょっと先に手を載せる。
え?
人の気配に敏感なエレーナだからこそわかる。
――侯爵様が、緊張を?
いったいなぜ、と考える間もなく、いや、エレーナに何も考えさせたくないと言わんばかりに、寡黙なはずの侯爵様の言葉が次々と降り注いだ。
「クグロフを扱う店はたくさんある。古くから、信頼されている菓子屋が、この先で」
侯爵が「いくぞ」という前に歩き出してしまうが、エレーナは自然な形で並んで歩けた。
エレーナの方を見てないが、歩く速さを目一杯気にしているのが伝わってくる。
温かい人。
「ほら、あの店は、私の子どもの頃からの店だが、最近代替りしてね。あっちは、我が領でも最近売り始めた革細工の……」
エレーナは、その一つひとつに頷きながら、その隣をゆっくりと歩いていた。




