第30話 伯爵家の沈黙
王宮に構えた執務室で、アルベルト・ヴァルツ伯爵は、いつも通り書類の山に向き合っていた。
仕事は良い。正直だ。
報告を読み、条文を当てはめ、予算を合わせれば、結果がちゃんと出る。結果が出なければ、部下を派遣して調査し、調整をする。それでもダメなら自ら赴く。
利害関係が難しくても、伯爵でもあり、王室からも信望の厚いアルベルトが自ら利害関係者に会えば、引き下がるしかない。
それで万事上手く行った。
手間を惜しまず、労苦を厭わず、形式を踏み、報告と連絡、そして相談を怠らないことをモットーに、働いてきた。
結果が出るのは当然である。
……少なくとも、この部屋では、それが常識だった。
「なぜ、そこで止まるのだ」
このところ、ほんの些細なことから調整が難しくなり、問題解決が停滞する現象が起きていた。特にアルベルトが自ら交渉すると覿面である。
大事な所で、相手は、ほんのわずかに微妙な表情を浮かべ、見えないところで、嘲笑を浮かべる。理屈ではない何かの力が働いているとしか思えない。
アルベルトなりに、その違和感に困惑するばかりである。
「全く。ヤツは、どうかしているんじゃないか?」
そういう人間に捗らぬ交渉をした後、部下に愚痴るようになった。部下たちは、曖昧な顔をして、生返事をするばかり。
いったいどう対処するべきか、解決の糸口が見つからない。これが、表面化した反発や抗議なら、いくらでも対応ができる。しかし、つかみ所のない空気のような、それでいて濃密な何かが、事象とアルベルトの間に存在している気がするのだ。
したがって、微妙な案件であればあるほど、困難な度合いが大きくなっていく。
あらゆることが以前と同じなのに、結果が変わった。感じたことのない困難に、居心地の悪さを覚えつつも、アルベルトは一心不乱に仕事を進めようとしていた。
今日も、調整不能に陥ったケースにどう対処しようか頭を悩ませていた時、控えめなノックがあった。
「入れ」
現れたのは、オデットだった。
「ここに来るなと、ついこの間、言ったはずだが?」
オデットの持ち場は、伯爵家の中である。しかも「ただ一人の娘」が結婚して出ていったのだ。もはや、管理すべきことは少ない。
わざわざ、顔を出してくる意味がわからない。
唯一の問題点は――「ペンディング」という決着をしておいた――侯爵家との関係性。
わざわざ、ここで報告すべき何かが生まれたとは考えにくい。
ただでさえ、仕事に支障が出ているのだ。家庭という些事に煩わされる余裕などないのである。
しかし、オデットは引かなかった。視線は落ち着かないが、いつも通りに一礼すると、机の前まで、足取りに迷いはない。
「旦那様。外で、噂がかまびすしくなっております」
「噂など、放っておけ」
「ですが」
オデットは口を噤みかけて、しかし言った。
「侯爵家が伯爵家を拒絶した、となると、お仕事にも影響はございませんか」
アルベルトのペン先が止まった。
以前なら、無視できたはずだ。しかし、微妙な何かに妨げられている今としては「侯爵家からの拒絶」という言葉は無視し難い。
しかし、いったい何を拒絶しているというのだ?
とっさに浮かんだのは、返事が来なかったという事実。だが、それを思い出しても、困惑が先に立った。
「拒絶、という表現は不適切だ」
「ですが、社交界では、そのように」
「社交界がどう言おうと、事実は事実だ。娘についての照会に侯爵家が返事をしないだけのこと」
口に出してみて、アルベルトは自分の言葉に引っかかった。
返事をしない?
返事がない……
それは、説明を要しないほど軽い扱いだと、侯爵家が判断したという意味にもなる。
アルベルトは、この「報告」を無視することはできなかった。オデットが家庭管理者として、報告に来たのだ。これを無視すれば、それは自分のモットーに反することにもなる。
アルベルトは、椅子に深く腰を沈めると、再びオデットを見る。
「それで、噂というのは何だ」
オデットは、少しだけ安堵したように息を吐いてから、慎重に言葉を選んだ。
「侯爵様が、奥様を、とても大切にしているのではないか、と」
「馬鹿馬鹿しい。そこに何の問題があるのだね?」
「旦那様。伯爵家から迎えた奥様を侯爵様が大切にしていることと、実家を拒絶したと言うことを、世間では結びつけている気がします」
実際、社交の場では、二つを結びつけて囁かれていることが多い。貴族の夫人方から無視されがちなオデットにすら聞こえてくるのだ。
もはや、ウワサではなく「事実」として受け止められているのだろうと、オデットは感じている。
しかし、それを伯爵にどう伝えるべきか、今も迷いながら喋っていた。
その声に、微かな焦りが混じる理由は一つ。噂が広がるということは、どこかに、根拠になる何かがあるということ。その何かは、おそらくオデットにとってろくでもないことに違いない。
それが伯爵の耳に届いたら……
何とか、ウワサよりも先に、自分の話を伝えておきたい。それが焦りを生んでいる。
オデットの焦りにも気付かずアルベルトは眉根を寄せた。
「大切にするなどという感情の話など、取るに足りん。しかも、王命で娶った妻だ。大事にするのは当然ではないか」
「しかし、感情で流れた噂ほど広がります」
アルベルトは、鼻で息を吐いた。
感情。ウワサ。そんな曖昧なものに、国の運営を左右されてたまるか。
「こちらが余計なことをすれば、面倒が起こる。王家も動いていない。ならば、静観すべきだ」
彼は、自分自身に言い聞かせるように続ける。
「娘の件も、時間が経てば落ち着く。侯爵が不満なら、いずれ何か言うだろう。何も言わないのなら問題はない」
その「問題はない」が、どれほど危うい結論か、アルベルトはまだ理解していなかった。
なぜなら、彼の世界では――「言わない」ことは「ない」ことと同義だからだ。
沈黙が「意志」である可能性など、仕事では考えない。なぜなら、仕事の書類は沈黙しないのだから。
オデットが小さく唇を噛んだ。
大きな流れが起きている気がしていた。
今まで、伯爵が家のことに一切関心を向けないことを利用してきた。いずれ、誰の記憶にも残らない存在になればいいと考えてきたのに、あと一歩まで来た。やはり、エレーナを外に出してしまったのが間違いだった。
死神侯爵という言葉を信じたのに、話が違う。
社交界でも、自分に対する視線が日増しに厳しくなっているし、このままだと、伯爵が自らの手で調べ始めるかもしれない。
いや、そもそも、エレーナの件が表沙汰になれば、その時、伯爵家がどうなるのか。そうなったら、元平民の自分の末路は厳しくなるに決まっている。
オデットにすら、これから、とんでもないことが起きることがわかる。
しかし、それを、言葉にすることは難しすぎた。今日は、噂を先に耳に入れた。それだけで十分ということにしよう。
「承知いたしました」
オデットは形式的に頭を下げた。
アルベルトはペンを取り直すと、紙の上の世界へ戻った。
そこには、理解しなくても処理できるものだけがある。
だが、執務室の外の世界は違う。理解しない者を、容赦なく置き去りにする。
窓の外では、今日も王都が動いている。噂が走り、空気が変わり、選択肢が閉じられていく。その渦中に、自分の娘がいるという事実だけが、今になって、かすかに、アルベルトの胸を叩き始めていた。




