第32話 取り残された場所
「おはようございます」
朝一番の教室には、いつもの人たちが顔を揃えていた。
「「「「「おはようございます」」」」」
朝の挨拶を、誰もがきちんと返してくれる。
いつもの朝だけど、最近、妙に教室の空気が軽い。
挨拶は返してくれるけど、名前を呼んで、親しみのある笑顔は見せてくれない、視線を、微妙にズラされていることに気付き始めた。
後から入ってきた「おはよう」には、ちゃんと笑顔と共に、女子同士の軽いタッチが付いてくる。
「おはよ、ケイティ」
「おはようございます。サマンサ様」
呼び方は違っても、二人は軽いハグと共に、ふわりとした会話になるのが普通だ。
「先日手に入れたお茶が、なかなかなの」
「あ、東方のモノですね」
「えぇ。ぜひ、近々、お招きしますね」
「ありがとうございます。光栄です」
親しげに見える会話。もちろん、そこには越えてはならない距離が、当然のように存在していた。
教室に身分は持ちこまない。それはリセの大事なお約束だが、立て前でもあるのだ。
お互いに「友だち」ではある。だから一方的に命令したり、一方的に従属する態度を取ると顰蹙を買う。
しかし、卒業と同時に――あと数ヶ月で、身分社会の現実に向き合うのだ。
特に女子は微妙に距離を測るのが普通だった。
高位貴族は親しみを見せながら距離を保ち、平民は距離を守りながら親しみを演じる。その違いは、教えられずとも、誰もが知っていることだった。
その程度の使い分ができないようではリセに来る資格などない。
だから、クラリスは「伯爵という高位貴族の娘」として振る舞ってきたし、周囲も、そのつもりで接してきたはずだ。
それなのに、今は距離だけを感じている。
クラリスは、自分の席に座りながら、急に濃くなった違和感を噛みしめていた。
数日前までは、違っていた。
教師の注意は厳しかったが、それでも「期待されている」感覚があった。未提出の課題について、日々、注意を受け、早く出すように督促されていた。
二言目には厳しい声で「高位貴族家に属す者として、自覚しなさい」と叱られるのも、身分ゆえのことだと思っていた。
けれど、今週に入ってからは、明らかに違う。
教師は、クラリスをまともに見てこない――正確には、見ているのに、注意をするしないではなく、自分から関わろうとしない。
特に、担任は、課題に苦しむクラリスを叱咤しつつも、常に励ましてくれていたのに……
「先日提出してもらった課題のできは、おおむね良いみたい。今のところ呼び出す予定の人はいません」
微笑を浮かべた担任がクラスを見渡して告げると、クラリス以外の全員が、ホッと安堵の息を吐く。
「試験の結果はご存知でしょ? 今までの課題や試験結果を総合して判断しますが、あまり心配はいらないわ。あ…… でも」
担任が言葉を切った瞬間、安堵の空気が固まった。
「安心したせいで、毎年、ここからウエストサイズを直す人が出てしまいますからね、気を付けることよ?」
今度は、一斉に、わっという笑い声。
卒業パーティーのためのドレスの話だ。
私語こそ始まらないが、親しい女子同士が目線で何やら会話をする、卒業前の和やかな空気に満ちた教室。
しかし、その中に「クラリスが課題を出せなくて危ない」という配慮は一切入っていないのだ。
実際には、既に締め切りが過ぎたのに、課題は出せてない。
――ひとつも、だ。
『私は悪くないのに! エレーナが死神と結婚したとかで思い上がっているのがいけないの。言いつけた課題を、今までみたいに、やらないのだもの!』
しかし、さすがに「それ」を教師に言ってはならないという程度のことは、クラリスだってわかっている。
担任は、卒業式前の最後の授業を始めた。
その日、担任から名前を呼ばれることはなかった。
クラリスは、息が詰まるのを感じた。
――私は無視なの?
