第33話 学び直し
領地にいる分だけ、普段出来ないところまで書類仕事が進んでいる。
早くも夕方の赤みを帯びた陽が差してくる執務室には、マルセルの指示で灯りがついていた。
「本日からは、通常のディナーにいたしましたので」
「うむ」
ヴァルツ伯爵家の長期に渡る虐待の事情を踏まえて、食事の内容や、マナーを忘れていても困らないように、と準備はしておいた。
いざ迎えてみれば、食べられる量は少ないが、所作は、貴族家の令嬢のものだ。おそらく、幼い頃の母親が丁寧に躾けたのだろうと思わせられた。
それでも、食べやすいもの、身体に負担を掛けないものをと考えてきたが、ここ最近、急速に食べられるようになってきた。
「貴族家の食事」とは、単に栄養の話だけではなく、自尊心そのものだ。それを考えて、ようやく「侯爵家の最高の料理」を出す決断をしたのが昨日のことである。
「厨房は、張り切っておりました」
後で労ってやってほしいというマルセルなりの頼みである。
「うむ。楽しみだ」
マルセルは、左の眉だけをわずかに上げて見せた。
侯爵が、食事について「楽しみだ」ということは珍しいのだ。しかしすぐに、それが「食事の中身そのものの話ではない」ことを察したのはマルセルならではである。
「それでは、失礼いたします」
スッと出ていくマルセルとすれ違うようにして入って来たのはセドリックである。
「今日も、王国史だったのか?」
「リセで学ぶレベル以上のものを、とお望みでしたので。しかしながら、お示ししたものは、今日で全て読破されたようです」
わずかに驚きを示す侯爵に、セドリックは控えめに、肯いてみせる。
「なるほど。時が経てばたつほど、本物だとわかるな」
そこにも、同じように肯いて見せたのである。
――王国史。
誰かに勧められたわけでもなく、課されたものでもない。
それを読むという選択を、彼女自身がしている。
そのことが、妙に心に残った。
恐らく、そんな報告がキッカケだったのだろう。
その日のディナーのテーブルでは、いつもよりも少しだけ早く、会話が始まったのである。
侯爵家のシェフが久し振りに「最高のお料理を召し上がっていただく」と考えられたメニューが進んでいく。
二人のテーブルは、いつもと変わらぬ穏やかさに包まれる。
侯爵は、スープを一口飲んでから、ふと視線を上げた。
「セドリックから聞いた。最近、王国史を読んでいるそうだな」
柔らかな言葉は、エレーナの言葉を引き出そうとするものだ。
エレーナは、一瞬、目を瞬かせてから小さく頷いた。
「はい」
それだけで終わらせることもできたはずだが、彼女は少し考えるようにしてから、言葉を続けた。
「……リセに通っていれば、学ぶはずだったことですから」
恥ずかしそうに言ってから、スープを一口。
マナーの悪い人間だと、食事をしながらの会話は、ともすると不快を与える。しかし、少なくとも数年間は、まともなテーブルに着いていないエレーナの挙措は完璧だった。
今では、二人の間で、安心して食事と会話を両立させる和やかな空気が醸成されていた。
「歴史や制度のことは、コレージュでも学びましたが、成立した過程となると、もう少し深く学ぶ必要があると思っていました」
侯爵は、すぐには返事をしなかった。
――学ぶはずだった。
その言い回しが、胸に引っかかる。
「通っていなかったのは、知っている。病弱であり、学問を嫌ったからだと届けられていた」
短く、低い声だった。
エレーナは、スプーンをそっと置いた。
「ええ。義母が、そう届けたと」
哀しげに目を伏せるが、それは言葉を仕草で補って見せただけ。
つまりは「事実と違う」と言っているのだと理解した。
一拍、間を置く。
そこに魚料理が運ばれてきた。
舌平目のボンファン。クリームで仕上げたソースは侯爵家のご自慢ではある。
だが、シルバーの使い方ができてないと、悲惨な食べ方になるという悪魔のような料理ではある。
しかしエレーナは、何のためらいもなく、ナイフとフォークを使っている。
一口食べた後、美味しい、と嬉しそうに声を上げた。
テーブル脇に控える給仕は、嬉しそうに、そしてホッとした笑顔を静かに浮かべている。
それを見ないまま、エレーナは、小さく首をかしげながら話し始めた。
「実際には、教科書を何度も見ました。手伝ってと頼まれましたから。でも、課題の部分を理解するのが精一杯だったのです」
感情は、ほとんど乗せず、まるで、他人事のような語り口だった。
侯爵が、頭の中で「だから、あの妙な手紙だったわけだな」と、冷たい苦笑いめいた感情を抑えていることに、エレーナは気付いてない。
「なるほど。だから、セドリックの出してきた本を読みこなせたわけだ」
「少々、難しい部分もありましたが、今まで疑問だった部分も理由がわかって、なんだか頭の中がスッとした感じもあります」
今度は侯爵が二口目を飲み下しながら「あの専門書が、少々難しいだと?」と驚いている姿だ。もちろん、それを言葉に出さずに、話題を動かした。
「リセに通わせなかったのは、他にも理由がありそうだな」
半ば独り言のような物言いは「辛いなら、聞こえなかったことにしていい」ということでもある。
しかし、エレーナは、喋る方を選んだ。
「これは、言われていませんが、人と関わらせたくなかったのでは、と考えたこともあります」
「なるほど。君は、そう理解したのか」
「コレージュは、既に入学しておりましたから。もともと友だちは多かったのです」
「君なら、そうだっただろうね」
「ありがとうございます」
と小さな声。
実際には、コレージュ時代には優秀で、真面目、そして人望を集める存在だったらしい。
教師たちの証言は、すでに揃っている。
「お母様が亡くなられてから、妹さんといつも一緒でした。ご不安が大きかったのでしょうね」
その裏で「何」があったのかも調査済みだが、そこまで喋らせるのは食事の場ではふさわしくない。ただ、エレーナが助けを求める手段を、徹底的に潰すやり方だったという理解はしている。
侯爵にとって、今さらの怒りではなく、静かな確信として胸に落ちた後だ。だが、それについては、別に考えるべきこと。
今は、目の前にいるエレーナこそが、全てである。
「王国史も、細かくなると、この領地の話も出てくるのでは?」
エレーナは、給仕が骨を外して取り分けた舌平目を、きれいに食べ終えると、少しだけ身を乗り出した。
「ええ。自分のいる場所が、本で語られるのは何とも不思議な感じでした」
それは本が好きなもの特有の感覚であることを侯爵も知っていた。
だからこそ、さらに話を深めてみたのだ。
「何か疑問は出なかったか?」
侯爵の言葉を、まるで拾うように、給仕が「トゥルー・ノルマンでございます」と小さな声。
青リンゴを使ったソルベだ。
スプーンで、軽やかな動きですくうと、エレーナは口に運んだ。
「美味しい。青リンゴのソルベ…… 本当に、久し振り。そして、幼い頃に食べたどのソルベよりも美味です」
チラッと目を給仕に向けたのは「ありがとう」という感謝の言葉だ。
侯爵夫人の素直な評価と感謝だ。頬を紅潮させた給仕は、身体をカチコチにして、小さく礼を返すのがやっとである。
「そういえば」
二口目を食べた後エレーナは「わからないことが一つありました」と、微笑んだ。
「郷土史なのですが、このあたりの伝統料理が出てくる箇所がありまして」
「ほう?」
優雅に、しかし素早く、ソルベを食べ終えてから、エレーナは続けた。
「クグロフというお菓子の名前が出てきたのですが…… ご存知でしょうか? 料理に関する本には、載っていなくて」
侯爵は、ほんのわずかに目を細めた。
「この街で知られている菓子だ。私も子どもの頃、よく食べた」
フィレ肉のソテーが運ばれてきた。
サーブされている間に、首を捻った侯爵は、フォークとナイフを取り上げながら、傷だらけの顔に笑顔を浮かべて、小さな声で言った。
それは、もしもマルセルが聞いたら「緊張なさっていらっしゃる」と微苦笑を浮かべるような響きだったのである。
「明日は、店が開いているはずだな」
それは、思いつきのようでいて、考え抜かれてきた言葉だった。
「よければ、一緒に見に行くか」
いかにも、ポンと出た提案、という口調だ。
エレーナは、驚いたように一瞬だけ目を見開くと、すぐに視線を伏せた。
「……ご迷惑では?」
「迷惑なら、言わない」
それだけで、十分だった。
エレーナは、静かに息を吐いてから、頷いた。
「では…… ぜひ」
お互いが、お互いに、緊張し…… そして、笑顔になったのであった。
食卓の空気は、変わらず穏やかなままだったが、侯爵の胸の内では、確かな感触が生まれていた。
蛇足です
ご存知の方にはごめんなさい。
格式の高いディナーでは
舌平目は丸ごと一尾、骨付きで皿に登場します。
給仕が静かにナイフを入れ、骨を外し、身を左右に分ける
レモンを軽く絞り、バターの香りが立ち上るところを
美味しくいただきます。
この「給仕が骨を外す」という儀式が
手間を掛けたおもてなしの象徴となります
古典フレンチの格式を象徴するシーンです。
けど、手間がすごくかかるし
給仕の技術も下手だと悲惨なことになるため
これができるのは
高級ホテルくらいだと思います。