それは、叱責よりも、ずっと重い。
いつもなら、休み時間ごとに話しかけてきた「友人だと思っていた人たち」は、そそくさと、どこかに行ってしまう。
教室にいるのは、今まで、交流の少なかった人ばかり。この空気の中で、自分から話しかけに行くだけの強さなど持ち合わせていなかった。
以前なら、誰かしらが声をかけてきたのに!
課題の愚痴、試験の出来、教師の噂話。
なにも、ない。
けれども、卒業前の緩んだ空気の中、教室のあちこちに笑い声がある。人の輪が、いくつもできている。けれど、そのどれにも、自分は含まれていなかった。
まるで、透明になったみたいだ。
クラリスは、机の上のノートを睨んだ。
どの課題も、白いまま。
「今さら、書いたって」
小さく呟いた言葉は、誰にも届かなかった。
最後の授業が終わった後、担任に呼び止められた。
今日、初めて、まともに自分を見てくれた。――憐れみの目で
先日の会議室には、教務主任の男性教師が待っていて「座りなさい」という前に、事務的な表情のまま言った。
「率直に言おう。卒業は難しい」
それだけだった。
「学園の規定では、来週、あなたの親に連絡をするつもりだが、ある程度、心の準備をするために、先に伝えることにした」
「来週……」
クラリスは、それ以上声が出なかった。
「以上だ。帰ってよろしい」
それ以上、話す必要も内容も無い、と言いたげな顔だ。クラリスは頷くことしかできなかった。
家に帰る馬車の中で、頭の中がざわつく。
――留年。
言葉にすると、現実になる気がして、考えないようにしてきた。でも、はっきりと告げられてしまった。
もう、帳尻を合わせる段階ではない。
「……おかしいわ」
クラリスは、独り言のように言った。
自分は「選ばれる側」のはずだった。母はいつも言っていたではないか。
「だって、ヴァルツ伯爵家の娘で、あなたは綺麗よ。その上、リセを卒業する才媛ですもの。引く手あまたになるわ。選び放題ね」
甘やかな未来を「選ぶ」側だったのに……
そこでムクムクと、頭をもたげてきた。
「でも、喪うのは卒業という言葉だけかも」
自分は「才媛」と言う言葉を喪うかもしれないが、それだけだ。代わりに、今や「ヴァルツ伯爵家の唯一の娘」というカードを握っている。
――困ったら、結婚すればいい。
その言葉が、ふっと浮かぶ。
リセを出られなければ、社交界での立場も危うい。しかし、婚家が、侯爵家……いや、公爵家であれば、そんなのは、どうにでもなる。
――だって、現実に、リセに入れなくても侯爵夫人なった人がいるのだもの。それで、何の問題があったというの?
クラリスは、冷たい笑いを一つ、吐いた。
――まあ、さぞかし、ひどい目に遭っているのでしょうけど、それはエレーナですから、当然だわ。
問題は……義父ね、と思いが至る。
実際問題、ほとんど話したことがないので、自分に関心があるのかはわからない。
「でも、伯爵家を継ぐおムコさんが必要なはずよ。必要以上に、私を叱るかしら?」
未来が見えた気がした。
「だったら」
クラリスは、ゆっくりと立ち上がった。
「先に、決めてしまえばいいのよ」
書庫から「貴族名鑑」を持ち出してくると、クラリスは、ノートを取り出した。
自分から机にノートを出したのは、何ヶ月ぶりだろうか。
各貴族家の家族の概要をまとめた、貴族家の必須の本だ。
とはいえ、リセ卒業間近の高位貴族の娘なら、普通は丸暗記していて当然とされている。社交とは、相手のことを知ることが第一歩なのだから。
親が、そのように教えるものなのだが、父親は一切干渉してこなかったし、オデットは、それすら知らなかった。
だから、クラリスは初めて開いたのである。
――この中から。
クラリスは、唇を噛みながらも、必死になって、自分と同じくらいの子息の名をメモし続けたのだった。




